『 聖霊による再創造 』(詩編51:12~14)
聖書は「神の御心に適う人」という言葉を用いて最も偉大なる信仰の人としてダビデ王を挙げます。その反面、聖書はいかに偉大な人であっても、その人の罪と弱さを赤裸々に明かすことで、神の前に完全な人は一人もいないことを教えています。その通り、聖書は、偉大な神の人ダビデが、他人の妻であったバト・シェバに姦淫の罪を犯した後、その夫のウリヤを死に追いやる罪人として紹介します。そのダビデの罪に対して、神は預言者ナタンを遣わし、ダビデの罪を告発されます。預言者ナタンの言葉を聞いたダビデは直ちに神の前に進み出、自分が犯した罪を悔い改め始めることになります。詩編51編は、姦淫と殺人罪を犯してしまったダビデが、神の御前に進み、真心から罪を悔い改め、すべてを新しくされる神の恵みを乞い求める懺悔詩となっています。
人が神に求めるべき最も大いなる恵みこそ、罪を赦していただくことであり、赦されたことを心から信じることでしょう。人は自らの罪を清くすることはできません。罪を赦すことのできる方こそ、聖なる神お一人です。ダビデは自分の罪を一つ一つ告白し、赦しを求めます。また、その罪をぬぐい、生き方を変えていただくことを祈ります。もちろん、人は自分が犯した罪を、自分自身の力で解決しようといろいろと試み悩みますが、すべての罪を赦し清くするのは神にしかできないことを知らなければなりません。そのことをよく知っていたダビデは、本日の御言葉を通して、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。(51:12)」とすべてを新たに創造される神の御手にゆだねます。とりわけ13節の言葉でダビデは、罪を犯したことによって訪れるべき最も恐ろしいことを告白します。「御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。」…ここで、「聖なる霊を取り上げないでください。」とありますが、イエス・キリストの十字架の贖いの恵みに与ったキリスト者にとって、聖霊様が取り去られることはありません。しかし、旧約時代の聖霊は罪のあるところにはおられませんでした。その人がたとえ、偉大なる信仰者のダビデであっても、彼が罪を犯し汚れた生活のままであれば、聖霊は彼から去られるしかありませんでした。実際、聖霊が去られるということを経験した人として、サムソンとサウル王がいます。ダビデ王もそのことをよく知っていたと思われます。「聖霊を取り上げる」ということほど信仰者にとって悲しく恐ろしいことはないのです。
神の家族の皆さん、主イエス・キリストの贖いによって罪赦され、聖霊の神殿とされたことを讃美しましょう。聖霊は主イエスの十字架の血潮のゆえに新しく創造され聖くされた者を離れることはなさいません。しかし、聖霊の神殿とされた者が罪を犯してしまう時、聖霊は深く悲しまれることを覚えましょう。「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。(エフェソ4:30)」、また、「“聖霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“聖霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。(ローマ8:26)」にあるように、聖霊は神の子どもたちの罪も、弱さも、様々な心の葛藤もご存じであって、人格的な交わりの中で執り成してくださるお方であるのです。
ペンテコステ(聖霊降臨)の恵みをいただいた私たちは、聖霊の臨在を日々経験しながら、聖霊の再創造の働きに自分自身をゆだね、罪の誘惑と心の葛藤と弱さに打ち勝てる恵みを生きたいものです。ハレルヤ!
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