2024年4月17日水曜日

2024.4.7 本日の宣教

 『収穫のために働き手を 』

               マタイによる福音書9章35~38節

主イエスの生涯は本当に忙しい毎日でした。1分、1秒も無駄にすることができないほど忙しかったのです。35節を見ると、その忙しい主イエスの生活がよくわかります。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を述べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」

主イエスは時間がある限り、町や村を歩いて回られました。当時は特別な交通手段がなかったので、ただひたすら歩かれたことでしょう。

そこで主イエスに出会った人々は新しく変えられました。病が癒され、心が神様の愛によって満たされるようになりました。ではなぜ、主イエスはこれほどまでに忙しくされたのでしょうか。何がイエスをそこまで忙しくさせたのでしょうか。聖書はその理由を「憐み」にあったと教えます。「また、群衆が飼い主のいない羊ように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(36節) 

「憐れむ」というギリシャ語「スプランクニゾマイ」は、体の腹、内臓に痛みを与えるような深い感情を表す言葉です。心が痛んで、内臓がしみるほどである。つまり、「深く憐れまれた」とは、内臓の奥深いところから相手を可愛そうに思う心であり、心から深く同情するという意味です。

聖書の中では憐れむこと、特に憐れむ人は幸いだといっています。なぜでしょうか。その憐れむという姿が神の愛を説明する最も大切な姿だからです。すなわち、憐れむことの大切な特徴として、愛がなければ憐れむことはできないということがあります。

まさに、主イエスは私たち罪人たちへの深い憐れみゆえに、罪と死の奴隷になり魂と体が疲れ果て傷だらけになっていた私たちのところに、天の御国の栄光の王座を離れて来てくださいました。そして、私たちが忘れていた本当の父親と、帰るべき家、歩むべき命の道を教えるために、絶えず歩き回り、最後は十字架にかかって血を流してまで、真の愛を示されたのです。主イエスは人々を深く憐れみ、すべての人の苦しみ、悲しみ、孤独、絶望、病を背負って十字架にかかられたのです。その通り、主の深い憐れみは十字架にしっかりとつながれています。そのすべての歩みこそ愛であり、愛に基づく憐れみがなければ決してできないものでした。

 最後の38節の御言葉で主イエスは収穫のための働き人、すなわち深い憐れみをもって人々に主イエスの愛を伝えられる働き人を求める祈りを献げるように命じておられます。これは、いずれ訪れるべき終末の日を迎える前に、暗闇の中で弱り果て、打ちひしがれている人々に、主の深い憐れみを持って福音を伝える働き人を求めておられるということです。

2024年度の礼拝者としての歩みが本日から始まります。今年度、主イエスが小泉町教会に託された多くの御業のためには、働き手が少ないのも現実です。いくら大きな計画を立て、偉大な夢を抱くとしても、共に信仰とビジョンを共有できる働き手がいなければただの計画と夢に終わってしまうでしょう。だから「収穫のために働き手を求める祈り」を献げなければなりません。しかし、働き手を求めること以前に、あなたこそ、備えられた働き手であることを告白しましょう。ハレルヤ!



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