『 祈りを考える 』
ヨハネの手紙一5章14~15節
祈りはキリスト者の息吹であります。人が息をしなければ死んでしまうように、キリスト者が祈らなければその人の信仰は死んでしまうでしょう。命を失っている人は、形は生きているように見えてもその人の内には命が流れていないのと同じように、祈らないクリスチャンには霊的な命が流れていません。それほど、祈りは「キリスト者」の生活を説明するための最も基本的な要素であり、大切なものです。
「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。(14~15)」
使徒ヨハネは、祈りが答えられるために最も大切な基準を提示します。その基準こそ「神の御心に適った祈り」を献げるということです。「神の御心に適う祈り」とは、神の御言葉と聖霊の導きに従って祈るということです。自分の気ままな願いや欲深い願いを、また不正な目的で祈る場合、神は聞いてくださいません。
神は、私たち神の子どもたちの祈りを通して働かれ、私たちがご自身と共に働くことを願われますし、そのことを確信して(大胆に)祈ることを望んでおられるのです。ただし、祈りの答えがすぐに与えられるとは限りません。神は最善の時に、最善の方法で、最善の事を通して成し遂げてくださいます。祈りは私たちの欲望を適える道具ではなく、神の御心に適う私たちの心の願いを求めることだからです。しかし、私たちの祈りはいかがでしょうか。
ヨハネはその祈りの模範を主イエスから教えられたことでしょう。主イエスは十字架を前にしてのゲッセマネ園での祈りを通して、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)と、御自身の願いではなく、神の御心のままに成ることを祈られました。成熟したキリスト者であるならば、主の祈りの模範に従って祈るはずです。しかし、このような祈りを献げるためには、普段の生活の中で父なる神との親密な交わりが前提となるでしょう。
神の家族の皆さん、私たちの祈りは空を打つような、日本社会における八百万の神々のような漠然とした対象に向かうものではありません。私たちキリスト者は、私たちの内におられる聖霊との親密な交わりの中で、一つ一つの出来事を前にして、祈りの座へと進み出、主の御心と知恵を尋ね求め、主が喜ばれる道や行動を選び歩み出すという全人格をもって体験できるものがキリスト者の祈りなのです。
あなたの祈りはいかがでしょうか。その祈りが息吹きとなってあなたを生かしていますか。小泉町教会の今年度の歩みが生きた祈りによって祝福され、豊かな実を結びますように…。
ぜひ、映画「祈りのちから」から神が望まれるキリスト者の祈りの生活を学び、祈りの力に満たされる今年度の神の家族の歩みであるように…。ハレルヤ!
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