2024年4月29日月曜日

2024.4.28 牧師室便り

 ~ 主と共に出かける時を待ちつつ ~

先週の昼食後、15名ほどの方々が能登半島地震支援活動のために酒井姉の指導のもと、マッサージ訓練を行いました。頭のつぼから肩、脊椎の方へ、そして手マッサージへと広がる中で、参加した皆さんの顔に笑みが浮かびました。^―^ まだまだ上手になるには時間がかかるとは思いますが、これから仕えていく方々の笑顔を思い浮かべながら、喜びをもって備えていきたいものです。

諸事情によって一か月ほど遅れてしまいますが、これから長い支援の歩みになると思うので、できることを一歩一歩としっかり身につけておくべきでしょう。

一つ忘れてはならないことは、主イエスがいつ「出かけなさい」と言われても、躊躇することなく従うということです。今もなお試練の只中にある被災地の皆さんのために、主の御手の憐れみと助けを祈り続けることです。

本日は2024年度の定期総会が開かれます。コロナ下の中では神の家族が互いに重荷を担い合うことを願って主題を掲げていましたが、その御言葉の前に立つと小さくなってしまう私たちです。
2024年度の主題標語として「主の憐れみに生きる教会」を提案します。収穫のために働き手を求めるようにと命じられた主は、いつどこにいても、深い憐れみをもっておられ、弱く病んでいる人々、また疲れ果てている人たちと関わり、癒しと力を与え、神の国をプレゼントされました。それに倣って、小泉町教会の神の家族の今年度の歩みにおいても、主と同じく深い憐れみが働きの動機となり、力となりますように。「わたしに従いなさい」と手を差し伸べられる主イエスと共にハイタッチできることを祈ります。シャローム!
               

2024.4.28 本日の宣教

 『 主の憐れみに生きる 』          

                     哀歌3章22~24節

哀歌は、紀元前586年のエルサレムの滅亡を目撃した証人が、バビロンによって滅ぼされ、捕虜として連れ去られる屈辱を目の当たりにし、涙をもって歌った嘆き歌です。哀歌のヘブライ語原典のタイトルは、本書物の最初の言葉である「エーカー」です。これは「ああ、なぜ、なにゆえ」という意味で、驚きと悲しみを表す感嘆詞です。

詩人の目に入るのは、崩れ落ちたエルサレムの城郭や建物、また殺された死体が転がる町、親を失くして泣き叫ぶ子ども、寂しく死を待っている老人たちの姿です。どこを見ても希望を見出せない状況の上に詩人は立っていました。

しかし、詩人は決して現実の中で絶望に陥ることはありませんでした。本日の御言葉は詩人が希望を抱いていたことを教えます。「再び心を励まし、なお待ち望む」(21節)と。…それでは、その希望の根拠はどこにあったのでしょうか。詩人はその希望を神の慈しみと憐みに置いています。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。(3:22~23a)」

詩人は徹底的に悲惨な状況に嘆き苦しみながらも、決して諦めず、心深くに抱いていた希望への確信がありました。それは「主の慈しみと憐み」でした。旧約聖書の中で神様の愛を紹介する時に最もよく用いられる言葉が「慈しみ(ヘブライ語:ヘッセード)」と「憐み(ヘブライ語:ラハム)」です。 “慈しみ「ヘッセード」”とは、神と人との関係において、神が人々に示す無条件の愛、慈悲、忠実さを指す愛の言葉です。詩人は、主のヘッセードの愛は決して絶えないと断言します。今、目に見える現実は絶望で悲惨な状況であろうとも、ヘッセードの愛をもっておられる神は神の民を見捨てず、必ず共にいてすべてを美しく変えてくださるという確信をもっています。

さらに、“憐み「ラハム」”とは、父なる神が試練の中にある子どもたちに示す深い憐れみと同情を指す言葉で、人間同士の関係においても、他者に対する思いやりや慈悲、同情を示す行為を表現する際にも使われます。これは「子宮」や「内臓」を意味する言葉と関連しています。つまり、感情や深い愛、思いやりは体の内臓の深いところから湧き出るものと考えられていたのです。詩人は、神の子どもたちを思う憐みも決して尽きないと断言することで、神の慈しみと憐みにこそ、決して変わることない希望があることを歌っています。

そこで詩人は、もう一歩進んで、「朝ごとに」これらの「主の慈しみと憐み」を確かめ、その希望を朝ごとに新たに味わいながら生きることを宣言します。

今私たちの周りに目を向けましょう。哀歌の詩人が歌っていたように、悲惨な状況の中で苦しみ、絶望の中で泣き叫ぶ人々の姿を見ます。しかし私たちは、そのただ中で、深い慈しみと憐みをもって交わっておられる主イエス、すべての罪、悲しみ、苦しみ、絶望を背負い十字架にかけられた主イエスに希望を抱きます。

本日は2024年度定期総会が開かれます。願わくは、神の家族お一人おひとりが、朝ごとに新たに注がれる主の慈しみと憐みに浸される体験をし、そこで新たな力と希望を得、主の慈しみと憐れみに生きる生活へと進みますように…。ハレルヤ!



2024.4.28 小さな泉の恵み

 主の御名を讃美します。

「主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。(詩編37:4)」

私は毎日この御言葉を黙想しながら暮らしています。すると心に平安な思いが出てきます。御言葉によって励まされています。

クリスチャンになって御言葉を知ることができてイエス様に感謝しています。

世の中で暮らしていると自分にプラスになることもありますが、マイナスの心になることが多いです。先日観た映画には「主の御名によって」祈ると記されていました。自分だけでなく主が私と共に戦っていてくださると思うと、心が平安になります。         

                              M.T.姉

2024年4月21日日曜日

2024.4.21 牧師室便り

  ~ 憐みを身につけて歩む~

今から17年前、富山に赴任した時のことです。息子を保育園にあずけた後、半年ほど経ってから息子が同じ年ごろの男の子たちからいじめられていたことを知りました。当時、息子が目の前で男の子たちからいじめられている姿を目の当たりにした時のショックは大きいものでした。息子が半年間何も言えずに一人で涙を流していたことを考えると、胸が張り裂けるような痛みを感じました。その時の経験は息子にとって大きな傷となり、友だち作りに苦しんでいたことを覚えています。

小学校に進学することで、息子に今までの嫌な記憶を忘れ、新しい環境で新しい友だちを作ればいいのだと励ましました。しかし、今度は息子が韓国人であることで、数人の男の子たちから嫌がらせを受けたり、脅されたりすることが続き、息子の友だちを作りたいという望みは再び挫かれてしまいました。

その後、息子との対話の中で、息子は「もう、一人でいい。彼らの言葉や行動を無視すればいいから。」と話していました。その言葉に、深い悲しみを覚えながら、次のような言葉をかけました。「息子よ、君は神の子どもだよ。あなたの苦しみをイエス様はよく知っておられる。だから、いつも傍らのイエス様を見なさい。それから、嫌がらせをする彼らを可哀想に思いなさい。彼らはイエス様の愛を知らない本当に哀れな子たちだからね。」と・・・。それから、いつの間にか息子は成長し、一人のクリスチャンとして生活していることに感謝します。

 「誰かを憐れむ」ということは、自分が上からの目線で抱く思いではありません。主イエスが十字架の上で釘うつ兵士たちに向かって、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と祈られたように、その人や対象を主イエスの目で見、主の御心に照らしてその人を受け入れることです。主の憐れみを身につけて歩む人は幸いです。    シャローム!

              

2024.4.21 本日の宣教

 『 聖霊に助けられて祈る 』          

               エフェソの信徒への手紙6章18節

使徒パウロは、神の国の福音の働きを妨げる悪魔の策略を見抜きながら、クリスチャンと教会に向けて「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」と命じています。続けてパウロは、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするもの」であることを強調しています。先週の礼拝後「祈りのちから」という映画でも大切に扱っていた主題が「霊的戦い」ということでしたね。

そこでパウロは、霊的な戦いにおいてしっかりと身につけるべき武具として「真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の履物、信仰の盾、救いの兜、聖霊である御言葉の剣」を挙げています。

しかしパウロは、神の武具を述べるだけでなく、「聖霊に助けられる祈り」を付け加えています。その理由は、いかに強く素晴らしい武具を身に着け武装しても、勝利を与えるのは神であるということ、だから、祈りによる神との親密な交わりがなければ、霊的な戦いで敗北せざるを得なくなることを示しているのです。その通り、祈りとは神と繋がるホットラインのようなものです。その祈りのホットラインが切れてしまったら、神からの御心を受け取ることができず、悪魔サタンに振り回されてしまうことになるからです。

「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(18節)…はっきり言いますと、祈らないクリスチャンは勝利することができません。また、祈らない教会は復興、リバイバルを経験することができないのです。だから祈りに励むことです。

ここで「どのような時にも」とは、時を選ばず祈りなさいという意味です。問題が生じてから祈るのでも、困難に直面してから祈り始めるのでもありません。平穏な時にも賛美と感謝で祈りを満たすべきです。困難な時には何も心配せず、必要なことを神に知らせるべきです。神と常に繋がっていれば、どんな状況に遭遇しても慌てたり落胆したりする必要がありません。神との緊密な祈りが続けば、突然の困難に直面しても心配する必要はありません。絶えず祈ることで、問題解決の力を得ることができるからです。

続けてパウロは、「霊に助けられて祈る」ようにと勧めます。他の宗教を信じる人たちにも祈りがあります。しかし、彼らの祈りは御利益だけを求める祈りであり、焦点はいつも自分自身に向けられています。 しかし、私たちの祈りの焦点は神です。常に神の御心と御業を考え、神が喜ばれることを求めるのです。これが「霊に助けられて祈る」人の姿です。そうです。聖霊こそが私たちの祈りを真の祈りにしてくださり、私たちの祈りが神に受け入れられるにふさわしいように導いてくださいます。ですから、聖霊の中で祈るときに確信と大胆さを得ることができます。それにより、霊的戦いに勝利する力強い祈りを経験することができるのです。ハレルヤ!



2024.4.21 小さな泉の恵み

 桜も散り、本格的に暑さが増している様な気がしますが、皆さん体調は如何でしょうか?

  皆さんの小さな泉の恵みを読みながら、この記事を書いているのですが、果たして自分は、神に対して何ができたのだろうか?応答出来ているのか?と考えながら書いて居ます。全く、神に問いかけに対し応答できてます。と自信が持てない自分がいます。

皆さんが書かれた小さな泉の恵みを読んで、御言葉をしっかりと受け止め、日々過ごしているんだなぁと。自分も、御言葉の意味をしっかりと受け止め日々過ごしたいと思います。         

                                 Y.H.兄

2024年4月17日水曜日

2024.4.14 牧師室便り

  ~ どのような花を咲かせますか ~

先週、暖かくなったおかげで、教会の花壇にさまざまな種類の花が一斉に競い合うように咲き続けましたね。その中でも、昨年11月から花が咲き、厳しい冬の雪と寒さに耐え、花壇いっぱいに広がっているバンジーとビオラを見ると、心が温まります。それに、今年に入って勢いよく芽を出して綺麗な黄色と白色の花を咲かせている水仙や、春の花壇の主役のように目立つチューリップ、そして今年初めて目にするヒヤシンス、また花壇の周りを飾る濃いピンク色の芝桜、種も蒔いてないのに可愛い姿で咲いているムスカリやハナニラなど・・・。それだけではありません。昨年の冬に蒔いた野菜の菜の花も咲き、花から漂う香りに心が魅かれます。また、牧師館の方にはレンギョウの花が鮮やかな黄色を誇っています。そしてこれから花壇一杯を綺麗に咲かせてくれるはずのアヤメとシラン、マリーゴールド、ミルトスなど、考えるだけで嬉しくなります。大自然における創造されたものの中で、創造者なる神の愛と美しさを最もよく現している作品を挙げるとしたら、花ではないかと思います。とりわけ、復活と命の季節である春に咲くこれらの数多くの花を見るのは大きな喜びです。

 私たちの教会共同体も神が大切に管理し育てられている花壇に例えられるでしょう。あなたはどのような花を咲かせていますか。創造者なる神は、神の家族一人ひとりがそれぞれ、神に喜ばれる花を咲かせることを喜ばれるでしょう。そして、皆さん一人ひとりの咲く花が素敵な調和を成し、その放つ花の香りが神の家族に喜びと慰めをもたらし、さらに教会の周りに良い香りを漂わせ、神が備えられた幸いを与えることができますように…。そのために、皆が御言葉による命の栄養と祈りによる恵みの雨をいただき、素敵な神の国の花壇を作っていきましょう。シャローム!


2024.4.14 本日の宣教

 『 祈りを考える 』 

                    ヨハネの手紙一5章14~15節

祈りはキリスト者の息吹であります。人が息をしなければ死んでしまうように、キリスト者が祈らなければその人の信仰は死んでしまうでしょう。命を失っている人は、形は生きているように見えてもその人の内には命が流れていないのと同じように、祈らないクリスチャンには霊的な命が流れていません。それほど、祈りは「キリスト者」の生活を説明するための最も基本的な要素であり、大切なものです。

「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。(14~15)」

使徒ヨハネは、祈りが答えられるために最も大切な基準を提示します。その基準こそ「神の御心に適った祈り」を献げるということです。「神の御心に適う祈り」とは、神の御言葉と聖霊の導きに従って祈るということです。自分の気ままな願いや欲深い願いを、また不正な目的で祈る場合、神は聞いてくださいません。

神は、私たち神の子どもたちの祈りを通して働かれ、私たちがご自身と共に働くことを願われますし、そのことを確信して(大胆に)祈ることを望んでおられるのです。ただし、祈りの答えがすぐに与えられるとは限りません。神は最善の時に、最善の方法で、最善の事を通して成し遂げてくださいます。祈りは私たちの欲望を適える道具ではなく、神の御心に適う私たちの心の願いを求めることだからです。しかし、私たちの祈りはいかがでしょうか。

 ヨハネはその祈りの模範を主イエスから教えられたことでしょう。主イエスは十字架を前にしてのゲッセマネ園での祈りを通して、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)と、御自身の願いではなく、神の御心のままに成ることを祈られました。成熟したキリスト者であるならば、主の祈りの模範に従って祈るはずです。しかし、このような祈りを献げるためには、普段の生活の中で父なる神との親密な交わりが前提となるでしょう。

 神の家族の皆さん、私たちの祈りは空を打つような、日本社会における八百万の神々のような漠然とした対象に向かうものではありません。私たちキリスト者は、私たちの内におられる聖霊との親密な交わりの中で、一つ一つの出来事を前にして、祈りの座へと進み出、主の御心と知恵を尋ね求め、主が喜ばれる道や行動を選び歩み出すという全人格をもって体験できるものがキリスト者の祈りなのです。

 あなたの祈りはいかがでしょうか。その祈りが息吹きとなってあなたを生かしていますか。小泉町教会の今年度の歩みが生きた祈りによって祝福され、豊かな実を結びますように…。

ぜひ、映画「祈りのちから」から神が望まれるキリスト者の祈りの生活を学び、祈りの力に満たされる今年度の神の家族の歩みであるように…。ハレルヤ!


   

2024.4.14 小さな泉の恵み

 小泉町教会の愛する神の家族の皆さま、いつも祈りに覚えてくださり、心より感謝申し上げます。早いもので富山から神奈川へと引っ越して3年が経ちました。そして現在在籍しておりますT教会に通い始めて、2年が経ちました。その間、小泉町教会の皆さまとは楽しい聖書の学びを通して交わりを続けさせて頂いております。恵みに感謝です。

 引越し当初本社勤務だった夫は、昨年8月突然シンガポール勤務となり、以来神奈川で息子と2人暮らしです。こちらには知り合いも少なく、心細い思いもありましたが、新たに出会った神の家族の皆さまと、イエス様に励まされ、現在は楽しく元気に日々を過ごしております。教会にも慣れ、聖歌隊や受付など奉仕にも少しずつ参加させて頂いております。

 転勤族の夫の次の赴任地も、彼の退職のタイミングも、私には知る術がありません。考えてみれば、明日のことさえ何ひとつ知らない私です。しかし、神さまが私と私の家族を愛し、ご自分の方へと招いておられることだけは確信しております。将来、どのような場所に導かれたとしても、歩む道を主に委ねつつ、示された働きに努めることが出来ますようにと、祈るばかりです。

小泉町教会の皆さまが、主によってますます祝福され、力強く福音を伝えていくことが出来ますよう、祈っております。

主にあって

「常に主を覚えてあなたの道を歩け。

そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる(箴言3:6)」

                                                             A.T.姉


2024.4.7 牧師室便り

  ~ 祝福が満ち溢れる共同体へ ~

「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。(ヨハネの手紙三 1 :2)」

愛する者よ!愛する者よ!… 誰かを祝福するということほど嬉しいことはありません。祝福することは誰にでもできることであり、決して難しいことではありません。必要なのは、祝福する人への心からの愛と、祝福する人を神の御手にゆだねる信仰の祈りさえあれば良いのです。

今の世界は、あまりの忙しさのために他人への関心も、少しの余裕も持てなくなりました。自分のことと、自分の家族のことで精一杯である現実です。このような状況の中で誰かを真心から祝福するということはそれほど簡単なことではありません。 

 聖書の教えるキリスト者は、自分自身が神の祝福を受ける者であると同時に、他人を祝福するために立てられている存在であることを覚えましょう。もしあなたが、自分が受ける祝福だけにとどまり、他人を祝福することを忘れているならば、あなたの信仰には大きな隔たりが生じていると言えるでしょう。願わくは、アブラハムに約束された神の祝福への約束が、皆さんにも同様に約束されていることをぜひ覚えましょう。「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたが祝福する人を祝福する。あなたは祝福の源となる。(創世記12:1~3)」

そうです。祝福の源となるべき私たちです。私たちの神は、祝福の言葉を持ち、人々を祝福する者たちを祝福し、また、祝福は祝福した者に再び返ってきます。ここに祝福の連鎖の恵みが広がるのです。

今日から始まる2024年度の52回ある主日礼拝を通して、互いを祝福し合い、お一人お一人の魂が恵まれ、生活の全てが恵まれ、健康であって、主の祝福を広める小泉町教会でありますように…。シャローム!



2024.4.7 本日の宣教

 『収穫のために働き手を 』

               マタイによる福音書9章35~38節

主イエスの生涯は本当に忙しい毎日でした。1分、1秒も無駄にすることができないほど忙しかったのです。35節を見ると、その忙しい主イエスの生活がよくわかります。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を述べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」

主イエスは時間がある限り、町や村を歩いて回られました。当時は特別な交通手段がなかったので、ただひたすら歩かれたことでしょう。

そこで主イエスに出会った人々は新しく変えられました。病が癒され、心が神様の愛によって満たされるようになりました。ではなぜ、主イエスはこれほどまでに忙しくされたのでしょうか。何がイエスをそこまで忙しくさせたのでしょうか。聖書はその理由を「憐み」にあったと教えます。「また、群衆が飼い主のいない羊ように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(36節) 

「憐れむ」というギリシャ語「スプランクニゾマイ」は、体の腹、内臓に痛みを与えるような深い感情を表す言葉です。心が痛んで、内臓がしみるほどである。つまり、「深く憐れまれた」とは、内臓の奥深いところから相手を可愛そうに思う心であり、心から深く同情するという意味です。

聖書の中では憐れむこと、特に憐れむ人は幸いだといっています。なぜでしょうか。その憐れむという姿が神の愛を説明する最も大切な姿だからです。すなわち、憐れむことの大切な特徴として、愛がなければ憐れむことはできないということがあります。

まさに、主イエスは私たち罪人たちへの深い憐れみゆえに、罪と死の奴隷になり魂と体が疲れ果て傷だらけになっていた私たちのところに、天の御国の栄光の王座を離れて来てくださいました。そして、私たちが忘れていた本当の父親と、帰るべき家、歩むべき命の道を教えるために、絶えず歩き回り、最後は十字架にかかって血を流してまで、真の愛を示されたのです。主イエスは人々を深く憐れみ、すべての人の苦しみ、悲しみ、孤独、絶望、病を背負って十字架にかかられたのです。その通り、主の深い憐れみは十字架にしっかりとつながれています。そのすべての歩みこそ愛であり、愛に基づく憐れみがなければ決してできないものでした。

 最後の38節の御言葉で主イエスは収穫のための働き人、すなわち深い憐れみをもって人々に主イエスの愛を伝えられる働き人を求める祈りを献げるように命じておられます。これは、いずれ訪れるべき終末の日を迎える前に、暗闇の中で弱り果て、打ちひしがれている人々に、主の深い憐れみを持って福音を伝える働き人を求めておられるということです。

2024年度の礼拝者としての歩みが本日から始まります。今年度、主イエスが小泉町教会に託された多くの御業のためには、働き手が少ないのも現実です。いくら大きな計画を立て、偉大な夢を抱くとしても、共に信仰とビジョンを共有できる働き手がいなければただの計画と夢に終わってしまうでしょう。だから「収穫のために働き手を求める祈り」を献げなければなりません。しかし、働き手を求めること以前に、あなたこそ、備えられた働き手であることを告白しましょう。ハレルヤ!



2024.4.7 小さな泉の恵み

 ~愛するモカ(猫)ちゃんへ~

平成16年9月モカは私の所にやって来ました。とても小さく片手で包む位の大きさしかありませんでした。余りに早く母猫から引き離され、体力を失っていましたので、2時間おきに1週間授乳し、ようやく元気になり、我が家の家族になりました。

 きじ柄のふさふさした毛並みをした太っとい猫で、とても賢い猫でした。ゴミ出しの時には道路は危ないので、家々を渡って私について来ました。家に車で帰った時には駐車場で待ち構えていました。寒い冬でもそうでした。2週間程家を留守にする時には、何も言わないのに駐車場の向かいで見送るために待ち構えていて、走り去る車を追いかけて来ました。まるで映画のシーンのようでした。当然のようにいると思っていた家族が突然神様のところに帰りました。まるで役割を終えたかのように、とても安らかに私の腕の中で。モカは私達家族をよく観察し、立ち回っていました。慰めたり、甘えたり、添い寝したり。末っ子の弟のようでした。

小泉教会に参加させていただくようになり、信仰が深められ、次第に私の心も満たされていくようになってきました。長年礼拝から離れていた夫も礼拝に参加するようになりました。まさに奇跡です。閔先生を始め、皆さんのお陰です。モカちゃんは私達の変化を見届けて、役割を終えて、安心して神様の所へ帰ったのかも知れません。モカたくさんの愛をありがとう!

                           S.H.姉      


2024.3.31 牧師室便り

 ~ 崩れてしまっても、もう一度主の前に~

先週の火曜日、アメリカ東部の港湾都市ボルティモアで26日未明、パタプスコ川にかかる鉄の橋に貨物船が衝突し、橋が崩落するという事故が起こりました。特に今回の事故に大きな衝撃を受けた理由は、崩れ落ちる橋の映像がそのまま世界各地に流れていたからです。

本当に一瞬の出来事でした。2.5㎞に及ぶ巨大な橋が一回の衝突で、ドミノのように崩れ落ちるとは誰も予想しなかったはずです。その結果、ボルティモアの港に船の出入りができなくなることで、アメリカに多大な被害が予想されるとのことでした。私は今回の事故を目の当たりにしながら、私たちの生活の基盤も一瞬のうちに崩れてしまうこともあり得るという思いに包まれました。時には病気のゆえに、ある時は災害のゆえに、またある時は人間関係や仕事のゆえに…。

このような悲劇は、クリスチャンの信仰においても同じく起きてしまいます。その模範となった人がペトロでしょう。彼は主イエスに出会ってから幸せな信仰生活を送っていました。イエスの愛弟子となり、神の国の福音をいただきながら、信仰も日に日に成長していったペトロでした。ところが、主イエスが十字架を背負うことになった時、彼は今まで培ってきたイエスの弟子として、信仰者としてのすべてが崩れ落ち、すべてを失ってしまうことになります。もう二度と主イエスの前に立つことはないだろうと思っていたはずです。

しかし復活の主はすべてを失ったペトロを訪ねられ、彼の信仰を再び建てようとされます。「主イエスの愛をもって」…復活の主がペトロを訪ねられ回復の恵みを与えられたように、神の家族一人一人においても同じビジョンと愛をもって訪ねて来られます。大切なのは、もう一度主イエスの御前に近づき触れていただくことです。シャローム!"



2024.3.31 本日の宣教

 『 毎日が復活祭 』

                ローマの信徒への手紙6章4~11節

イエス・キリストの復活はキリスト教の最も重要な信仰告白であり、生命そのものです。主イエスの復活は、主イエスが神の御子であるという確かな証拠でもあります。また、復活によって十字架の福音が真実になり、イエスがキリストであるという告白が証明されることになるのです。しかし、主イエスの復活が真実であり事実であるということと同時に、キリスト者にとって大切な事実がもう一つあります。それは、復活した主イエスが私たちと共におられるということです。

私たちが主イエスの復活を他の人に伝える時、主の復活が事実であるという証拠を語る必要があります。その時私たちに求められることこそ、復活した主イエスが本当に私たちと共におられるという信仰であるでしょう。さらに、主イエスが復活なさっただけでなく、その復活の主が、今も私たちと共におられるということを信じるが、復活の主を信じることにもなるのです。そして、この信仰こそが私たちの人生を変える力となるわけです。

この事実の上で、本日の宣教を準備しながら示された素晴らしい恵みがありました。それこそ、私たちキリスト者には、毎日がイースター、毎日が復活の主と共に歩む復活祭であるという事実です。復活なさった主イエスが生きて私たちに語りかけられ、豊かな交わりの恵みを与えてくださるということは復活を信じなければ決して得られないものだからです。

イエス・キリストが死を打ち破り墓からよみがえられ勝利者となられたのは、ただ死の支配を打ち破られたという意味だけではありません。イエス・キリストを救い主として受け入れた者は皆、復活の力によって生きることになるからです。私たちはパウロが語っているように、主イエスを信じてバプテスマを受けました。バプテスマとは一つになることを意味します。私たちがバプテスマを受けることで、イエス・キリストと一つになりました。

パウロは、私たちが二つの意味でイエス・キリストと一つになったことを教えます。まず、主イエスと共に死んだゆえに一つになったことであり、次に、主イエスの復活と共に一つになったということです。そしてその証しがバプテスマなのです。…「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。(8節)

私たちの毎日の生活が復活祭であるべき理由は、私たちが肉体を持っているからです。私たちは毎日罪の誘惑にさらされ、死んでしまうことを経験します。

聖書は、イエス・キリストが十字架で死なれたとき、私たちも死んだと教えます。その死を信じ、十字架を信じる者は「復活」の奇跡を体験することになるのです。「…このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。(11節)…」したがって、私たちは死んでイエス・キリストとともに生きる十字架と復活の歴史が毎日続くことになるのです。

復活された主イエスは、今この瞬間にも私と共にいます。復活信仰は主イエスの復活の出来事を信じるだけでなく、復活された主イエスとともに生きることであることを一時も忘れてはならないのです。ハレルヤ



2024.3.24 牧師室便り

 ~ 収穫のために働き人を ~

先週、2024年度の奉仕の先頭に立つ5名の執事を選出しました。5名の執事の中には初めて選ばれた姉妹もおり、緊張されていることでしょう。ぜひ互いに助け合い、補い合う中で、主に喜ばれる教会の形成に励んでいただきたいと願います。

いよいよ一週間で2023年度の歩みを終えることになります。コロナが落ち着く中で、小泉町教会の礼拝をはじめ、諸活動もほとんど正常に戻った2023年度でしたね。しかし、3年半という長い時間のせいもあり、礼拝から遠のいた神の家族がなかなか戻って来ていない現状です。その中で、元日に発生した能登半島地震によって小泉町教会には新たな奉仕が求められることになるでしょう。すでに被災地支援に取り組もうとする共同体としての一致した思いが与えられていることを感謝します。

新しい奉仕が要求される中で、示された御言葉があります。それは、主イエスが町や村を回りながら、神の国の福音を宣べ伝えられる時、ありとあらゆる病気や患いをもって訪ねてくる人々を憐れみ、弟子たちに語られた言葉です。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。(マタイ9:37~38)」…

 神の家族の皆さん、神は私たちに「地の塩、世の光」としての使命を与えられました。しかし、働き人がいないのに無理をしてまでその使命を果たすことを神が望まれることはありません。何よりも、私たちが主イエスの要望に応答できる者になるための備えをしつつ、ふさわしい働き人が与えられることを信じて祈り求めることです。主イエスは約束されたことを必ず成し遂げてくださる方ですから、共に信じ、御業を期待しましょう。シャローム!



2024.3.24 本日の宣教

 『 十字架のほかに 』          

              ガラテヤの信徒への手紙6章14、17節

今日の御言葉には十字架に関わる2つの特徴的な言葉が登場します。その一つが「誇り」、もう一つは「焼き印」という言葉です。

まず、「誇り」という言葉ですが、人はそれぞれ「誇るべきもの」をもっています。それによって人は生きる喜びと力を得ていることでしょう。それでは、あなたにとっての誇りにはどういうものがありますか。・・・パウロは彼の誇りについて証しします。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。(14節)」… 彼の人生を通して、常に語り続け、掲げ続けていた主題こそ、「イエス・キリストの十字架」でした。使徒パウロから「イエス・キリストの十字架」を無くしてしまえば、彼の人生は何も残らなくなってしまうほどです。 

しかし、聖書に紹介されているパウロは、元々人間社会において誇るべきものをたくさんもっていた人でした。彼のもともとの名前はサウロ。彼はユダヤ人で、家柄、学歴など自慢できるものをたくさんもっていました。それから、当時の民衆から尊敬されるファリサイ派として、律法に熱心な人でした。まさしくエリートコースを辿った人でした。中でも、当時イエスという偽メシアを信じる異端のグループであったクリスチャンたちを捕え、彼らを完全につぶしてしまうことに使命をもって生きた人でした。

ところが、彼がクリスチャンたちを捕えるために出かけて行ったダマスコスの道で出会ったイエス・キリストとの出会いによって、彼の人生は革命的な変化を経験することになります。まさしく、この世の誇りを求めてひたすら走り続けてきたサウロから、イエス・キリストの十字架だけを誇るパウロに変わるとことになったのです。「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。(フィリピ3:8~9)」

今までのパウロの「誇り」としていたすべてを「塵あくた」にしてしまうほど、イエスとの出会いは彼のすべてを変えていったのです。

次に、「焼き印」という言葉です。パウロは彼の身に、「イエスの焼き印をつけている」と告白します。「焼き印」(ギ:スティグマ)とは、当時の奴隷の頭や手や胸など体に押し付けていた焼き印のことですし、それによって“この奴隷の主人が誰であるか”が明らかにされたのです。だから、「イエスの焼き印」とは、主イエスの福音伝道のために身に受けた迫害の傷跡のことを指します。パウロはその焼き印を通して、自分自身がイエス・キリストの奴隷であり、弟子であることを証ししていたのです。パウロはその焼き印をもってイエス・キリストの十字架の恵みを深め、福音伝道に励むことができました。

受難週を迎えた神の家族の皆さん、あなたのために十字架にかけられ、私たちの罪の赦しと永遠の命を勝ち取られ、神の国の道を開いてくださった主イエスの十字架だけを誇りつつ、「焼き印」を身に受けている者として、主イエスの愛と福音を伝えるお一人おひとりとなりますように…。ハレルヤ!



2024.3.24 小さな泉の恵み

 ~ため息から讃美に~

今、河内姉と1カ月ごとに交代しながら礼拝の時の用いられる週報とスライドを制作する奉仕とをしています。スライ制作の奉仕が追加になった時、パソコンを使った奉仕が増え締切があるものが二つになったことで、奉仕をする喜びが私のうちには、あまりありませんでした。特にスライド制作ソフトはふりがなをつける機能がないため、思ったよりも手間がかかりました。さらに私が戸惑ったのは、新生讃美歌と違い、讃美礼拝の時に用いられる小泉讃美集では、楽譜を読めないと正確な詩に起こすとができない讃美が少なからずあることでした。

そこで、正しく読めない讃美をネットで探し、その讃美動画を何度か聞きながら文字起こしをすることにしました。そのようなことから、奉仕に大切な喜びではなく、大変だなと思いながら、時にため息をつきながらしていた不信仰な私でした。  しかし、ある日気が付いたことがあります。それは、車を運転しながら、家事をしながら口ずさむ歌の中に、讃美歌が混じり始めたという事です。その時、「あ、主は私にスライドの奉仕を通して讃美の恵みを下さっていたのだと。

讃美を入力したり、SNSで動画を見ながら歌ったりしているうちに、知らず知らず口ずさめるほどに変えてくださったのだと。ため息から讃美歌を口ずさむ方へと変えて下さった主の大きな愛に感謝でいっぱいになりました。最近では、スライドの画面を見ながら歌っておられる兄弟姉妹の姿に、奉仕の喜びを感じながら讃美しています。

大いなる主の愛に感謝です。♫

                           S.Y.姉

2024.3.17 牧師室便り

 ~ 祈りのちからを ~

毎月第二主日の午後には「映画鑑賞会」と「チヂミカフェ」が開かれます。昨年の後半から始まったこの2つのプログラムは皆さんの熱心な参加と協力によって喜びと感動の場となっています。先週、新しく鑑賞した映画は「祈りのちから」(原題:War Room)でした。

私たちの人生にはどうしようもないことや、うまくいかないことが多々あります。とりわけ夫婦関係、親子関係、友人関係、上司との関係など、様々な関係において、絶えず傷つき疲れてしまっている日本社会であると言えましょう。そこで、どうすればいいのか分からず、さまよっている。…

しかし、映画は、それらのすべての問題の解決の道が祈りにあることを教えます。さらに、ただ漠然とした祈りでなく、すべての関係を崩し、私たちの生活を駄目にしていく敵(サタン)が存在していることに気づき、その敵に戦いを挑みつつ、真の神の御手にすべてをゆだね聖霊の助けを信じて祈ることを教えています。

本当に戦うべき相手に気付き、祈りの戦場へと向かう祈りの勇士によって、神は新しいことを起こされ、不思議な業を示され、やがては勝利の讃美を献げるように変えられて行くでしょう。そのために映画が提案する一つの道が「祈りの部屋」(原題:War Room=戦いの部屋)を作ることでした。これこそ、「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(マタイ6:6)」の御言葉を実践することなのです。
神の家族の皆さん、祈りの力をいただくために「祈りの部屋」を用意しましょう。主イエスが常に父なる神と親密な交わりをもたれたことで十字架の道を進まれたように私たちも祈りの生活を通して勝利の讃美を歌えるように奥まった祈りの部屋に入ることを喜びとしましょう。
シャローム!

2024.3.17 本日の宣教

『 世に打ち勝つ信仰 』       

                      ヨハネの手紙一 5章1~5節 

近頃、私たちの身の周りが自然災害と戦争、気候変動、食糧危機などによって大きく変わろうとしています。そのため、御言葉によるチャレンジが強まっているのも事実です。イエス・キリストを信じる信仰によって救われ、新しく生まれたキリスト教会と一人一人のクリスチャンは神の掟を守ることが求められます。使徒ヨハネは、守るべき神の掟とは、神を愛することだと教えます。さらに、ヨハネは、神を愛する人は、同じく神の愛によって生まれた兄弟姉妹をも愛すると語ります。この教えこそが、旧約聖書から新約聖書を貫く「神を愛することと隣人を愛する」という中心主題なのです。

そして、ヨハネは「神を愛する掟は難しいものではない(3節)」と宣言します。主イエスの愛を受け、主イエスを救い主と信じて生まれ変わった人は、人間の欲を追い求めていた人生から離れ、神と隣人に仕えるように変わります。そして神の子とされた人は、同じく神の似姿に創造された隣人を愛するようになり、隣人のために仕えることを喜びとします。また、主イエスの愛だけが堕落した世界を変える唯一の道となることを知っています。その人は主イエスと共に歩む中で愛の掟を守るわけですから、神の愛の掟は決して難しいものではなくなるのです。

ですから、ヨハネは「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つ(4節)」と宣言します。ここでの「世」(ギ:コスモス)は、サタンの支配下にある世界、愛なる神に敵対する人々やシステムを意味します。しかし、神に属する神の子たちは、世に勝ちます。「勝つ」という言葉は、主イエスと世の関係について、主イエスが十字架の愛によって世に勝利されたことを表す際に使われます。主イエスは弟子たちとの最後の晩餐の席で「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ16:33)」と言われ、神の子どもたちが世の戦いから得るべき勝利を約束してくださいました。

今までもそうでしたが、これからのキリスト者の歩みにおいても、厳しい霊的戦いがますます繰り広げられるでしょう。それでは、この戦いにどうすれば勝利できるでしょうか。もちろん私たちにはその力はありません。しかし、勝利者なる主イエスを信じ、主イエスにつながり、その方を愛することによって勝利することができるのです。主イエスへの愛と信仰によって生まれ変わったキリスト者は信仰によって神と一つとされる時に、主の勝利にあずかることになります。

私たちは、勝利者であるキリストの内にあって、同じ勝利にあずかる者とされました。この変化はすべて神の愛と恵みによるものです。この素晴らしい勝利を日々、神を愛する人々と共に愛し合う中で体験できることを願いつつ堅く立ち続けたいものです。

受難節を過ごしている信者が、毎日イエス・キリストの愛に触れる中で、真の愛の人に変えられ、愛が冷えつつある世界に向けて愛による勝利の知らせを宣べ伝えられるように…。ハレルヤ!



2024.3.10 牧師室便り

 ~ 忘れていません ~

 先週、久しぶりに山本家の皆さんが礼拝に集いました。ほぼ一年半ぶりの礼拝出席でした。山本家においては、山本姉が高齢者施設で働くため、コロナの間は礼拝に集いたくても集えない状況でした。その間にお母様が召天されたり、家を大々的に修理するなど慌ただしい日々を過ごされました。そのためなかなか礼拝に足を運ぶことができずにいたわけです。また、1年半ぶりに再会した3人のお子さんの成長した姿に驚きながら、神の家族と共に皆さんの帰りを感謝しました。愛する主が山本家の皆さんを慰め、主にある新たな交わりと祝福を賜りますように…。

小泉町教会の総会資料には教会員名簿が載っています。その名簿の中は現在会員と他行会員に分けられています。他行会員とは1年以上礼拝に出席できず、献金や奉仕ができなかった会員を指す言葉です。小泉町教会にも他行会員が多く、私が富山に赴任した日から一度も逢うことができなかった方が多くいます。その中には、他の地域に引っ越したためやむを得ず連絡が途切れた方もいれば、病や家族の反対、また信仰が弱くなったことのゆえになどなど、様々な事情のゆえに教会の交わりから離れている方もいるでしょう。顔も見たこともなくその人の情報を全く知らなくても、牧師をはじめ、神の家族の皆さんは祈っています。再び神の前に立ち帰り、神の家族の群れに加われるように、また他の地域に住んでいる人は良い教会に巡り合えるように、と。

 私たちの神は決して忘れられません。「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない。(イザヤ49:14~15)」

 私たちも同じように、恵みの再会を期待しつつ、忘れずに執り成し続けましょう。シャローム!



2024.3.10 本日の宣教

 『 今、求められる奉仕者③ 』   

                   ペトロの手紙一 4章7~11節 

先週に続き「終末に求められる奉仕者」のあるべき姿を分かち合いましょう。ペトロは、「語る者」と、「奉仕する人」という二つを挙げて説明します。

ここで「語る者」とは、牧師や教師など、人の前で御言葉を告げたり、教えたりする人々を指します。そして彼らに求められるのは、常に「神の言葉にふさわしく」語ることでした。…聖書に登場する預言者たちは、ある日、神から召し出され預言者としての活動を始めた時から、彼らはただただ、神から預かった言葉のみを伝える人生を歩みました。時には、彼らの語る言葉が、聞く民たちに苦しいものであっても「神が語れ!」と言われたことに、従うしかありませんでした。そして、語る使命を果たしたら、彼らは歴史の舞台の裏に静かに退いて行きました。彼等と同じように、御言葉を語る賜物を授かっている者として常にふさわしく語ることができますように…。

続けてペトロは「奉仕をする人々」について、その奉仕がどんな奉仕であっても、「神がお与えになった力に応じて奉仕しなければならない」と教えます。教会における奉仕は、霊的なものが多いため、世俗的な力で行おうとすると力尽きてしまったり、つまずいてしまったりすることが多くなります。だから、教会におけるどんな奉仕であっても、聖霊が与える知恵と力を頼りにすべきです。神の家族の皆さんの奉仕はいかがでしょうか。…食事を準備する人は、天国で食事を作る思いで、受付の奉仕をする人は、神の国に人々を招く喜びに満ちた笑顔で、また、司会をする人は、皆の心と目をただイエス様と神の国の方へと導く思いをもって、また、讃美する人は、神の国で献げるべき礼拝と讃美を夢見ながら、また掃除をする人は、神の宮を綺麗にする思いで、その他、献金、生花、祈り、営繕などなど、お一人お一人が神からいただいた力に応じて、救われた感謝と喜びと謙遜をもって、自己満足のためではなく、イエス・キリストの体を健康に作り上げるために助け合い仕え合っている小泉町教会の神の家族でありますように…。

最後にペトロは感動に満ちた頌栄を歌います。私たちが行うすべての奉仕が、「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるため」だと告白しつつ、私たちの人間的な栄光、誉れでなく、ただただ、神が栄光をお受けになることを目的とし、「アーメン」で締めくくられる終末を生きる神の家族の日々の生活でありますように。さらに、神の家族の皆さんの尊い奉仕と生き方を通して神が栄光を受け取っておられることを信じて、ハレルヤ!と、神が栄光をお受けになることを心がけつつ、世の終わりの日々を歩みつづけたいものです。

次週は2024年度の奉仕の先頭に立つ執事を選ぶ選挙が行われます。願わくは、よく祈り、愛に燃え、恵みの善い管理者、ただ、神にのみ栄光を献げる者として相応しい執事が選ばれるように…ハレルヤ!



2024.3.3 牧師室便り

  ~ 騒音の中から祈る恵み ~

先週は、牧師館の向かい側の家の解体作業によってうるさく落ち着かない日々でした。地震のような揺れが一日中何度もありましたね。

 水曜祈祷会の時には聖書の御言葉の黙想にも支障を及ぼすほどの騒音が響き渡っていましたしね。しかし、不思議なことにうるさい機械音に慣れると、黙想することに全く影響することはありませんでした。

私たちは生活の中の様々な騒音(ノイズ)に悩まされます。しかし、騒音は気にすればするほど大きくなってくる特徴をもっています。むしろ無視して御言葉と祈りに集中すれば、かえって恵みに変わるでしょう。

 皆さんは一日中、どんな音に心を奪われているでしょうか。能登半島地震後、保険会社や建築関係の会社で働いている方々は毎日が電話対応で覆われてしまい、電話の着信音がなるだけでノイローゼの症状が出るのではないでしょうか。

神の家族の皆さん、受難節を過ごしながら、主イエスの受難の道をともに歩んでいるでしょうか。イエスの公生涯は40日間の荒野での断食と祈りから始まりました。特に、主イエスの毎日は人里離れた場所で祈ることから始まり、祈りをもって一日を終えられたことを知っています。

そして、十字架にかかる前の夜、ゲッセマネの園で父なる神に向かい、「アッバ、父よ」と血の汗を流されながら祈られた主イエスの切なる姿を覚えています。

 愛する神の家族の皆さん、皆さんの祈りの生活を妨害する騒音はどのようなものがあるでしょうか。その騒音に影響受けず、神との祈りの交わりがもてていますか。 

2024年の受難節を過ごす神の家族の皆さんが、主イエスに倣い父なる神との祈りの座へと近づくことができますように…。この世の騒音の只中でも、神の御声を聞くことが出来るように霊的訓練を欠かすことがないようにしましょう。そのために、ぜひ礼拝堂での祈りを慕い求める神の家族となりますように…。シャローム!



2024.3.3 本日の宣教

 『 今、求められる奉仕者② 』          

                   ペトロの手紙一 4章7~11節      

主イエスの死と復活、昇天、聖霊降臨を体験した初代教会の信徒たちとその後の歴史を歩む者は、主イエスが言われた「主の再臨と終末」が既に始まっており、主イエスの再臨はいつでも起こり得ることを心がけながら歩まなければなりません。そのためにペトロは「今、求められる奉仕者の姿」として、①思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈ること ②何よりもまず、心を込めて愛し合うことを提示しています。 

引き続きペトロは、「不平を言わずにもてなし合うこと」を勧めます。教会生活において、特に「奉仕」することにおいて、共同体を壊す猛毒のようなものが「不平」です。その不平が生まれるところは、「自己中心」という場所です。自分が常に中心に立たなければならないというところに、不平が生じてしまうのです。そこにサタンが猛烈に働き始めるわけです。その時求められる姿勢こそ、主イエスが最後の晩餐の時に示された僕(サーバント)としての姿勢です。“自分より他人を優れた者として考えながら、互いにもてなすことができれば、そこには不平ではなく喜びと祝福が溢れるようになるでしょう。

さらにペトロは、「さまざまな恵みの善い管理者として、授かった賜物を生かして互いに仕えること」を勧めます。賜物(ギ:カリスマ)は願ったから得たのではなく、神からの恵みのプレゼントのことを指します。私たちはカリスマというと、特別な人にだけ与えられる特別な物と考えてしまいがちです。しかし、聖書が教える賜物は多様であって、賜物を授けられていない人はいないと教えます。そして多様な賜物の目的は、自分の益のためではなく、神の栄光と共同体(キリストの体)の益のために使うべきものであることを忘れてはなりません。だから、賜物を授かっている者は「神の恵みの善い管理者」としての姿勢をもって、賜物を用いて互いに仕え合うことを心がけるべきです。

そこでペトロは、賜物については、「語る者」と、「奉仕する人」という二つを挙げて説明します。「語る者」とは牧師や教師など人の前で御言葉を告げたり、教えたりする人々のことですが、彼らは常に「神の言葉にふさわしく」語ることが命じられています。だから、常に神の御心を黙想しつつ、神の言葉の通路としての役割を担うことを願うべきでしょう。また「奉仕をする人々」には、どんな奉仕であっても、「神がお与えになった力に応じて奉仕しなければならない」ことを常に確かめながら、聖霊の助けをいただいて奉仕することです。神の家族の奉仕はいかがでしょうか。

最後にペトロは、すべての奉仕の目的こそ「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるため」であると教えます。私たちの栄光、誉れでなく、ただただ、「アーメン」をもって、私たちの奉仕を通して神が栄光をお受けになることを心がけながら励んでいきましょう。ハレルヤ!



2024.3.3 小さな泉の恵み

 いよいよ田植えの準備が始まりました。稲の苗を作るための苗箱の洗浄、殺菌を行っています。今年も一万一千枚ほど用意します。屋根は有るもののいつもの年なら横から雪が吹き付ける極寒の中で行っていますが、今年は暖かい日が多く雪もなく作業が順調に進んでいます。巷では「今年は雪が無くて楽だね」という声を聞きます。被災された方々が少しでも温かく過ごされ、インフラの復旧も速く進むように願います。主の恵み、お計らいに感謝いたします。とは言うものの暖冬は稲作にとって良い面ばかりではありません。雪解け水が少なくなるので、水不足の不安がよぎります。昨年の夏は暑すぎて米が白く濁る「白未熟粒」が多く発生しました。今年の夏も熱くなると言われています。わかば農園が法人化して「(同)遊ふぁーむ」に変わり一年目の米作り。「恵みの雨」を求めることになるでしょう。しかしそれと同時に主イエスから頂く「生ける水」を皆が求めるようになると良いと思っています。

「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネによる福音書4:14)」

 皆さまにも主の豊かな恵みが雨のごとく降り注がれますように。新生讃美歌104番「雨を降り注ぎ」を口ずさみつつ。

                          S.Y.兄

2024.2.25 牧師室便り

 ~ 変わりゆく世界の中で ~

先週一週間の天候は本当に激しく変わっていましたね。週の初めは暑さを感じるほどの暖かい日でしたが、週の半ばは激しい風と冷たい雨に覆われ、そして、週の後半は厳しい寒さと雪も降ってくるという、とてもユニークな天候の一週間でした。

 天候の激しい変化に臨機応変に対応しようとは心がけながらも、なかなかついて行くことができない近頃で、体調管理に苦しむ皆さんの姿を見ています。

 普段、人々が期待していることは、毎日が暖かく晴れ晴れとした天候であってほしいということでしょう。しかし、私たちの世界の中では雨と雪、風がなければ成り立ちませんし、それらがなければ、かえって大きな混乱を招くことになることも良く知っています。そのようなことを知りながらも、私たちは毎日が晴れてほしいし、暖かい日が続いてほしいという自己中心的なことを望むのも事実です。

 牧師である私は、主日礼拝のためにいつも良い天候が与えられることを望みますが、それは決して叶えられないことであり、「いつも喜び、どんなことにも感謝する者」としての生き方を求められる聖書の教えに照らしてもふさわしくない姿でしょう。何より、これらの天候の変化は地球温暖化による影響であり、これからも落ち着くどころか、さらに激しく変わっていくことが予想されます。

 先日坂上兄から「今はキャベツの収穫の時期ではないのに、あまりにも早くキャベツができてしまったため、処理に困っている」と嘆いておられるのを聞きながら、変わりゆく世界によってもたらされる恐ろしい事柄に敏感になっている近頃です。

 このような時に、神のみ言葉を信じ、御言葉に従って歩む群れとして、私たちに求められる姿勢こそ、「何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではならず」(一ペトロ4:12)、キリストの苦しみにあずかる者としての思いを新たにしていただきつつ、神の子どもとしてふさわしく判断し歩むことでしょう。シャローム!



2024.2.25 本日の宣教

  『 主の慰めを受けて 』    (コリント信徒への手紙二 1章3~7節)

能登半島地震の発生から二ヶ月になろうとしています。地震直後から家族を喪った被災者の方の悲しみを、報道を通して見聞きしています。被災者の「なぜ?」という問いに言葉を失います。土砂崩れによって妻と四人の子供たちをあっという間に喪った男性にどんな言葉がかけられるでしょう。まるでヨブ記にあるヨブのようです。ヨブは、シェバ人の襲撃により多くの牧童を殺され、天からの火によって羊と羊飼いのほとんどを失い、更に大風で長男の家が倒れて息子や娘たち全員が死んでしまうという悲劇に見まわれます。(ヨブ記1章13~19節)

聖書の御言葉には一度読んだだけで心にすんなり受け取れる言葉も有ればすぐには理解しにくい言葉もあります。先日もある兄弟から「もし、誰かがわたしのもとに来るとしても、父、母、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。(ルカによる福音書14章26)」という言葉に困惑していると聞きました。私自身、「それほどまでに主イエスに従う覚悟」を求められているのだと思いながらも完全に理解しているとは言えません。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(コリントの信徒への手紙第一10章13)

先日、息子が自動車事故を起こした時、息子が手の届かないところに行ってしまう恐怖を覚えました。またそれと同時に5年前亡くなった兄のことが思いだされ苦しくなりました。本日の御言葉には「神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めて下さるので、私たちも神から頂くこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることが出来ます。」とあります。私たちが信じる方は出来ないことが何一つ無いかたです。「イエスは言われた。「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネによる福音書11章25~26節)」

震災復興支援に際して先ず心を落ち着けて主の慰めを頂きましょう。傷み、悲しみ、憂い、恐れ、そして怒りをも主に預けましょう。人としての同情や施しも良いことですが、主の励ましと慰め、十字架の贖いを与えられた者には更に良い働きが出来るでしょう。慰め主、癒し主、愛なる方、主が褒め称えられるように、私たちに何が出来るのか主の知恵を求めましょう。周りの大切な方々に神様の愛をお届けできますように。主の栄光がとこしえにありますように。                                  

                             坂上幸男



2024.2.25 小さな泉の恵み

 ~岡山から②~

最近は介護などの負担も増え、糸紡ぎのワークショップをする余裕がなくなってきていますが、今では各地でいろいろな方がワークショップを開催しています。私が果たすべき役割としては、ガンジー思想を正しく伝えていくという次の段階への移行期になっていると感じています。

スピリチャル系の方々との出会いが増えている昨今です。糸紡ぎを通して心の癒しを得たいという方々が増えています。戦争も自然破壊も心のありようを反映しているから、心を平安に保てば全てが解決すると信じ、糸を紡いでゆったりとした時間を過ごしたいと願う人が多いのです。人間の罪の問題がすっぽりと抜け落ちているのではないか、そして、悲惨から目を逸らすことに繋がるのではないかと気になります。

1年に1着の衣類を手作りで新調していた時代から、大量生産・大量消費、そして廃棄の時代へと変わったことが、どれほど環境を破壊していることでしょうか? 戦争の根源的原因も、イデオロギーの対立というよりも資源と土地を求めてのことではないでしょうか?。

自分の暮らしを振り返っても、引っ越しのたびに多くのものを捨ててきました。買わなくてよいものを買ってきたんだなと思います。それでも私は質素に暮らしている方だと、言いわけをしたくなる私がいます。

しかし、神様の目から見たらどうでしょうか?地球上には飢餓に苦しむ人が大勢います。私の罪ということを考えないわけにはいきません。

『この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』(マタイ25:45)と言われるイエス様の声を真摯に受け止めつつ歩みたいものです。

                               K.K.姉