『 神の子たちの現れるのを求む 』 (ローマの信徒への手紙 8:19~22)
「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。…被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。(ローマ8:19~20、22)」
この箇所には、とても興味深い言葉が登場します。それは、「被造物」が「神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいる」と言うのです。ここでの「被造物」とは、神によって創造された自然世界のことを指します。天と地、山と海、石や木々、また、動物や植物、すなわち全ての自然世界が含まれます。そのような自然世界すべてが「神の子たちの現れるのを」「切に待ち望んでいる」ということ、それだけではありません。22節にあるように、「すべての被造物が、今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」というのです。…パウロはそのことを「知っている」と断言しているのです。
創造者なる神が世界を造られた時には、罪のない祝福された世界でした。しかし、人間が罪を犯し堕落してしまうことによって、人間だけが呪われたのではなく、自然世界もすべて呪われることになったのです。(創世記3:17~18参照)神が創造された時の自然世界はまさに天国そのものでしたが、人間が罪を犯すことによって、土は呪われ、人間の欲望による破壊によって、環境は汚染され、ゴミ箱のような世界と変わったのです。すべての被造物は、共にうめき、産みの苦しみを味わう中で死んでいくことになりました。
始めに、神が創造された世界をご覧になった時には、「極めて良かった!」と叫ばれるほど、神の栄光と喜びであった自然世界でした。しかし、人間の罪と堕落によって、その存在の意味や目的を失ってしまったまま、うめき、苦しむようになった。「造られたもの」ならば、必ず「造った方」からの意味があり、造った方の目的があるはずです。聖書はそのことを、造り主なる神と、神の代理なる人間との交わりの舞台として、神の栄光を賛美するために自然世界は創造されたと書いています。だからこそ、すべての被造物は、「神の子たちの現れるのを」切に待ち望むわけです。私たちキリスト者が御子イエス・キリストによって生まれ変わり、神の子として現れるようになれば、すべての被造物はその存在の意味を満たされ、創造された目的を全うすることになるでしょう。
創造者なる神は、私たちを神の子として現させるために、神の独り子をこの世に贈り、その独り子によって全く新しい神の子として生まれ変わるようにしてくださいました。その新しく生まれ変わった神の子たちによってすべての被造物も本来の姿を回復することになるのです。そういう意味で、環境運動は救われたキリスト教会と神の子たちに託された使命であると言えましょう。そうです。自然破壊の犯人は人間の欲望であり、罪です。ですから、自然世界を救う唯一の道こそ、神の子たちの現れることにあるのです。神の子たちは、新しく生まれ変わった神の子としての価値観をもち、常に神の御心に適うことを心がけながら歩むことになります。あなたは神の子として相応しく現れていますか。自然世界が神の子たちの現れを待ち望んでいることを心がけながら責任のある歩みを始めましょう。ハレルヤ!
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