2024年4月17日水曜日

2024.3.3 本日の宣教

 『 今、求められる奉仕者② 』          

                   ペトロの手紙一 4章7~11節      

主イエスの死と復活、昇天、聖霊降臨を体験した初代教会の信徒たちとその後の歴史を歩む者は、主イエスが言われた「主の再臨と終末」が既に始まっており、主イエスの再臨はいつでも起こり得ることを心がけながら歩まなければなりません。そのためにペトロは「今、求められる奉仕者の姿」として、①思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈ること ②何よりもまず、心を込めて愛し合うことを提示しています。 

引き続きペトロは、「不平を言わずにもてなし合うこと」を勧めます。教会生活において、特に「奉仕」することにおいて、共同体を壊す猛毒のようなものが「不平」です。その不平が生まれるところは、「自己中心」という場所です。自分が常に中心に立たなければならないというところに、不平が生じてしまうのです。そこにサタンが猛烈に働き始めるわけです。その時求められる姿勢こそ、主イエスが最後の晩餐の時に示された僕(サーバント)としての姿勢です。“自分より他人を優れた者として考えながら、互いにもてなすことができれば、そこには不平ではなく喜びと祝福が溢れるようになるでしょう。

さらにペトロは、「さまざまな恵みの善い管理者として、授かった賜物を生かして互いに仕えること」を勧めます。賜物(ギ:カリスマ)は願ったから得たのではなく、神からの恵みのプレゼントのことを指します。私たちはカリスマというと、特別な人にだけ与えられる特別な物と考えてしまいがちです。しかし、聖書が教える賜物は多様であって、賜物を授けられていない人はいないと教えます。そして多様な賜物の目的は、自分の益のためではなく、神の栄光と共同体(キリストの体)の益のために使うべきものであることを忘れてはなりません。だから、賜物を授かっている者は「神の恵みの善い管理者」としての姿勢をもって、賜物を用いて互いに仕え合うことを心がけるべきです。

そこでペトロは、賜物については、「語る者」と、「奉仕する人」という二つを挙げて説明します。「語る者」とは牧師や教師など人の前で御言葉を告げたり、教えたりする人々のことですが、彼らは常に「神の言葉にふさわしく」語ることが命じられています。だから、常に神の御心を黙想しつつ、神の言葉の通路としての役割を担うことを願うべきでしょう。また「奉仕をする人々」には、どんな奉仕であっても、「神がお与えになった力に応じて奉仕しなければならない」ことを常に確かめながら、聖霊の助けをいただいて奉仕することです。神の家族の奉仕はいかがでしょうか。

最後にペトロは、すべての奉仕の目的こそ「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるため」であると教えます。私たちの栄光、誉れでなく、ただただ、「アーメン」をもって、私たちの奉仕を通して神が栄光をお受けになることを心がけながら励んでいきましょう。ハレルヤ!



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