2025年3月31日月曜日

2025.3.30 牧師室便り

 「常に新たに」

2024年度も、52回目の主日礼拝を迎えることとなりました。この52週間、私たちの歩みを守り、時にかなって助け、導いてくださった神を賛美します。また、この52回の主日礼拝に共に集い、生きた賛美と御言葉、交わりを持つことができた神の家族に、心から感謝いたします。

とりわけ、2024年度は、元日に発生した能登地震により被害を受けた能登地域の方々をどのように支えることができるかを尋ね求める中で、「主の憐れみに生きる教会」という標語のもと、一年間歩んできました。その中で、神は「小さな泉のカフェ」というビジョンを与えてくださり、能登町柳田の皆さんとの大切な交わりを備えられました。

この一年、能登被災地支援活動を続けてきたことは、私たちのような小さな群れにとっては決して容易なことではありませんでした。しかし、すべては神が示された業であり、すべては神の御手の中にあるという信仰を与えられ、今日の恵みへと導かれたのだと思います。

そして、2025年度。私たちは新しい一歩を踏み出しま
す。52回ある主日礼拝をはじめ、私たちはどのように過ごしていくことになるでしょうか。多くの場合、昨年一年間行ってきたことの繰り返しとなるでしょう。しかし、同じことを行うからといって、ただ例年通りに、慣れたやり方で進めてしまうのは大きな間違いです。神が私たちに望まれるのは、常に新たな心で、一つ一つの出来事に向き合っていくことです。
「見よ、わたしは万物を新しくする(黙示録21:5)」と、すべてを新たにすると宣言された主イエスが、小泉町教会の一人ひとりの心と信仰を新たにしてくださいますように。また、小泉町教会共同体の一年間の歩みを、新しく導いてくださいますように。
神の家族お一人おひとりに心から感謝しつつ、「主の憐れみに生きる教会」として、共に隣人の手を取り合い、力を合わせ、励まし合い、支え合いながら、常に新たな歩みを続けたいものです。シャローム!


2025.3.30 本日の宣教(交換講壇)

 『 蛇のように鳩のように 』

                    マタイによる福音書 10章16~23節

弱い私たちに、弟子たちに、これから起きる苦しみ、迫害の中で、どう歩むのかということを教えられています。22節では「最後まで耐え忍ぶ」ことが求められます。弟子たちに、苦しみ、迫害の中で、耐え忍ぶ者が救われる。自分を苦しめる者に対して、対抗していくのではなく、鳩のように素直な者として、苦しみを耐え忍んでいくようにと。23節では「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」と。忍耐する、というのは、最後まで耐え忍ぶのは、そこに踏み留まり続けることではありません。逃げ出して別の場所、別の人の所へ、行ってもいいのです。逃げることが証しすることをやめることではありません。ある場所での証しがうまくいかない時に、その場所から離れてみる、別の方法に切り替えてみる、それが、かえって多くの人々に、伝道できるのだといわれます。求められていることは、どんな場所ででもいいから、鳩のように素直な者として、うまく苦しみを耐え忍んで、証を続けて行くことでしょうか。鳩は、愛や平和の象徴とされています。また、古代のイスラエルにおいて鳩は「心の鳥」と考えられ、「柔和、無邪気、純潔な貞操のシンボル」とされていたようです。そして、ここで「素直に」と訳されている言葉は、もともとは「混じりけのない」とか「純粋な」とも 訳すことができる言葉だそうです。

 イエスさまが弟子たちに向かって、「鳩のように、悪に染まらず、純粋でいなさい」と話されているイメージが、分かります。蛇は、神さまに特別扱いされている人間が失敗すれば、自分が神さまから特別扱いされる地位を、自分のものにできるのではないかと思い、人間に嫉妬したのだ。そんな心から、蛇はエバをそそのかし、騙したのではないだろうか。イエスさまは蛇の言葉の奥に隠されている、ずる賢さを知れと言われているのでしょうか。では、私は、蛇のように賢く、鳩のように、素直に生きる為に、どうすればよいのでしょうか。攻撃された時の為に武器を持つ国になる。そうではない。神さまが求めておられるのは、愛と平和です。言葉による対話です。武器を持つことが平和を守ることではないと、思い伝え続けること。ここは岩盤が固いから、海抜が高いからと情報を鵜呑みにして準備を怠らないこと。こんなに儲かるとか、不安をあおってだまし取るなど、蛇の悪だくみの中に隠されている悪をしっかりと見つけること。神さまからの、み言葉を忘れずに、神さまのものさしで、正しく判断することが必要だと思いました。

                        金沢キリスト教会 調子由美子


2025.3.30 小さな泉の恵み

 主の御名を賛美します。

私は心の病気をもっています。「あんなことをして人をきずつけたのではないか」とか、他の人の言葉できずついたりもします。だけど病院の作業所に行けば、仕事をするので、忘れます。

(詩編の119:105)「あなたのみ言葉はわたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯」とあります。聖書のみことばは、さびしい私の心にパッとあかるくなって、みことばにはげまされます。

(ヨハネ16:33)「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」とあります。

み言葉を心のささえとして、これからも元気に働きたいです。

                               M.T.姉


2025.3.23 牧師室便り

 「喜びと真心をもって」

先週、2025年度の奉仕の先頭に立つ新しい執事が選ばれました。5名の新しい執事を中心に、小泉町教会が主に喜ばれる礼拝共同体として成長していくことを、心からお祈りいたします。

さて、最近一人の姉妹の喜びに満ちた奉仕によって、さまざまなところが飾り付けられ、明るい雰囲気になっています。あまりにも熱心に集会に集い、奉仕に加わっているため、牧師としては少し気になり、「疲れていませんか? 無理しないでくださいね。できる範囲でいいですから、疲れないようにしてくださいね」と声をかけました。

すると、その姉妹は、「いいえ、今は本当に嬉しくて、喜んでやっています。今は時間があるからできることですし、自分の賜物を発揮できることなので、喜んで奉仕をしています。ですから、心配しないでください」と答えてくれました。

本当に素晴らしいことです。牧師にとって、教会員一人ひとりが喜びに満ちあふれ、それぞれに与えられた賜物を生かして奉仕し、仕えることは、何よりの恵みです。

しかし、自分の能力を超える働きで疲れてしまったり、いやいやながら奉仕したりすることは、神のためにも、教会のためにも、そしてその人自身のためにも、何の益にもなりません。

救われた者、赦された罪人として、各自が持っている賜物を生かし、神の家族である一人ひとりが、キリストの体なる小泉町教会を祝福と恵みに満ちた群れとすることほど、素晴らしいことはないでしょう。

神がご覧になっているのは、その人の外見や行いではなく、その人の喜びに満ちあふれる真心からの信仰です。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」(コロサイ3:23)…この御言葉のように、2025年度、何をするにも人に見せる信仰ではなく、ただ主に仕える信仰生活を歩むことができますように。小泉町教会の神の家族が、一人ひとり喜びを持ち、それぞれに与えられた賜物を十分に発揮しながら、互いに仕え合い、赦し合い、主に喜ばれる教会共同体を形成していくことを願います。シャローム!



2025.3.23 本日の宣教

 『イエス様に導かれて』~小さな泉の村10年目の春~

                       マタイによる福音書 25章31~40節

『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイ25:40)』

今から12年程前、私は、雪の舞う寒い冬の夜に富山駅の地下道で、一人の小さな老人とすれ違いました。その人は、ぼろのような黒色の長いコートを身に纏い、たどたどしい足取りで凍える地下道を歩いていました。その強烈な出会いが「小さな泉の村」のスタート地点だったと思います。

大不況の嵐リーマンショックの影響で住まいや職を失った境遇にある人々のために2009年1月から、食事などを提供してきたホームレス自立支援団体「あったか相談村」が、2016年3月、活動を終了しました。その活動終了の発表がされた日に、ボランティアとして参加していた私は、この小さな灯を消してはいけないという強い思いを示され、そして、時を同じくし、小泉町キリスト教会の閔牧師も「地域に根ざした奉仕活動を!」というミッションを、主から与えられていました。

その二つの出来事が神様の導きにより結び付けられ、あっという間に小泉町キリスト教会の信徒会での同意を得られ、時にかなった神様の導きで2016年4月に教会の名前から「小さな泉の村」として名前を変えて再生しました。その時に主から与えられた奇跡と感動は今も鮮明に心に残っています。 「小さな泉の村」の活動では、毎回、主が始めから終わりまで伴って下さって、会場が聖霊様の喜びで満たされていると感じます。そして、「小さな泉の村」の活動は、主イエス様の導きの内に現在に至るまでいくつかの小さな変化を伴いながら、また、コロナ禍の時も活動の形を変えながらも途切れることなく続けられています。そして小泉町教会の兄弟姉妹、ボランティアの方々のご尽力によって、10年目の春を迎えます。振り返ると、あっという間の9年でした。利用者さん、ボランティアの皆さんと一緒に楽しみながら一歩一歩と歩(あゆ)んで来て、前方を見ると「10」という数字が見えてきた、という感じでしょうか。

それは、イエス様が小さな者に目を注がれ、主の愛と導き、道を示され必要なものを備えて下さったからこそ、ここまで歩(あゆ)めたのだと思い、主に心からの感謝を捧げます。ありがとうございます。そしてこれからも主の導きによって、同じようにまた一歩一歩歩(あゆ)みを進めていけると信じています。

地域の片隅でイエス様の導きによって始まった、小さな人々のための活動「小さな泉の村」が、冒頭に掲げた御言葉を忘れず、イエス様の愛に溢れた場所として、そこに集う「小さな人々」の救いと喜びの場所となりますよう祈ります。  ハレルヤ アーメン!                  

                                 瀬戸泰子


2025.3.23 小さな泉の恵み

 ある朝、道の駅ヘ野菜を持って行くと、早い時間に店員が皆出勤しています。普段、やっと2~3人の顔がみられるかなという感じなのに。Aさんが店員の一人に尋ねます。「何かあるの?」店員はAさんに「今日は避難訓練があるんです。」するとAさんは私たちに向き直り、「皆さ~ん。もうすぐ火事ですよー!」店員は慌てて彼女を制止し「しー。まだそれ内緒( ̄b ̄) シーッ!」年に2回、避難訓練が義務づけられていて、業者も参加が求められます。実施される日も知らされず、早く会社に戻りたくても帰れません。始まると、当の店員も日頃の作業とは違ってマニュアルを読み始めてなにやら怪しい。本当の火事だったらどうするの? 

 「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。(ヨハネの黙示録22:12)」さぁ。周りの方々に耳打ちしましょう。「もうすぐイエス様がこられますよ。」今日、イエス様が来られても慌てないように。内緒にしてはいけません。

「また、わたしはこう言った。『この書物の預言の言葉を秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。』(ヨハネの黙示録22:10)」

                                 S.Y.兄


2025.3.16 牧師室便り

 「2025年度 小泉町教会の執事選出に寄せて」

本日、2025年度の小泉町教会の歩みを支え、奉仕を担う5人の執事を選びます。昨年度も、坂上幸男兄、島田茂兄、白石美保姉、瀬戸泰子姉、長崎順子姉の5人が、全身全霊を尽くし、喜びと感謝、そして献身をもって仕えてくださいました。心から感謝します。

そして本日、新たな5人の執事を選びますが、どのような方が立てられるのか楽しみです。ぜひ祈りつつ、「この人こそ執事にふさわしい」と示される方を選んでください。選挙は決して人気投票ではなく、また能力主義でもありません。だからこそ、聖霊の導きのもとで、心に示される方を祈りの中で選ぶことが大切です。

執事は、ギリシャ語で 「ディアコノス」 と言います。その本来の意味は 「給仕する者」 であり、そこから 「奉仕者」「仕える者」 という意味へと定着してきました。すなわち、教会の執事とは、人の上に立ち、自分の権威を振るう役職ではなく、仕える者です。給仕をしながら人々に必要なものを提供し、神と教会、そして人々に仕える存在であることを心に刻みましょう。

小泉町教会の教会規則において、「執事の任務」は、「牧師の宣教を補佐し、教会の目的達成のため、それぞれ必要な職務を分担し遂行する」 と定められています。何よりも 神の国の宣教を第一 とし、「教会は人によって成ったものではなく、神によって成ったものである」ことを信じ従う信仰に立ちましょう。そして、人に頼るのではなく、聖霊の助けと導きに委ね、選ぶ人も選ばれる人も謙遜に聖霊に従うことを大切にしましょう。

2025年度の小泉町教会の歩みにおいて、新たに選ばれる5人の執事を通して、神の大いなる祝福にあずかることができますように。主に喜ばれ、神の家族に喜ばれ、そして神の国の成就のために、喜んで仕えるお一人お一人となることを期待しつつ。シャローム!



2025.3.16 本日の宣教

 『万事が益となり得る? 』

                    ローマの信徒への手紙 8章28~29節

私たちは人生において、さまざまな困難や試練に直面します。病気や自然災害、大切な人との別れ、経済的な困窮。特に突然襲ってくる災いには、どうすることもできなくなってしまいます。本日の御言葉は、クリスチャンが試練に遭う時にもつべき姿勢について教えています。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)

本日の御言葉の中で注目すべき言葉は「万事」、すなわち 「すべてのこと」 です。パウロはここで、「すべての出来事が単独で益を生む」のではなく、神の摂理のもとでそれらが組み合わさり、最善の結果をもたらす ことを示しています。

私たちは 「万事が益となる」 と聞くと、どんな苦しみや試練も、最終的には「良いこと」に変わり、益をもたらすと考えがちです。しかし、それがこの御言葉の本当の意味ではありません。「すべての出来事がそのまま良い結果を生む」のではなく、「神がそれら一つ一つを用いて、最終的に良い目的へと導いてくださる」 ということなのです。

この言葉を語ったパウロこそ、この世の誰よりも 不幸や苦しみを知っていた人 でした。彼は生涯、治らない難病を抱えて生きていました。また、罪を犯していないのに何度も鞭打たれ、牢に入れられ、あらゆる侮辱と苦しみを受けました。彼は何度も死の淵に追い込まれ、飢えを経験し、絶望のトンネルをくぐり抜けてきたのです。それにも かかわらず、パウロは「万事が益となるように共に働く」と告白しています。

ここで注意すべき点があります。それは、この約束が 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たち」 に対して与えられているということです。すべての人が自動的にこの約束を受けるわけではありません。神を愛し、神のご計画を信頼し、神の御心に従おうとする者たちに対して、神はすべての出来事を益へと変えてくださる のです。

神の家族の皆さん、もし 「なぜこのようなことが?」 と思うような出来事に直面したとき、この御言葉を思い出しましょう。そして、試練の中にあっても 「神がこの状況を用いて何をなさろうとしているのか?」 と祈り求め、神の導きを信じて歩むのです。私たちの目には理解できなくても、すべては神の御手にあり、最善の計画が備えられています。この信仰を持ち続けるならば、私たちの人生のどんな出来事も、最終的には益となるのです。

この約束を信じて歩む人の人生は、なんと幸いなことでしょう!

受難節を迎えている神の家族の皆さん、主イエスの十字架と受難がなければ、復活の恵みはありませんでした。同じように、私たちが経験するすべてのことが、神が備えられた益となれることを信じ、歩み出しましょう。

ハレルヤ!


2025.3.16 小さな泉の恵み

 全ての事に感謝します 皆さんの祈りに支えによって、皆さんと一緒に交わりを持てる事に感謝します。

 バプテスマへの決心が付かないまま、日々を過ごしております。 小さな泉の恵みを書くにあたって、自分で志願しているにも関わらず、中々書けずです。あれもこれもと考えていると、収拾がつかなくなってしまいます。

書いた後に、これで良かったのか?と毎回思います。今回もそうなんですが。皆さんの記事を見て、

“イエス様を自分の中心においてるなぁ。”私も、イエス様を中心に生活が出来る人間になりたいです。

                            Y.H.兄

2025年3月11日火曜日

2025.3.9 牧師室便り

 「 主イエスの苦しみに与る恵みを 」

先週一週間は、思いがけないコロナ感染によって、ご迷惑をおかけしてしまいました。初めてのコロナ感染となり、高熱に苦しんだ後、数日間は嗅覚が低下する後遺症が現れました。これまでコロナの後遺症について話には聞いていましたが、いざ自分が経験してみると、感染を経験された方々の苦しみがどれほど大きかったのかと思い巡らせる時を過ごすことになりました。

今は5類感染症に位置づけられたため、軽く受け止められるようになりましたが、新型コロナウイルスが始まった時のことを思い出します。当時、社会的な恐怖によってパニック状態に陥り、人々は絶えず犯人探しをし、見つかったら同じ町から追い出すところまで騒いでいたことを覚えています。その時も皆さんに語りましたが、誰でも、またどこでもかかる可能性のあるものであり、決して人を裁いたり、責めたりしてはなりません。なぜならば、そのように責めていた人が反対の立場になることもあるでしょうし、誰もその可能性から逃れられる人はいないからです。大切なことは、病の中で苦しむ人を支え、励ますことです。そして、互いに感染しないように常に注意を払うことです。もちろん、そのようにしてもかかってしまう場合もあることを念頭に置くべきでしょう。互いに愛し合い、赦し合い、支え合うことが求められます。

先週水曜日から、私たちは受難節に入りました。イエス・キリスト、神の独り子は、私たちのすべての罪、弱さ、様々な問題、課題、病をその身に負われました。罪のない方が、罪人としてのすべての災いを受け、十字架の道を歩まれたのです。だからこそこの受難節は、その十字架のキリストの受難を覚え、黙想し、目を向ける時です。自分がどれほど神に愛されている存在であるか、私たちの罪がいかに深いものであるか、そして隣人への主イエスの愛がいかに素晴らしいものであるかを思い巡らせましょう。願わくは、主イエスへの愛がさらに深められ、神の家族同士の愛と執り成しが満ち溢れる受難節であるように。シャローム!



2025.3.9 本日の宣教

 『父よ、一つにしてください 』~恵みのトライアングル~

               ヨハネによる福音書17章20~23節

今日の聖書本文であるヨハネの福音書17章は、イエス様が生涯を終える前に切実に祈られた最後の遺言の祈りの内容です。
その祈りの中心主題は、「父よ、彼らを一つにしてください」という祈りでした。なぜそうだったのでしょうか。もちろん、最後の晩餐の時の弟子たちの分裂を目の当たりにしての切なる願いであったことと同時に、今でなくてもやがて彼らが分裂すること、その分裂によって教会が深刻な危機に直面することを知っておられたからでしょう。まさしく十字架にかかられる最後の瞬間、数多くの祈りの課題があったにもかかわらず、主は全身全霊と心を尽くして「彼らを一つにしてください」と祈られたのです。
この主イエスの祈りは、11弟子たちだけではなく、彼らの言葉を通して信じるすべての人々のためであったことを明らかにされます。すなわち、この祈りには私たちも含まれています。主が私たちに求めておられるのは、信仰者同士の分裂ではなく、一つとなることです。
この主イエスの祈りを通して、私たちは「恵みのトライアングル」を知ることができます。
まず、父なる神と御子イエスの一致です。
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように…。」(21節a)…主イエスの一致の祈りの前提がここに示されています。父なる神と御子イエス・キリストは完全な愛の一致の中におられます。この一 致こそが、すべての恵みの源です。イエスは神の愛を完全に受け、その愛に生きられました。私たちがイエスを信じることは、この愛の一致に招かれることを意味します。
次に、主イエスと私たちの一致です。
「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」(21節b)…主イエスは信じる者の内に住まわれるお方です。私たちは自分の力だけでは神に近づくことができません。しかし、主ご自身が私たちの内に生きることによって、私たちは神との一致の中に入れられます。この一致こそが、私たちの人生を支える恵みの土台です。
最後に、私たち同士の一致です。
「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」(23節)…父なる神と御子イエスの一致、主イエスと私たちの一致はさらにその輪を広げ、信じる者同士の一致へと広がります。教会は、この一致を味わわせ、一致の恵みと栄光を現す共同体です。この「恵みのトライアングル」こそが、私たちの信仰生活の中心です。互いに愛し合い、一つとなるとき、神の愛が現れ、世は神の恵みを知るようになります。
受難節に入り、最初に向かう主日礼拝です。主イエスが最後のすべてを注いで祈られた一致への祈りを黙想しつつ、私たち一人ひとりがこの恵みの交わりに生きることができるよう、共に祈り求めてまいりましょう。ハレルヤ! 

2025.3.9 小さな泉の恵み

 今年も、3月に入りました。やっと春になったのかと思えば、とても冷え込んだりして、参りますね。

1月、2月、公私共にいろんなイベントが重なったうえに、大雪になったり…とても忙しい日々でした。

“うわ~っ、キツそうだ!”と、お手上げかと思う中、閔先生や教会の兄弟姉妹は、ちゃんと多用を受け入れて、こなしておられる。頑張らないと…

と、思っていたところ、原因不明の体調不良に見舞われ、凹んでいました。

そんな時こそ、ありのままの自分を神さまに おゆだねすることが大切なんですよね…。

そして、私は軽く回復して、今日も元気に週報の空欄を埋めています

(*^-^*)。

ただし見よ、見いだしたことがある。

神は人間をまっすぐに造られたが 

人間は複雑な考え方をしたがる、

ということ。

コヘレトの言葉 7:29

                         K.I.姉

2025年3月4日火曜日

2025.3.2 牧師室便り

「今一度、確かめてみましょう!」

小泉町教会は小さな群れでありながら、さまざまな活動を行っています。まず、主日礼拝や祈祷会は、教会の命であり、その存在の理由となる欠かせないものです。その他に、火曜日には楽しい聖書の学びがあり、毎週日曜日の午後には、さまざまなプログラムを通して伝道の輪を広げようと試みています。

さらに、毎月第2土曜日には生活困窮者のための支援活動「小さな泉の村」がサンホルテで行われ、毎月第4木曜日には能登被災地支援活動「小さな泉のカフェ」が開かれています。また、イースターやクリスマス、チャペルコンサートなど、地域の人々を主イエスの前に招待する特別プログラムも定まっています。

こうした定期的な働きや活動に加え、非定期のさまざまな働きも行われており、忙しい日々を過ごしているのも事実です。このように私たちの教会が用いられていることに感謝しています。

この状況の中で、小泉町教会の牧師として「このままでいいのか?」という問いかけが浮かぶ時があります。教会の中には、「さらに活動を広げていくべきだ」と考える方もいるでしょう。反対に、「すでに多くの働きを抱えているのだから、少し活動を減らすべきではないか」と思う方もいるでしょうし、「今のままで十分です」という方もいるでしょう。

その中で、「あなたがたはマルタのようになってはいませんか?」という御心に立たされることになります。何よりもまず、「マリアのように主イエスの御前にひれ伏し、御声に耳を傾けることだ」という御声が聞こえてきます。

教会は神の家族の群れであり、常に喜びと感謝、感動を持ち、キリストの体として生き生きとした生命力を失うことのないように、互いを支え合い、仕え合い、補い合いながら歩んでいくことが大切です。

願わくは、主が望まれる教会の在り方を、今一度見つめ直す必要があるのではないかと思います。今週水曜日から始まる受難節(レント)と復活祭(イースター)を前に、主の御前にひれ伏し、御言葉に耳を傾けることを、まず心がけましょう。シャローム!



2025.3.2 本日の宣教

 『 あなたは富んでいますか? 』

              (ヤコブの手紙 5章1~6節)

ヤコブは5章に入ると、「富んでいる人たち」に向かって「よく聞きなさい」と勧めます。この箇所は、キリスト者であるかどうかを問わず、富んでいる人全体に向けられた呼びかけであるように見えます。

聖書が語る富は、神の祝福であると同時に、やがて裁きの基準ともなります。そのため、富んでいる人たちは、やがて降りかかる裁きの厳しさのゆえに泣き叫ぶことになるのです(1節)。

富の概念は時代や文化によって異なりますが、ヤコブの時代における富んでいる人たちとは、食べ物や着物、金銀を所有する者たちを指していました。ヤコブは彼らに対し、「その富は腐っている」と叱責します(2~3節)。富は蓄えるものではなく、特に食べ物や着物は分け合うべきものであると聖書は教えています(ルカ12:16~20)。そうしなければ、それらは腐ってしまうのです。「虫がついた衣服」や「食い尽くす火」は、不義なる者への最後の裁きを象徴するイメージとして用いられています。

神の願いは、すべての人々がふさわしく分け合い、飢えることなく生きることです。これこそが創造の原理なのです。しかし、富んでいる人たちは富を蓄えるばかりで、施すことを知りません。そのため、彼らの富は腐り、着物は虫に食われ、ついには盗まれてしまうのです(マタイ6:19)。それだけでなく、何よりも神の裁きの火によって食い尽くされてしまうのです。

愛であり正義である神は、貧しき者の叫びを確かに聞い ておられます。神が耳を傾けておられる以上、主の正義が必ず成し遂げられることを確信できます。

現代社会においても、富んでいる者は尊ばれ、貧しく弱い者たちは差別を受け、苦しみにさらされています。社会正義はお金によって歪められ、貧しく弱い者は絶望の淵へと追い込まれています。

主イエスがそうであったように、キリスト教会が立つべき場所は、富んでいる者の側ではなく、貧しく苦しむ人、弱い人の側です。しかし、教会は歴史を通じて、しばしば権力者や富んでいる人々の側に立ってきたことを思い起こさなければなりません。正義なる神は、終わりの日に必ず権力者や富んでいる者、そして正義を失っていた教会を裁かれるでしょう。そのため、教会は現代の預言者としてのメッセージを告げなければなりません。

 神の家族の皆さん、あなたは富んでいますか。その富はどのように使われていますか。その富は今のあなたに祝福ですか。重荷ですか。富はすべて神から来ていることを認めつつ、私たちの富をもって神の栄光を現したいものです。

最後に主イエスの富についての定義を聞きましょう。

「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。(マタイ6:20~21)」


2025.3.2 小さな泉の恵み

 ―祈りに対する神様のご誠実―

神様へ祈りと感謝をする毎日で

恵みを受けることが多い日々です。

私が聖書の言葉に初めて出会い心が救われたのは、25歳頃日野原重明先生の本の中でした。「すべてのことは時にかなって美しい」。この言葉の前に「神のなさることは」という言葉があることを知るのは、後のことでした。

2011年の東日本大震災の後しばらくして教会を訪ねて聖書の学びを始めました。2012年に洗礼を受けた後も様々な人生の局面がありましたが、神様のご愛の中で、2019年からUniting Church(日本聖約キリスト教団)に戻ることができました。昨年は、多くの方々のお祈りの中で富山のご縁を与えられて、感謝の気持ちでいっぱいです。

「神様、どうしてですか?」と祈り尋ねるとき、神様は誠実に答えてくださいます。この恵みが何度ももたらされることに涙が溢れます。これからも、教会の皆様と共に礼拝を捧げ、神様を見上げていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

私の好きな御言葉を紹介します。

「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。(ガラテヤ人への手紙 6章9節)」

                           O.Y.姉

2025.2.26 牧師室便り

 「あなたが記憶されたい呼び名は?」

先週16日(日)、17日(月)に、小泉町教会の敬愛する手島姉の葬儀が執り行われました。

手島姉は、小泉町教会の歴史において大切な役割を果たされ、天に召されました。神の家族の皆さんお一人お一人にも、それぞれ手島姉との思い出があることと思います。しばらくの間は、手島姉を偲びながら、寂しさを覚えることでしょう。

葬儀の中で、私は「いつも輝き続けた人」という主題で、手島和子姉について語りました。手島姉は、まさに「礼拝の人であり、祈りの人」として輝きを放ち続けた方でした。その輝きは神から与えられたものであり、救われた者としての輝きでした。そのため、私たちは手島和子姉が今、天に帰り、光り輝くお姿で神と交わっておられることを、疑うことなく信じています。手島和子姉こそ、天国に最もふさわしい方であると思います。

私が富山に来て最初に執り行った葬儀は、大和秀雄兄の葬儀でした。彼は、小泉町教会の歴史に特別な足跡を残した方でもありました。

重い障害を背負っていた大和兄は、ある時、目の見えない盲人を癒された際のイエス・キリストの御言葉に出会い、「今、自分が背負っている障害は、神の栄光を現すためのものである」という確信を与えられました。その後、彼は生涯を通して、弱さを強さに変えてくださった神を証ししながら歩まれました。そのため、大和兄の葬儀では、「神の栄光のために生きた奇跡の人」という主題で宣教したことを覚えています。

考えてみると、私たちもやがて天の御国に帰ることになります。そのとき、私たちはどのようなイメージで人々の心に残り、また教会の歴史に名を刻むことになるでしょうか。

願わくは、神の家族一人ひとりが、神の子どもとしてこの世に大切な証しを遺し、与えられた人生を全うし、人々の模範となる歩みをすることができますように。聖霊の助けを祈ります。シャローム!



2025.2.26 本日の宣教

 『 ただ一つ必要なこと 』

                    (ルカによる福音書 12章22~34節)

令和の米騒動。連日、消えた21万トンの米の行方とか、備蓄米放出で米の価格は下がるのかと騒ぎが続いています。価格を吊り上げる転売業者や怪しい買い付けなど真相は明らかでは有りませんが、多くの場合品薄を案じた一般の消費者が多めに買う消費行動が原因でしょう。コロナ禍の只中のマスクのように皆が普通に買っていれば、問題なく流通する数量であっても、皆が少しずつ多めに買おうとするとたちまち品物が店頭から消えてしまいます。

犯人は善良な消費者の不安心理といえるかもしれません。マスコミは米不足の不安を煽り、民衆は右往左往する。今、正に主が私たちに「恐れるな。」「思い悩むな。」と言われているように思います。厚生労働省の発表によれば2023年に日本では2300人もの人が栄養失調で亡くなっているそうです。主食である米の価格が高止まりすれば、食べられなくて亡くなる方がもっと多くなるかも知れません。私たちが恐れるべきはそのような悲劇ではないでしょうか。主に用いられる「小さな泉の村」が弱い方々の救いとなりますように。そのお働きに感謝と敬意を表します。主イエスは「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」と言われます。主を信じる私たちが先ず落ち着きましょう。私たちが生きるうえで不安や思い煩いから逃れるのは容易いことでは有りません。 様々な不安や恐れが次々と襲ってきます。しかし、

どんなに思い悩んだとしても自分の寿命を延ばすこと

は出来ません。私たちに出来ることは神様のそれとは比べ物に成らないほどに小さなものです。そこで主は極めて明確に答えを示しておられます。「神の国を求めなさい。」それだけでよい、それ以外のものは全て添えて神様が与えてくださると。それでは「神の国」とはなんでしょう。

神の国とは主イエスの血の購いによって永遠の命を与えられた者たちが神様の支配の中を生きる世界のことです。主イエスによらなければ決して「神の国」に入ることは出来ません。私たちが「神の国」を求めるなら必ず「喜んで」与えてくださるのです。(ルカによる福音書12章32節)「私たち全てのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。(ローマの信徒への手紙8章32節)」神の国を思うとき喜びに満たされます。不安や恐れは後回し、神の国と神の義を最優先として全ての人に福音を、主の愛をお伝えしましょう。主の栄光が永遠にありますように。

                                                     坂上幸男


2025.2.26 小さな泉の恵み

 手島和子姉が天に召されました。言葉にならないほど寂しいです。

姉妹は、祈りの人であり、いつも笑顔を絶やさず、目に微笑みをたたえて私たちに語りかけてくださいました。

手島姉の輝きは、鍛えられた鋼のような信仰から発せられていました。まったくぶれず、聖霊で満たされる教会であることを祈り続けてこられました。

教会学校の成人クラスでご自分の番になると、ほとんど必ずと言ってよいほど、「私は耳学問で聖書のことはよくわからないけど」といいつつ、日々恵みに満たしてくださる神様への深い感謝と心からの愛を述べられました。

喜びを持って天に召される時を待ちつつ、今の時をいつも楽しんでおられました。聖書に「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ4章4節)とあります。もちろん人間ですから、日常生活では、不平や苦しいことはたくさんあったと思います。しかし、教会での手島姉は、牧師の説教に対して姿勢を正して耳を傾けていました。

健忘症があっても精神の芯、魂が確固たる有様、手島姉は、歳を重ね弱弱しく見えても鋼のようだったと思うのです。

その姿は、夫である手島淳界兄と夫婦で一体です。今、イエス様のもとに互いにともにあり、喜ばれていることと思います。

私たちも手島和子姉の信仰の精神をこれからも紡いでいけるように、自らの精神を鍛えていきたいと思います。手島姉、どうか見守ってください。ありがとうございます。

                           島田 茂


2025.2.16 牧師室便り

「温かい眼差しをもって…」

 先週、私は韓国の友人たちに、大雪が続く中で撮った教会の写真を10枚ほど送りました。 それを見た友人たちのほとんどは、 「わあ、素敵ですね!まるで童話のような風景です。 いいところに住んでいますね。」 といった反応をしてくれました。一方で、 「あの雪、どうするんですか?腰大丈夫ですか?」 「見るだけでも疲れてしまいますね。体を壊さないように気をつけてください。」 と、私の雪かきを心配して声をかけてくれる友人たちもいました。

もちろん、これらの反応は、どちらが正しいとは言えません。 誰であっても、素直に教会の写真を見て「美しい」「素晴らしい」と感じることでしょう。 私もその言葉を聞いて、とても嬉しく思いました。しかし、一方で、先に大雪の塊を見て「雪かきが大変そう」「体に気をつけてね」と心配してくれる友人たちの言葉にも、深い思いやりを感じました。 写真を見た瞬間に何を感じ、どう反応するかは、人それぞれです。ある人は景色の美しさに目を奪われ、ある人はその裏にある大変さを想像し、気遣ってくれます。

大切なのは、どのような視点を持つかではなく、そこに真心が込められているかではないでしょうか。そして、私たち自身もまた、目の前の出来事や人の言葉にどのように反応するのかが問われているのだと思います。 目に映るものの表面だけでなく、その背後にあるものに目を向け、相手の立場を思いやる心を持ちたいものです。
これらのことは、私たちの人生においても、同じことが言えるでしょう。 一見、美しく見えるものの中に困難が隠れていることもあれば、大変な状況の中にこそ、かけがえのない恵みや気づきがあることもあります。 そのような視点を持ち、どんな状況にあっても感謝と愛をもって歩んでいきたいですね。
願わくは、神の家族の皆さんの目がいつも父なる神の目、温かい眼差しをもち、周りの神の家族一人ひとりを見、抱きしめてあげられますように。シャローム!

2025.2.16 本日の宣教

 『 霧のような人生を楽しむ 』

                  (ヤコブの手紙4章13~17節)

今日の聖書の御言葉で、ヤコブは「あなたがたの人生は霧のようである」と語っています。 これは、確かに否定的な意味を含んだ言葉です。 まさしく私たちの人生は、むなしく、はかないものであるからです。

しかしヤコブは、その後の言葉を通して、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきであることを教えます。たとえ霧のような人生であっても、その限界を知りつつ生きることで、それは単なる虚しさではなく、むしろ感謝と充実、そして恵みへと変わるのです。

ヤコブはまず、「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と語る人々を告発します。これは実際、当時の地中海を舞台に活発な貿易活動を行っていた商人たちの姿によく見られる姿であって、教会の信徒の中にも、このような貿易商人がいたことを明らかにします(使徒16:14–15、黙示録3:15以下)。 特にこの例えは、主イエスが語られた「愚かな金持ち」の教え(ルカ12:16–21)に似ています。金を儲けるためにさまざまな計画を立て、奔走する商人たちの姿は立派であると思います。ヤコブも、商売をする人が未来を計画し、ビジョンを持つこと自体を否定しているわけではありません。しかし問題なのは、その計画の中に神がいないことです。 彼らの計画の中で、神が神として認められているか、また神の御心と栄光が排除されていないかが問われています。

キリスト者は、自分の人生に対して神の深い介入を 求めるために、自らを御前に差し出さなければなりません。 私たちの夢や計画が常に神の導きの中にあることを認識しながら生きるべきなのです。

ヤコブは、神こそが人生の主権者であると教えています。 だからこそ、私たちのすべての計画や思い、考えを神に服従させなければなりません(箴言16:9、Ⅱコリント10:5–6)。 その生き方として、 「むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです」(ヤコブ4:15)。 つまり、「いつ、どのように」行動するかよりも、人生全体に神の摂理を認め、すべての計画において神の御心を優先することが勧められています。

ただし、キリスト者の間で「主の御心であれば、…」という言葉が、むやみに乱用されたり誤用されたりしてはいけません。 私たちの生涯は全面的に神の摂理と導きの中にあることを告白しつつも、日々の生活の中でまず神の御心を求め、その後に計画を立て、行動する習慣を身につけることが大切です。その中で、神の御心と自分の思いが相反するときには、自分の思いを果敢に捨て、神の御心に従順になることが求められます。

私たちの人生は短く、どれほど計画を立てても思い通りにはいかないかもしれません。しかし、神の御心の中で生きるならば、与えられた日々を喜びと感謝をもって楽しむことができます。「霧のような人生を楽しむ」ことこそ、信仰者に与えられた祝福なのです。ハレルヤ!


2025.2.16 小さな泉の恵み

 愛する富山小泉町教会の皆さま、

いつも私たち家族を覚えてお祈りくださり、心より感謝申し上げます。 

去る2月10日、広島に住む娘のまいが、無事第2子となる女児を出産いたしました。その日の朝の出来事です。深夜に陣痛を覚えた娘は、医師と相談しすぐに入院することに。夜明け前の暗がりの中支度をし、夫を起こして上の子を託し、1人タクシーで病院に向かいました。タクシーに乗り込んだその時、偶然ラジオから世の光の放送が流れてきたそうです。時間は、5時5分。たった5分間の放送ですが、娘はこれからお産というタイミングで、「イエス様の与える水を飲む者は渇くことがない。」という御言葉を受け取ることができました。病院到着後は、直ちに分娩室へ。お産が進んでいたこともあり、1時間あまりで無事出産を終えることができました。 

1度目のお産の体験から、その苦痛に怯えていた娘。しかしその朝、当直の医師、助産師、看護師、すべての方々が優しく温かく接してくださり、娘は落ち着いて臨むことができたと、後に話してくれました。彼女はまだ、イエス様を救い主として受け入れてはおりませんが、イエス様が彼女の心に働きかけ、苦痛を和らげてくださったのではないかと、私は感じております。  私たちが祈ることもできないほど弱っている時であっても、イエス様は変わることなく、私たちのために祈り続けてくださっている、そのことを改めて確信し、主の愛の深さと広さに感動と感謝を覚えました。

 「しかし、わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 (ヨハネによる福音書4:14 ) 

主にあって        

                                                                                         A.T.姉


2025.2.9 牧師室便り

「背後からの恵みを見つけよう」

本日、皆さんに『素晴らしきかな、人生』という映画を紹介します。この映画の原題は『Collateral Beauty』(二次的な美しさ)であり、試練の中にある美しさを描いています。

主人公は広告代理店の経営者として成功を収めていました。彼は仕事や人生を考える中で、常に「時間」「愛」「死」という三つの概念を問いかけつつ、この三つをつなげることで、人の人生が成り立っていると伝えていました。ところが、彼は突然の悲劇によって人生の意味を見失ってしまいます。それまで信じていた「時間」「愛」「死」という三つの価値に疑問を抱くようになります。しかし、さまざまな人々との出会いを通じて、これらの概念の本当の意味に気づいていきます。映画は彼の旅路を通して、「喪失や苦しみの中に隠された美しさ」に焦点を当てています。人生には悲しみや試練がありますが、その中にこそ愛や絆、希望が生まれることを示しています。大切な人を失った悲しみや喪失感の中で、「時間」「愛」「死」という概念を再考することの大切さを教えてくれる作品です。

信仰者として私は特に「愛」という言葉に注目しました。映画の中で愛はこう語ります。「私はすべてに宿っている。私は闇であり、光であり、陽の光であり、嵐でもある。私はあなたの子供の笑顔の中にも、そして今、あなたの痛みの中にも宿っている。私こそが、生きる理由なのだから。私なしで生きようとしないで。」…この言葉と、主イエスの「私は世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28:20)という約束が重なります。そして、この愛の中には、永遠に生きる復活のメッセージが込められていることに気づいて生きることが大切ですね。

ぜひ、今日この映画を通して、皆さんに与えられている「時間」「愛」「死」について考えてみましょう。そして、私たちに与えられている神からの贈り物~時間の恵み、愛の恵み、死の恵み、そして永遠の命の祝福~を見出しながら、それを私たちの生活の中で実践し、「本当に美しく、素晴らしきかな、人生」と告白できるようになりたいと思います。
神の恵みは、私たちの思いを超えて、私たちの背後から静かに訪れてきます。その恵みを見つけ出し、心から神様を賛美し、栄光をお返ししましょう。シャローム。

2025.2.9 本日の宣教

 『 神に近くいますか ⓶ 』

                    (ヤコブの手紙4章4~10節)

先週、私たちは「世の友となる人」と「神の友となる人」の違いについて分かち合いました。また、「友になる」という言葉には「フィロス(愛する)」という意味があることを学びました。つまり、世の友となる者に対して、神はその者を敵とされます。

そして、妬む神として、神ではないこの世を愛する者に対し、神の御心、妬むほどの愛を持っておられることについて分かち合いました。また、「高慢」と「謙遜」というテーマを通して、神は決して高慢な者を喜ばれず、むしろ敵とされることについても話し合いました。

本日は、その続きとして、特に「神に近くいることの幸い」について分かち合っていきたいと思います。

「神に近づきなさい」という言葉は、私たちにとってごく普通に聞こえるかもしれません。しかし、この言葉をじっくりと味わってみると、旧約時代には神に近づくことができなかったことがわかります。あの偉大なモーセでさえ、神の前に立ったとき、「近づいてはならない」と言われ、履物を脱ぐように命じられました。また、神の特別な民であるイスラエルも、シナイ山に近づくことを禁じられました。それは、汚れた罪人が聖なる神を見ることなどあり得なかったからです。

 しかし、今日、同じく罪人である私たちに、ヤコブはこう語ります。「神に近づきなさい。」一体何が起こったのでしょうか? それは、かつて神と断たれていた私たちの関係に、イエス様が十字架の上でご自身の血によって橋を架けてくださったからです。主が私たちのすべての罪と咎を取り除いてくださったからこそ、今や私たちは神の子として、神に近づくこ とができるのです。

人は何に近づくかが重要です。悪いものに近づけば悪いものに似ていき、良いものに近づけば良いものに似ていきます。なぜなら、人は身近なものから影響を受けるからです。だからこそ、良い人になりたいなら、悪いものから遠ざかり、良いものに近づくべきです。良いものに近づけば、その良さが自然と自分に染み込んでくるのです。私たちの信仰も同じです。成熟した信仰、成長する信仰、世に打ち勝つ信仰、いのちに満ちた信仰を持ちたいなら、その信仰の源である方のそばにぴったりと寄り添うことが最善です。

その方とは、私たちの主イエス・キリストです。主イエスに近づけば近づくほど、私たちは確実にイエスに似た者とされていくのです。

神の家族の皆さん、私たちが神の前に近づく前に、神の独り子イエス・キリストが先に私たちの最も近くまで来てくださったことを忘れないでください。主イエスは、十字架の傷ついた両手を広げ、私たちの最も近いところまで来られ、私たちを抱きしめてくださいました。十字架の上で、私たちのすべての弱さ、汚れ、病、問題や課題を背負い、命を惜しまず捨ててくださいました。その主イエスの招き、「ありのままで来なさい。汚れたままでいい。重荷を背負ったままでいい。近づいてきなさい。私に触れてごらん。私はあなたの内にあり、あなたは私の内にあるのだ!」――その声が、今も私たちに語りかけています。

ハレルヤ!


2025.2.9 小さな泉の恵み

 家族の原点に「共食」と「育児」がある これは、中村桂子(2024)『人類はどこで間違えたのか-土とヒトの生命誌-』中公新書ラクレによる指摘です。最近、被造物に注目しているうちに、地球史や生命誌にも私の関心が広がってきました。遺伝子DNA分析等により、この世界の内容がかなり判明してきたようです。しかし、気の遠くなるような時間的スケールの世界です。地球誕生が今から46億年前、生命誕生が40億年前、生き物の上陸開始が5億年前(つまり生き物は、誕生後40億年のうち35億年間は水中にしかいなかったことになります)、ヒトの登場は比較的最近で700万年前、現在のホモ・サピエンスの登場が25万~40万年前、そのヒトが土を耕し始めたのは(農業革命=農耕の開始)、わずか1万年前に過ぎません。 ヒトは、皆で一緒に食べること(これは捕獲-調理-食事の一連の活動)により、仲間意識を強くした方が生き残れると判断し、コミュニケーションも生み出してきたといいます。これが横のつながりだとすると、育児は「共同での子育て」という縦のつながりを生みました。世代を継続させる縦のつながりです。これらのつながりは、ヒト登場以降、延々と築かれてきたものと言います。 何だかこの話を聞いてますと、みんなでの楽しい昼食・カフェ、礼拝での祈祷など子ども対応、高齢者対応など富山小泉町キリスト教会が取り組んできた活動が重なり、わたしたち神の家族が力を入れてきたことを思い出しませんか。 

                              酒井富夫


2025.2.2 牧師室便り

「祈りと協力、献身と祝福の循環」

先月23日、今年最初の能登被災地支援活動が柳田公民館で行われました。

昨年7月からこれまでに計5回の支援活動を続けてきました。最初は不安や恐れもありましたが、「主の憐れみに生きる群れ」となることを喜びとしつつ、主の導きを確信しながら今日まで続けることができました。そして、毎回の活動を通して、神様は思いもよらない恵みと祝福を与えてくださいました。ボランティア一人ひとりも、充実感と仕えることの喜びを味わいながら帰ることができました。

とりわけ、今回の支援活動では、中部地方連合の先生方の呼びかけにより「被災地支援を覚える祈り会」が開かれ、日本バプテスト連盟に連なる全国の教会から約40人の方々が参加されました。祈り会では、北陸3教会の支援活動の報告がなされ、その後、グループに分かれて祈る時間を持ちました。感謝なことに、沖縄、東京、横浜、名古屋など全国の教会や信徒の方々から、お菓子の支援が寄せられました。各地から届いた支援物資に驚くとともに、祈りと協力の力の素晴らしさを改めて実感しました。

振り返ると、昨年の福井教会の復興に向けた地域協働プロジェクトへの取り組みを通して、全国の皆さんと分かち合い、祈り会を重ね、ついに福井教会の新会堂完成に至る恵みを味わいました。今回の能登被災地支援活動においても、私たちの働きが全国各地の皆さんの祈りによって支えられ、広がっていることを心から嬉しく思っています。

能登被災地支援への思いが「小さな泉のカフェ」を誕生させ、その活動が私たちの教会だけにとどまらず、全国、さらには世界へと広がっていく。その中に祈りが加えられ、恵みが再び私たち小さな群れに届けられている。すべては神の御業であり、その素晴らしさを讃美せずにはいられません。

本日まで日本バプテスト連盟の「協力伝道週間」です。祈りと協力、献身と祝福という恵みの循環を信じつつ、共に神の国を広げていきましょう。シャローム!

「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。(コヘレトの言葉11:1)」、「受けるよりは与えるほうが幸いである。(使徒20:35)」



2025.2.2 本日の宣教

 『 神に近くいますか』

                 (ヤコブの手紙4章4~10節)

前回、私たちの行いの動機について、特に私たちの願い求めが神の御心に適ったものなのか、それとも自己中心的な欲望に基づいているのかについて分かち合いました。ヤコブは、自分の欲望のために願い求め、その欲望を満たすために生きる人を「神に背いた者たち」と呼び、「世の友」とも言っています。一方で、神に従う者を「神の友」と呼びます。

聖書の神は「妬む神」です(出エジプト記 20:5、申命記 5:9)。つまり、世の友となり、この世の考え方に染まることは、神に敵対することになります。ここでは、「神」と「世」が明確に対立関係にあることが分かります。キリスト者は世の友ではなく、神の友とならなければなりません。二人の主人に同時に仕えることは不可能ですし、世と神の両方の友になることもできないからです(マタイ 6:24)。ヤコブは旧約聖書の言葉を引用しながら、宛先の信徒たちに語りかけています。これは、キリスト者の中に住まわれる聖霊が、妬むほどに私たちを愛しておられることを意味しているのでしょう。続く6節では、箴言 3:34が引用されており、神は高ぶる者を退けられるので、私たちは謙遜を学ばなければなりません。へりくだって神の恵みを慕い求めるなら、神は私たちに悪い欲望や誘惑を退ける力を与えてくださるでしょう。

人は何に近づくかが重要です。悪いものに近づけば悪いものに似ていき、良いものに近づけば良いものに似ていきます。なぜなら、人は身近なものから影響を受けるからです。だからこそ、良い人になりたいなら、悪いものか ら遠ざかり、良いものに近づくべきです。良いものに近づけば、その良さが自然と自分に染み込んでくるのです。

 私たちの信仰も同じです。成熟した信仰、成長する信仰、世に打ち勝つ信仰、いのちに満ちた信仰を持ちたいなら、その信仰の源である方のそばにぴったりと寄り添うことが最善です。私たちの周りには、信仰の良い手本となる人が多くいることでしょう。そうした人々のそばで学ぶのも素晴らしいことですが、本当にしっかりと学び、確かなものを得るためには、最も良い存在、その原点に立ち返らなければなりません。その方こそ、私たちの主イエス・キリストです。主イエスに近づけば近づくほど、私たちは確実にイエスに似た者とされていくのです。

神の家族の皆さん、私たちが神の前に近づく前に、神の独り子イエス・キリストが先に私たちの最も近くまで来てくださったことを忘れないでください。主イエスは、十字架の傷ついた両手を広げ、私たちの最も近いところまで来られ、私たちを抱きしめてくださいました。十字架の上で、私たちのすべての弱さ、汚れ、病、問題や課題を背負い、命を惜しまず捨ててくださいました。その主イエスの招き、「ありのままで来なさい。汚れたままでいい。重荷を背負ったままでいい。近づいてきなさい。私に触れてごらん。私はあなたの内にあり、あなたは私の内にあるのだ!」――その声が、今も私たちに語りかけています。

ハレルヤ!


2025.2.2 小さな泉の恵み

 ~なんちゃって早天祈祷~

主の年2025年をいただきましたが、「2024年度」はむしろ年度末にむかってまっしぐらです。わたしの仕えている教会では、コロナでリセットされたいろいろな活動や組織の体系の再構築がなかなか進みません。同時に、新しい形での伝道や交わりの活動も随所で始まっており、体制が整うまで止まっているわけにはいきません。

 わたしは総務委員という役目をいただいており、これは非常にやり甲斐のある役目です。教会全体の組織と活動と、教会員一人ひとりの祈りと願いと思いも見えてきますので、教会への愛も高まります。それだけに、教会の年度をどうまとめて、新年度をどう始めていくのか...どこの教会も同じですが課題山積み。この前、モーレツな不安に襲われて夜中に目が醒めました。「これはイカン!祈りが足りない」今の教会は電車と徒歩で片道約40分。小泉町教会でさせていただいた毎朝の会堂ディボーションはさすがにできませんが、主日の朝10分早く教会に行って、祈祷室で10分間!祈りに集中することにしました。この整えは大きい!教会でも落ち着いてものごとが見えるようになってきました。課題は依然として山積みと言うか、ますます積まれている気がいますが、受ける励ましも大きく、主日の朝のこの10分は黄金の時となりそうです。

「働け、わたしはお前たちと共にいると万軍の主は言われる(ハガイ2:4)  

                         大井教会 清水美樹


2025.1.26 牧師室便り

 「主にある母、兄弟、家族」

先日、義理の母の葬儀を終え、無事に帰国することができました。

義理の母は優しく、愛に満ちた人で、一人娘である妻を自分の命以上に、そして二人の孫たちをも深く愛していました。また、教会と信徒を家族のように大切にし、自然や花、鳥を愛し、小さなことにも素直に感動することができる方でした。

突然の召天の知らせを受け、どうすればよいのかと慌てましたが、「早く妻を支え、愛する母を天に送った妻の隣にいてあげなければ」という思いが先立ち、急ぎ飛行機を手配しました。同時に、事情を5人の執事の皆さんに報告し、牧師不在時の礼拝をはじめすべてをお任せしました。

すると、島田兄がすぐに宣教奉仕を引き受けてくださり、他の執事の皆さんも快く協力してくださいました。「安心して行ってきてください。洪姉を支えてください」という温かい励ましの言葉にも心から感謝しています。普段は夏季休暇の際に、不在時の奉仕内容を細かく確認し、しっかりと段取りを整えてから出発しますが、今回は急な帰国となり、皆さんにとても大きなご負担をおかけしました。それにもかかわらず、温かい言葉と献身的な働きによって、どれほど力と慰めをいただいたことでしょうか。本当に感謝の思いでいっぱいです。

イエス様は、母マリアをはじめとする家族が訪ねて来たとき、こう言われました。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。…だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

私に対しても、肉親が天に帰った今、神はこう語られるのではないでしょうか。「あなたの母や兄弟とは、小泉町教会の神の群れであり、あなたの兄弟姉妹とは、そこで親しく交わりを持つ一人一人である。」…

愛する神が小泉町教会をどれほど喜んでおられるかを思うと、これからもイエス様に喜ばれる教会共同体を目指していきたいと願っています。シャローム!



2025.1.26 小さな泉の恵み

 ~クリスチャンの豆知識~

クリスチャンは自分がクリスチャンであることを知らせるために、さかなのマーク(魚のマークの図)を書くことがあります。 なぜ魚のマークを書くのでしょうか? ギリシャ語でさかなを意味する言葉をイクス―ス(ΙΧΘΥΣ)といいます。

クリスチャンが迫害されたとき、クリスチャンということがわかると殺されてしまうことがありました。でもクリスチャンたちは、自分がクリスチャンであることを知らせ合うために、暗号のようなさかなのマークを使いました。土の上にさかなのマークをサッと書いては消し「私はクリスチャンです」「わたしもですよ」と苦しい時代を励まし合っていました。

そして、さかなの文字の意味は“イエスキリスト、神の子、救い主”で、それぞれの言葉の頭文字をつなげると、イクス―スとなります。

I イエスウス(イエス)

X クリストス(キリスト)

Θ セウ(神の)

Y フュイオス(子)

Σ ソーテール(救い主)

                                                                    I.H.兄

2025.1.19 牧師室便り

~福井教会の新会堂を祝おう~

本日、私たちは福井教会で行われる「福井教会復興のための全国支援・地域共同プロジェクト」をお祝いする会に出席するため、出かけます。このプロジェクトは、一人の兄弟の祈りから始まり、金沢教会と富山小泉町教会が長年祈りと協力を続けた結果として、本日の恵みを迎えることとなりました。また、中部地方連合の先生方や諸教会の応援と支え、日本バプテスト連盟に連なる諸教会の皆さんが、福井教会の復興に共感し、新会堂が必要であるという願いに応えてくださったおかげで、連盟総会を経て、今日の恵みの時に至ったのです。

私たち富山小泉町キリスト教会も「一つの県に一つの教会を」というビジョンのもと、連盟の支援を受けて土地と建物を得た経験を思い起こし、その恵みを改めて感謝しています。

福井キリスト教会は、一人の兄弟の礼拝と叫びから始まり、神が平良先生ご夫妻を福井に送られ、今では10人を超える人々が礼拝を献げています。さらに今現在、福井教会を通して、どれほど多くの恵みの業が行われているかを思うと、驚かされるばかりです。

一方で、「ただ多額のお金を投じて新しい建物を建てることに、何の意味があるのか」との声もあります。しかし、本当の教会復興は、お金や建物だけでなく、信仰、祈り、献身が神の前に届けられ、神がそれを用いて新しい業を始められることによるのです。福井教会も老朽化とシロアリ被害により会堂を解体せざるを得ませんでしたが、信仰に基づく復興の歩みを通じて、神が新しい業を進めておられるのです。

本日、私たちは金沢教会とともに新会堂を訪れ、その美しさと神がなされた御業を喜び、感謝をもってお祝いします。この会を通して、北陸という伝道が難しい地域において、共に協働することの恵みを再確認し、ビジョンを共有しながら足並みを揃えて歩み続ける素晴らしさを実感し、実を結ぶ姿を確かめることになるでしょう。

ぜひ、大いなる御業を始められた神をほめたたえつつ、福井教会の皆さんを励まし、応援の拍手を届けて帰りましょう。シャローム!



2025.1.19 本日の宣教

 『あなたの願い求めはどこから? 』

                                               (ヤコブの手紙一 4章1~3節)

聖書が教える人生の目標は、神の御心に従って歩むことにあります。しかし、人間は最初の人アダム以来、絶えず各自の欲望を満足するために走ってきた歴史でした。その結果、度重なる戦争や差別、分裂などの問題は消えるどころか、むしろ力を増しているのが現実です。

今日、私たちを取り巻く世界的悲劇に目を向けると、そのほとんどが人間の欲望を火種として起きていることに気づかされます。ロシア・ウクライナ戦争、イスラエル・ハマス戦争も、また、地球温暖化による気候変動や自然災害も、人間の欲望がもたらした悲劇であると言えるでしょう。そのことをよく知りながらも、人間は欲望を抑制しようとせず、むしろ欲望の力を思うがままに振るう現状です。このままでは世界の破滅が確実であるにもかかわらず、ブレーキのない欲望の列車に乗り続けているような有様です。

本日、ヤコブは「あなた方の間に戦いや争いが起こる原因は何か」と問いかけることで4章を始めています。

使徒言行録2章に描かれた最初の教会は、まさに平和と一致に満ちた教会でした。しかし、時間が経つにつれて、教会内に争いや戦いが起こり、利己的な欲望に囚われる状況が生じていたようです。この箇所から明らかになるのは、宛先の教会内に対立と争いがあったことを示している点です。そして、その争いの原因を「内部で争い合う欲望」だとヤコブは断言しています。「内部で戦い合う欲望」とは、罪の性質のことであり、自己中心的で世を愛する心を指しています。

罪人である人間は欲望を持って生まれました。だから、 救われたキリスト者にとって地上での生活は霊的戦いの連続であります。そこでヤコブは、信徒たちの霊的戦いに目を向け、その戦いと争いの源が何であるかを知らせようとしています。神の敵であり、信徒たちを虜にしようと試みる存在である「サタン」は、「告訴する者」「敵対者」「反対者」という意味の名前通り、信徒たちの間に争いと分裂、差別を引き起こし、神と人、人と人、また自分との関係を崩そうとします。そのことを良く知っていたパウロは「あなたの願い求めはどこからくるのか?」と尋ねることで、すべての行いの土台となる「動機」の問題を明らかにします。

私たちの日常生活を振り返ると、争いや対立が外的な要因からではなく、私たちの内面から始まっていることに気付かされます。みんな家庭や職場、教会における人間関係の中で、衝突や対立を経験しながら、それらが単に外部の環境や他者の問題からではなく、自分自身の内側の「欲望」に原因があることを学びます。

そこでヤコブは、「祈りが受けられない理由こそ、「自分の楽しみ(快楽)のために使おうと」するからだと告げます。皆さんの祈りの動機はどこにあるでしょうか。

人の行いは、100%その動機と関係しています。その人の心の動機によって、その行いが決まるのです。そのことを良く知っていたヤコブは、私たちに「あなたの行いの動機はどこから来ているのか」と問いかけています。あなたの祈り、礼拝、献金、奉仕、願い求め、あなたのすべての行いは、どこから来るものなのかと問いかけながら、私たちの答えと決断を迫られているのです。シャローム!


2025.1.12 牧師室便り

 「礼拝堂を祈りの家に!」

2025年の歩みが始まり、早くも10日が過ぎました。元旦礼拝から初めての主日礼拝、水曜祈祷会、そして「小さな泉の村」と、新しい年にふさわしいスタートを切ることができました。

特に、水曜日の祈祷会は朝と夜の2回に分けて行われています。イエス様がエルサレムの神殿で商売をしている人々を追い出し、「私の家は祈りの家だ」と語られたことを思い起こします。その熱意を胸に、小泉町教会も祈りの家としての役割を果たしていきたいと願っています。水曜祈祷会は、日曜日の礼拝と同様に、休みの日であっても、雪が降っても、天候が悪くても、必ず行っています。

午前の部では、ゴスペルの賛美を歌い、リビングライフの御言葉を黙想します。その後、互いの感じた恵みや質問を分かち合い、牧師による解説と学びの時間を持ちます。さらに、御言葉から得た祈りの課題を共有し、それぞれが祈り合うひとときを過ごします。夜の部では、朝に黙想した御言葉を振り返り、分かち合いをした後、牧師の解説を通じてさらに学びを深めます。最後には、朝と同様に祈りの時間を持っています。

現在、朝と夜を合わせて約10名が参加していますが、参加者にとって聖書の御言葉を深く味わい、祈りを通して信仰を成長させる大切な時間となっています。

神の家族の皆さん、ぜひ水曜祈祷会にご参加ください。教会は、聖霊の恵みをいただく祈りから力を得て進んでいきます。また、私たち一人ひとりも、御言葉と祈り、聖霊との交わりを基盤として成長していきます。

025年を通じて、この祈祷会が聖霊の導きと満たしを経験する場となるように祈ります。そして、御言葉の豊かさを味わいながら、祈りを通じて信仰の歩みを深める神の家族となりましょう。共に祈り、小泉町教会を祈りの家としましょう。

シャローム!




2025.1.12 本日の宣教

 『新しいことを始めるということ』

                                                 (イザヤ書43章19節)

洪正實姉のお母様姜仁淑(カンインスク)姉が10日朝に天に召されました。閔丙俊先生と璱基姉が急遽韓国に帰ることになりました。朴ボヒョン姉の霊が主とともに平安を与えられ、ご家族が主の豊かな恵みにより慰められることをお祈りいたします。

今日の礼拝のメッセージで私が主に示された聖書の箇所は、「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き砂漠に大河を流れさせる。」です。

イスラエルの民は、長い歴史の中で奴隷であったエジプトから神が救い出し、約束の地を与えられたにも関わらず、神に聞き従わず、自らの権力や軍事力、偶像により頼み、弱くされた人々を略奪し、神が送ったメシアをないがしろにして、繰り返し悪を重ねてきました。そのため国は二つに分かれ争い、北王国はアッシリアに滅ぼされ、南王国はバビロンに捕囚され、エルサレムは破壊され滅びます。

 しかし、神は、イザヤ40章で神の一方的な恵みと赦しによってイスラエルの民の救いと来るべき祝福を預言します。「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」「荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。」(イザヤ書40章3~5節)イスラエルの二つの王国は、「草は枯れ、花はしぼむ」ように滅びるが、創造の力と贖いの神の言葉はとこしえに立ち、「主の御前に、国々はすべて無に等しく、むなしくうつろなものと見なされる。」 イスラエルを滅ぼしたアッシリアやバビロンも、「奪う者にヤコブを渡し、略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか、この方にわたしたちも罪を犯した。彼らは主の道に歩もうとせず、その教えに聞き従おうとしなかった。」(イザヤ書42章24節)

イスラエルの民は、とこしえに立つ神の言葉に聞き従わず、悟る者もなく、かたくなになった民を神は罰されましたが、一方的な赦しを約束されたのです。

なぜなら神は、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」(イザヤ書43章4節)と神は私たちを一方的に愛しているからです。そこには、主の愛に応えるために、主の言葉を信頼し、主に望みをおくことが伴わなくてはならないのだと思います。

今、SDGsという希望が与えられていました。しかし、いまだに国の権力や軍事力に寄り頼み、国と国は争い、罪のない人々、こどもや女性を殺し続けています。私たちを贖うために十字架にかかった主の一方的な赦しと愛に応えるために、国も、民族も、性別も、宗教さえも超えて、人々がともに幸せに暮らし続けられる世の中にするように、今年は「新しいことを始めるということ」に取り組みます。

「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ書40章31節)

                               島田 茂

2025.1.12 小さな泉の恵み

 キャベツ一個税込みだと642円!じぇじぇじぇ」スーパーに買いに行き驚きました。レタス 白菜 大根も超高いです。12月初旬に散歩をしていると農家の方が畑を悲しげに見ながら立ち止まっていました。「キャベツも白菜もほとんどダメだ。青虫にやられちゃって」と夏の日照りに加えて、11月になっても気温が高い日があって虫の被害が多いのかと思いました。キャベツの産地では、夏の高温に加えて、急激な気温の低下と雨不足で十分育たなかったことが影響しているそうです。

昨年から今年にかけて、燃料、お米、野菜など大幅な物価高で生活が苦しくなり、不安を感じます。ウクライナ戦争によって燃料は高騰し、異常気象による日照りや局地的な豪雨によって、農作物は甚大な被害を受けています。

幸い私たちの教会は、農業に従事する兄弟によって、長年私たちの暮らしが支えられています。本当に感謝につきません。また、私たちの教会には、富山県を代表する農業経済のトップリーダーの兄弟も加わり、また家庭でもできる取り組みも紹介されています。

私が暮らすまちでも農業をされている方はおられ、長年釣った鮎との物々交換によって、たくさん野菜をいただきました。しかし、高齢化によって畑をできなくなった方もおられ、今後が心配です。我が家も含めて休耕地をお借りして野菜を作れないかと考えています。

私たちの教会のように、出荷できない野菜や家庭菜園で作った野菜を安く提供し、支えあう仕組みができないかと考えています。主に知恵と実行する力を祈りつつ。

                               島田茂兄