2025年3月4日火曜日

2025.2.2 本日の宣教

 『 神に近くいますか』

                 (ヤコブの手紙4章4~10節)

前回、私たちの行いの動機について、特に私たちの願い求めが神の御心に適ったものなのか、それとも自己中心的な欲望に基づいているのかについて分かち合いました。ヤコブは、自分の欲望のために願い求め、その欲望を満たすために生きる人を「神に背いた者たち」と呼び、「世の友」とも言っています。一方で、神に従う者を「神の友」と呼びます。

聖書の神は「妬む神」です(出エジプト記 20:5、申命記 5:9)。つまり、世の友となり、この世の考え方に染まることは、神に敵対することになります。ここでは、「神」と「世」が明確に対立関係にあることが分かります。キリスト者は世の友ではなく、神の友とならなければなりません。二人の主人に同時に仕えることは不可能ですし、世と神の両方の友になることもできないからです(マタイ 6:24)。ヤコブは旧約聖書の言葉を引用しながら、宛先の信徒たちに語りかけています。これは、キリスト者の中に住まわれる聖霊が、妬むほどに私たちを愛しておられることを意味しているのでしょう。続く6節では、箴言 3:34が引用されており、神は高ぶる者を退けられるので、私たちは謙遜を学ばなければなりません。へりくだって神の恵みを慕い求めるなら、神は私たちに悪い欲望や誘惑を退ける力を与えてくださるでしょう。

人は何に近づくかが重要です。悪いものに近づけば悪いものに似ていき、良いものに近づけば良いものに似ていきます。なぜなら、人は身近なものから影響を受けるからです。だからこそ、良い人になりたいなら、悪いものか ら遠ざかり、良いものに近づくべきです。良いものに近づけば、その良さが自然と自分に染み込んでくるのです。

 私たちの信仰も同じです。成熟した信仰、成長する信仰、世に打ち勝つ信仰、いのちに満ちた信仰を持ちたいなら、その信仰の源である方のそばにぴったりと寄り添うことが最善です。私たちの周りには、信仰の良い手本となる人が多くいることでしょう。そうした人々のそばで学ぶのも素晴らしいことですが、本当にしっかりと学び、確かなものを得るためには、最も良い存在、その原点に立ち返らなければなりません。その方こそ、私たちの主イエス・キリストです。主イエスに近づけば近づくほど、私たちは確実にイエスに似た者とされていくのです。

神の家族の皆さん、私たちが神の前に近づく前に、神の独り子イエス・キリストが先に私たちの最も近くまで来てくださったことを忘れないでください。主イエスは、十字架の傷ついた両手を広げ、私たちの最も近いところまで来られ、私たちを抱きしめてくださいました。十字架の上で、私たちのすべての弱さ、汚れ、病、問題や課題を背負い、命を惜しまず捨ててくださいました。その主イエスの招き、「ありのままで来なさい。汚れたままでいい。重荷を背負ったままでいい。近づいてきなさい。私に触れてごらん。私はあなたの内にあり、あなたは私の内にあるのだ!」――その声が、今も私たちに語りかけています。

ハレルヤ!


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