『 真の平安を得るために 』 (テモテへの手紙二4:1~5)
ペンテコステおめでとうございます。主は常に私たちと共におられ日々の生活は恵みに満たされています。私は前回、農園を離れ転職すると申し上げましたが、諸事情を考慮し再び農園に戻ることになりました。聖書には農夫が度々登場します。農業は神様からの恵みに満ち、肌で感じられとても快適です。コロナ禍にあって家族や身近な者への伝道が求められています。そこで日頃感じ思うことをお話致します。
成長する会社や組織には作業の標準化とそれを正しく教える教育係のような者が必要とされます。仕事の内容を全て習得した上で教えられる側の習得度を見極める洞察力が求められます。わかば農園は寄合所帯のようなところでそれぞれのやり方があるので、聞く人によっては混乱することがあります。自由度が高いと言えなくもないのですが、作業の効率化が望まれます。クリスチャンは神様から御言葉を人に伝えるように求められています。世の教育係です。人はひとつの事象に違った反応や解釈を示すことがあります。経験や性質が違うからです。御言葉に我流はありません。読んだり聞いたりした時に厳しく感じることもあります。だからといって受け入れやすいように変えることはできません。御言葉にはそれ自身に力が有り、私たちの知恵は求められていません。更に欠いてはならないことが有ります。それは愛をもって語るということです。マルコによる福音書にイエス様と金持ちの男の話があります。ある人がイエスに駆け寄りひざまずいて「永遠の命を受け継ぐには何が必要ですか?」と尋ねます。イエス様は「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬えという掟を知っているはずだ」とお答えになります。すると男は「そうゆうことはみな、子どもの時から守ってきました。」と言います。主イエスは彼を慈しんで言われます。「あなたに欠けているものがひとつある。持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」イエス様は彼の性質を全てご存じで的確に急所を指摘されます。私たちは神ではありませんから、話す相手の全てを理解することは出来ません。しかしイエス様が現して下さったように相手を大切に思い接することが必要です。愛が無ければどんなに正しいことを言っても相手の心に響きません。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛が無ければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」(コリントの信徒への手紙一13:1)そして諦めず何度も繰り返し願い求めるなら聞いてくださるといわれます。
私たちは主イエスによって永遠の命が与えられました。しかし周りには救いを得ていない方々が大勢います。愛する者が滅んで真の平安でしようか?目の前の一人に神様の愛が届くように自らの愛が強められますように。御言葉を正しく理解できる知恵があたえられますように。御心を受け入れる謙虚さが備えられますように。主の栄光がとこしえにありますように。
S.Y 兄
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