2024年4月29日月曜日

2024.4.28 本日の宣教

 『 主の憐れみに生きる 』          

                     哀歌3章22~24節

哀歌は、紀元前586年のエルサレムの滅亡を目撃した証人が、バビロンによって滅ぼされ、捕虜として連れ去られる屈辱を目の当たりにし、涙をもって歌った嘆き歌です。哀歌のヘブライ語原典のタイトルは、本書物の最初の言葉である「エーカー」です。これは「ああ、なぜ、なにゆえ」という意味で、驚きと悲しみを表す感嘆詞です。

詩人の目に入るのは、崩れ落ちたエルサレムの城郭や建物、また殺された死体が転がる町、親を失くして泣き叫ぶ子ども、寂しく死を待っている老人たちの姿です。どこを見ても希望を見出せない状況の上に詩人は立っていました。

しかし、詩人は決して現実の中で絶望に陥ることはありませんでした。本日の御言葉は詩人が希望を抱いていたことを教えます。「再び心を励まし、なお待ち望む」(21節)と。…それでは、その希望の根拠はどこにあったのでしょうか。詩人はその希望を神の慈しみと憐みに置いています。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。(3:22~23a)」

詩人は徹底的に悲惨な状況に嘆き苦しみながらも、決して諦めず、心深くに抱いていた希望への確信がありました。それは「主の慈しみと憐み」でした。旧約聖書の中で神様の愛を紹介する時に最もよく用いられる言葉が「慈しみ(ヘブライ語:ヘッセード)」と「憐み(ヘブライ語:ラハム)」です。 “慈しみ「ヘッセード」”とは、神と人との関係において、神が人々に示す無条件の愛、慈悲、忠実さを指す愛の言葉です。詩人は、主のヘッセードの愛は決して絶えないと断言します。今、目に見える現実は絶望で悲惨な状況であろうとも、ヘッセードの愛をもっておられる神は神の民を見捨てず、必ず共にいてすべてを美しく変えてくださるという確信をもっています。

さらに、“憐み「ラハム」”とは、父なる神が試練の中にある子どもたちに示す深い憐れみと同情を指す言葉で、人間同士の関係においても、他者に対する思いやりや慈悲、同情を示す行為を表現する際にも使われます。これは「子宮」や「内臓」を意味する言葉と関連しています。つまり、感情や深い愛、思いやりは体の内臓の深いところから湧き出るものと考えられていたのです。詩人は、神の子どもたちを思う憐みも決して尽きないと断言することで、神の慈しみと憐みにこそ、決して変わることない希望があることを歌っています。

そこで詩人は、もう一歩進んで、「朝ごとに」これらの「主の慈しみと憐み」を確かめ、その希望を朝ごとに新たに味わいながら生きることを宣言します。

今私たちの周りに目を向けましょう。哀歌の詩人が歌っていたように、悲惨な状況の中で苦しみ、絶望の中で泣き叫ぶ人々の姿を見ます。しかし私たちは、そのただ中で、深い慈しみと憐みをもって交わっておられる主イエス、すべての罪、悲しみ、苦しみ、絶望を背負い十字架にかけられた主イエスに希望を抱きます。

本日は2024年度定期総会が開かれます。願わくは、神の家族お一人おひとりが、朝ごとに新たに注がれる主の慈しみと憐みに浸される体験をし、そこで新たな力と希望を得、主の慈しみと憐れみに生きる生活へと進みますように…。ハレルヤ!



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