『 十字架のほかに 』
ガラテヤの信徒への手紙6章14、17節
今日の御言葉には十字架に関わる2つの特徴的な言葉が登場します。その一つが「誇り」、もう一つは「焼き印」という言葉です。
まず、「誇り」という言葉ですが、人はそれぞれ「誇るべきもの」をもっています。それによって人は生きる喜びと力を得ていることでしょう。それでは、あなたにとっての誇りにはどういうものがありますか。・・・パウロは彼の誇りについて証しします。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。(14節)」… 彼の人生を通して、常に語り続け、掲げ続けていた主題こそ、「イエス・キリストの十字架」でした。使徒パウロから「イエス・キリストの十字架」を無くしてしまえば、彼の人生は何も残らなくなってしまうほどです。
しかし、聖書に紹介されているパウロは、元々人間社会において誇るべきものをたくさんもっていた人でした。彼のもともとの名前はサウロ。彼はユダヤ人で、家柄、学歴など自慢できるものをたくさんもっていました。それから、当時の民衆から尊敬されるファリサイ派として、律法に熱心な人でした。まさしくエリートコースを辿った人でした。中でも、当時イエスという偽メシアを信じる異端のグループであったクリスチャンたちを捕え、彼らを完全につぶしてしまうことに使命をもって生きた人でした。
ところが、彼がクリスチャンたちを捕えるために出かけて行ったダマスコスの道で出会ったイエス・キリストとの出会いによって、彼の人生は革命的な変化を経験することになります。まさしく、この世の誇りを求めてひたすら走り続けてきたサウロから、イエス・キリストの十字架だけを誇るパウロに変わるとことになったのです。「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。(フィリピ3:8~9)」
今までのパウロの「誇り」としていたすべてを「塵あくた」にしてしまうほど、イエスとの出会いは彼のすべてを変えていったのです。
次に、「焼き印」という言葉です。パウロは彼の身に、「イエスの焼き印をつけている」と告白します。「焼き印」(ギ:スティグマ)とは、当時の奴隷の頭や手や胸など体に押し付けていた焼き印のことですし、それによって“この奴隷の主人が誰であるか”が明らかにされたのです。だから、「イエスの焼き印」とは、主イエスの福音伝道のために身に受けた迫害の傷跡のことを指します。パウロはその焼き印を通して、自分自身がイエス・キリストの奴隷であり、弟子であることを証ししていたのです。パウロはその焼き印をもってイエス・キリストの十字架の恵みを深め、福音伝道に励むことができました。
受難週を迎えた神の家族の皆さん、あなたのために十字架にかけられ、私たちの罪の赦しと永遠の命を勝ち取られ、神の国の道を開いてくださった主イエスの十字架だけを誇りつつ、「焼き印」を身に受けている者として、主イエスの愛と福音を伝えるお一人おひとりとなりますように…。ハレルヤ!
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