『 神に近くいますか ⓶ 』
(ヤコブの手紙4章4~10節)
先週、私たちは「世の友となる人」と「神の友となる人」の違いについて分かち合いました。また、「友になる」という言葉には「フィロス(愛する)」という意味があることを学びました。つまり、世の友となる者に対して、神はその者を敵とされます。
そして、妬む神として、神ではないこの世を愛する者に対し、神の御心、妬むほどの愛を持っておられることについて分かち合いました。また、「高慢」と「謙遜」というテーマを通して、神は決して高慢な者を喜ばれず、むしろ敵とされることについても話し合いました。
本日は、その続きとして、特に「神に近くいることの幸い」について分かち合っていきたいと思います。
「神に近づきなさい」という言葉は、私たちにとってごく普通に聞こえるかもしれません。しかし、この言葉をじっくりと味わってみると、旧約時代には神に近づくことができなかったことがわかります。あの偉大なモーセでさえ、神の前に立ったとき、「近づいてはならない」と言われ、履物を脱ぐように命じられました。また、神の特別な民であるイスラエルも、シナイ山に近づくことを禁じられました。それは、汚れた罪人が聖なる神を見ることなどあり得なかったからです。
しかし、今日、同じく罪人である私たちに、ヤコブはこう語ります。「神に近づきなさい。」一体何が起こったのでしょうか? それは、かつて神と断たれていた私たちの関係に、イエス様が十字架の上でご自身の血によって橋を架けてくださったからです。主が私たちのすべての罪と咎を取り除いてくださったからこそ、今や私たちは神の子として、神に近づくこ とができるのです。
人は何に近づくかが重要です。悪いものに近づけば悪いものに似ていき、良いものに近づけば良いものに似ていきます。なぜなら、人は身近なものから影響を受けるからです。だからこそ、良い人になりたいなら、悪いものから遠ざかり、良いものに近づくべきです。良いものに近づけば、その良さが自然と自分に染み込んでくるのです。私たちの信仰も同じです。成熟した信仰、成長する信仰、世に打ち勝つ信仰、いのちに満ちた信仰を持ちたいなら、その信仰の源である方のそばにぴったりと寄り添うことが最善です。
その方とは、私たちの主イエス・キリストです。主イエスに近づけば近づくほど、私たちは確実にイエスに似た者とされていくのです。
神の家族の皆さん、私たちが神の前に近づく前に、神の独り子イエス・キリストが先に私たちの最も近くまで来てくださったことを忘れないでください。主イエスは、十字架の傷ついた両手を広げ、私たちの最も近いところまで来られ、私たちを抱きしめてくださいました。十字架の上で、私たちのすべての弱さ、汚れ、病、問題や課題を背負い、命を惜しまず捨ててくださいました。その主イエスの招き、「ありのままで来なさい。汚れたままでいい。重荷を背負ったままでいい。近づいてきなさい。私に触れてごらん。私はあなたの内にあり、あなたは私の内にあるのだ!」――その声が、今も私たちに語りかけています。
ハレルヤ!
0 件のコメント:
コメントを投稿