2021年9月9日木曜日

2021.8.8 本日の宣教

『 あなたが追い求めるべきこと 』(ヘブライ人への手紙12:14~15)

「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」(ヘブライ12:14)

ヘブライ人への手紙を書いた著者は、終末を生きるキリストの教会と信徒たちに向け、追い求めるべき生き方について勧めています。とりわけ様々な試練と迫害に遭っている時にキリスト者が追い求めるべき姿を示していることが分かります。

まず、「すべての人との平和を」追い求めるように命じています。これは、当時のユダヤ人キリスト教会の教会員同士が互いに平和の関係を作っていくべきであることを指すと同時に、彼らを取り囲む世界のすべての人との平和の関係を結ぶことを強調しているのです。実に主イエスは、「平和を実現する者は神の子と呼ばれる(マタイ5:9)」と言われました。ちょうど8月は平和を覚える月でありますので、平和こそ、言葉やキャンペーンで終わってはならない、主イエスの十字架の和解とその恵みにあずかった者であれば、主が示してくださった平和を実現するために自分自身を献げなければならないのです。

使徒パウロも、平和を、健全な人間関係の基礎であると見なしました。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(ローマ12:18)…この勧めは、ただ仲良く過ごすために、周りの不義や間違いと妥協していいよ!というふうに受け止めてはなりません。むしろ、十字架の主イエスの平和と和解の姿に学ぶことにより実現しなさい!という意味となるわけでしょう。

また、「聖なる生活」を追い求めるように命じます。「聖なる生活」とは、キリスト者を特徴づける「聖さ」を生きることを意味します。私は、旧約聖書から新約聖書をつなぐ一つの主題が「神による神の民作り」であることを強調してきましたが、まさに「神の民」に求められる優先順位の筆頭に挙げられるのが「聖さ」なのです。神の民は、神の御前では聖くならなければなりません。神が、神の民への聖さを求めておられる有名な聖書箇所として、「わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。」(レビ記11:44)」があり、また主イエスも、「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。(マタイ5:8)」と言われました。使徒パウロもⅠテサロニケ4:3で、「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」と勧めていることから、キリスト者にとって「聖なる生活を抜きにして」神を見ることはできませんし、神に似た者になることもできないのです。「主を見る」ことと、「神に似た者になる」ことこそ、再臨のキリストを待ち望む終末を生きるキリスト者に求められる姿勢であります。とりわけ「聖なる」と訳されている「ハギアスモン」(ギ)とは、霊的、道徳的汚れから離れ、だんだんと聖くなっていく「聖化」の過程を意味します。「聖化」こそ、平和と共にキリスト者が生涯をかけて成就するために追い求めるべき目標であるのです。

「平和と聖なる生活」とは、コインの両面のような特徴をもっていて、いずれか片方が欠けても、キリスト者の生活はバランスが取れなくなってしまうわけです。終末を生きる者として、今あなたは何を追い求めていますか。


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