2021年9月9日木曜日

2021.5.16 本日の宣教

 『 毎日、その日の恵みを降らせる神 』 (出エジプト16:1~5)

イスラエル民族にとって、エジプトを出た後の荒野での40年間は人間的な目から見ると、試練の時ではありましたが、信仰の目から見ると、カナンの地に相応しい聖なる神の民を作るための神による訓練の時であったと言えます。荒野の試練は“神がどのようなお方なのか”を知るための時であって、インマヌエルの神の臨在を、身をもって体験できる恵みの時であったのです。とりわけ、長い間、奴隷の習慣が身についていたイスラエルの民を変えるために荒野は最高の場所であったわけです。

聖書は、エジプトを出たイスラエルの民が早速、水のないことと食べ物がないことで不平を述べ立てたことを記します。もともと彼らが神に叫んでいたことは、エジプトでの奴隷の身からの解放であったはずです。神が彼らの叫びに答え、御業によって彼らを奴隷の身から解放してやりますと、解放の喜びと感謝は一瞬のうちに消え失せてしまい、“水がない!食べ物がない!”と不平を述べ立て、さらに“エジプトの方がましだった”という嘘まで作り上げてしまう姿を目の当たりにします。まさしく、目に見える状況に左右されてしまうイスラエルの民の姿であり、私たちの姿です。

そこで神は、エリムの水を、また毎日の糧として朝には「マナ」を、夕方には「うずら」を与えてくださいます。とりわけ「マナ」には、神の民を試みるための特別な掟が定められていたことを教えられます。まず、毎日、「朝毎に自分の食べる分に応じて、一人当たり一オメルを集める」ということでした。すなわち、神は毎日、神の民に一日分の糧を恵みとして備えてくださるということでした。欲張って二日分を集めたとしても、残りの分は虫がついて臭くなってしまったことを聖書は証言しています。続けて、「それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るべきだ」と教えます。ここにこそ、神の国の法則が示されていると言えます。マナ(神の恵みの糧)は多く集めた者も少なく集めた者も足りないことがないように、それぞれの必要に応じて、かつ、みんなが均等に分け合うために与えられたものでした。神の御前では、すべての人が平等であり、差別があってはならないことを教えているのです。イスラエル共同体の中には体が弱く、マナを集めることができない人もいたでしょう。また、子どもも、異国人もいたはずです。そこで神は、毎日、すべての人がそれぞれ必要に応じて分け合うべき糧としてマナを与えてくださったのです。真に神は、すべての者の神であることを心に刻みましょう。特に、資本主義において、弱肉強食という欲望の論理が優先され、日に日に貧富の差が広がる世界にありながらも、荒野のマナを通して示された神の国の生き方を広める神の家族であるように…。最後に、「マナ」は安息日のために備えられた糧であると教えます。もともとマナは、日が高くなると溶けてしまう特徴をもっています。しかし、安息日のために集めた二日分に限っては、臭くならず、虫もつきませんでした。これには、マナの安息日の掟を通して、神を礼拝することの大切さを教え、創造の神が与えられた安息を、すべての人が味わう恵みとして示しているのです。人はパンによって生きるのでなく、神の口から出る言葉によって生きるのです。

新型コロナウイルスという荒野の時を過ごしている私たちです。そして、神は荒野での毎日、マナの恵みを教えられたように、コロナ危機の日々、すべての人に毎日の恵みの糧を備えてくださいます。ぜひ、欲望が勝る世の価値観ではなく、すべての人がそれぞれ必要に応じて分かち合う神の国の価値観を選ぶ神の家族あるように…。ハレルヤ!


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