2023年2月26日日曜日

2023.2.26 牧師室便り

 ~ キリスト者のSDG ~

コロナ危機が始まった頃から頻繁に耳にした言葉があります。「SDGs」。これは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称で、2015年から国連が世界に向けて掲げている17の大きな目標と169の具体的なターゲットからなっていて、2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標です。すなわち、世界の貧困と飢餓の撲滅、教育の確保、健康や水の確保、気候変動への対策などが含まれます。これらの目標はキリスト教会とキリスト者にとって、創造者なる神からいただいた地球を大切に守りながら祝福を生きるための良き働きであって、積極的に参与すべきであると思います。

しかしそれ以前に、聖書が教えているキリスト者として確かめるべきことがあります。それは、私たちの生きるこの世界は「いつまでも持続可能な世界ではなく、必ず滅びていくことが定まっている」ということでしょう。同じく人の人生も持続可能ではなく、必ず 死を迎え滅びていく存在であることです。

聖書は「持続可能な世界、持続可能な永遠の命」はイエス・キリストを主と信じ心に受け入れ、神の国の民となった人だけに与えられるプレゼントであると教えます。

J.S.バッハは、作曲した作品の最後に「SDG」とサインしたことで知られています。それは、「ソリ・デオ・グロリア(ラテン語:Soli Deo Gloria):ただ神にのみ栄光があるように」という意味です。キリスト者のSDG、終末を生きるキリスト者が目指すべき本当の目標ではないでしょうか。私たちが享受するすべては神からの恵みであり、キリスト者のすべてを通して神に栄光を帰することを心がけながら歩むことこそ、真の「キリスト者のSDG」なのです。シャローム!

2023.2.26 本日の宣教

 『 ゆだねる 』 (コリントの信徒への手紙 二 12章9~10節)

人間の体には左右の膝、左右の股関節という体を支え曲げる役割をもつ、大切な4つの関節があります。私は、その4つの関節を人工関節に置き換える手術を、数年にわたって、一つずつ受けてきましたが、昨年12月に、最後の4つ目の手術を受け、それによって大きな関節はすべて人工関節になりました。その4つの人工関節は、毎日、私の体の中で、今も一生懸命に働いてくれています。

さて、今日示しされた聖書箇所は、使徒であり、偉大な伝道者パウロが、愛するコリント教会の信徒たちにあてた手紙の第12章です。7節~8節でパウロは次のように語っています。

『⑦わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 ⑧この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。』ここには、とげと書かれていますが、パウロを悩ませていた体の不調を取り除いてほしいために、三度祈ったとなっています。パウロは何とかよくなるように何度も何度も祈ったことでしょう。そして、その後に、本日の箇所(12:9、10)が続きます。『⑨すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 ⑩それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。』ここでパウロは、あんなに願っていた病からの解放とは反対の答えが与えられた後、『キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう』と、願いを取り下げています。それは、パウロがすべてを主に委ねた瞬間かもしれません。そして『…の状態にあってもキリストのために満足しています。』なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです。』と高らかに宣言しています。そこにパウロのまっすぐな信仰を見ます。

私はパウロと比べるほどの愚か者ではありませんが、パウロのように棘を与えられ、また家族のことなども含め、たくさんの試練を与えられました。その中で主が示してくださったことは、神のみ言葉、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮できるのだ』『弱いときにこそ強いからです。』でした。そして気がつくと、弱さの中で全てを主にゆだねることができ、そこに平安が与えられ全てが恵みに変えられたのです。主イエスに栄光がありますように。 アーメン! 

                             S.Y.執事


2023.2.26 小さな泉の恵み

  主の御名を讃美致します。                              

 少しずつ暖かくなる今日このごろです。

 庭の木はまだ新芽は出ていませんが、その内枝が新緑でおおわれて花が咲き明るい春がきます。創世記一章の天地創造の11節に「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」とあるように自然を創造されました。また、24節に 「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」とあります。

 わが家には2匹の猫がいます。主人亡き後のさびしい私にさびしさを忘れさせてくれます。毎朝私のベッドに来て、前足でトントンをして、朝食がほしいとせがみます。私の一日の始まりです。また、外出から帰るとドアの前でちょこんと坐り待ってくれます。“ただいま”と声をかけると“ニャー”とないて私の足もとに来てまつわりつきます。本当に可愛いです。このような毎日を過ごせる幸せを神様に感謝いたします。

                             N.Z.姉


2023年2月19日日曜日

2023.2.19 牧師室便り

 ~ 育てることの難しさを学ぶ ~

昨年の暮れに、クリスマスの備えに買ったポインセチアが枯れていました。もともと一年草だと思っていたので、そのまま外に出してしまったのですが、インターネットで調べると、温度を10℃に保っていれば越冬すると書かれていましたね。毎年、新しいポインセチアを買って来ては、葉っぱが枯れてしまったら捨ててしまうということを繰り返していたので、何かもったいないような気もしました。

冬以外の季節には、荒木姉に野花で講壇を飾っていただきますが、冬から春にかけては野花もないため、花屋から観葉植物の鉢を買ってきて飾っています。先日は花がいっぱい咲いている「シンビジウム」の鉢を安価で購入しました。黄色い美しい花が礼拝堂を明るくしているのを見ると心から笑みがこぼれてきます。

ふと、「シンビジウムの育て方」が知りたくなり、インターネットやYoutubeを調べることになりましたが、野菜栽培の時と違って、季節ごとの管理、植え替え、株分けなど、やっぱりいろいろと知識と努力が必要であることに気づきましたね。何かを育てるということの難しさを、再三示された時でした。

私たちは人生を通して、絶えず育てなければならない状況に立たされます。その中でも、子どもを育てることが、最も難しいことでしょう。野菜や花、ペットなど育て方が定まっているものとは違い、人は一人一人の人格、性格、気質、体質などが全く個別的であり、一律に適用することはできません。

主イエスも弟子たちを育てる中で、なかなか成長しない弟子たちの姿をご覧になりながら、忍耐しておられたことを覚えます。

小泉町教会においても、子どもたちの信仰継承の問題、働き人の弟子訓練、伝道者養成などの課題を抱えています。ぜひ、育てることの難しさを覚えながら、主の助けと働き人の成長を切に祈りたいものです。シャローム!



2023.2.19 本日の宣教

 『 あきらめてはいませんか 』(使徒15:36~41)

教会は、多くの面でチームとして働く共同体であると言えるでしょう。そのためにイエス様が、公の生涯において最初になさったことが「弟子選び」でした。さらに3年以上弟子たちのチームとしての働きを育まれ、神の国の福音を広げられたのです。

聖書の中に登場するチームとしての働きが、最も詳しく描かれている書物が、使徒言行録であります。その中でもバルナバとパウロは、世界伝道のために結ばれた最高のチームであったと言えましょう。二人は、聖霊の導きのもと、第一次伝道旅行に出かけ、素晴らしい伝道の実を結ぶことになります。

そしてバルナバとパウロは、第一次伝道旅行で訪ねた町へ、もう一度出かけることを決めました。しかし、そこで一つの思わぬ問題が発生します。なぜならば、第一次伝道旅行の途中、突然チームから離脱してしまったマルコを、再び連れて行くかを巡って、バルナバとパウロが対立したからです。なぜマルコが離脱してしまったかの理由については、定かではありませんが、宣教地で経験した辛い出来事と、ホームシックによるものであっただろうと言われています。

当時、伝道に燃え、激しい性格の持ち主のパウロは、そんな弱い信仰のマルコが気に食わなかったでしょう。一度失敗してしまったマルコを連れていったら、再び離脱し、伝道チームに悪影響を与えるに違いないと思っていたわけです。しかし、バルナバは、「慰めの子」という名前の通り、マルコにもう一度のチャンスを与えようとします。結局、バルナバとパウロは、意見が合わず、激しく衝突した後、別のチームを組み、伝道旅行に出かけることとなったのです。バルナバは、マルコを連れてキプロス島へ。一方、パウロは、シラスと共に、北方面のシリア州やキリキア州に向かうことになります。

ここで私たちが考えるべきことは、パウロとバルナバのどちらが正しくて、どちらが間違っているかという問題ではないということでしょう。パウロのように叱ってくれる人も大切であり、また、バルナバのようにかばってくれる人も大切なはずです。一つの仮定として、パウロがマルコをあきらめず、受け入れたならば、使徒言行録はどのように変わっただろうかと思うこともできるでしょう。たとえその場合においても、主イエスは最善の道を開かれ、新しい教会史を書かれたことでしょう。

それでは、その後のマルコはどのように変わったでしょうか。パウロが晩年に書いたとされているコロサイ4:10、二テモテ4:11などの手紙の中で、パウロはマルコについて、「わたしと一緒に捕らわれの身となっている」と、「彼はわたしの務めをよく助けてくれる人」という表現を通して、マルコに対する信頼を表していることが分かります。本日の御言葉に記されている信仰の弱いマルコとは全くかけ離れているパウロの言葉です。これを通して私たちは、どんなに弱く、失敗した人であっても、私たちの神はその人をあきらめませんし、その人を通して素晴らしい御業を成していかれるということを知ることができます。神の家族の皆さん、あなたにはあきらめている人はいませんか。あなた自身をあきらめていませんか。…主イエスはあなたがあきらめている人をあきらめませんし、その人を通して神の国のための新しい御業を始められることを覚えましょう。ハレルヤ!


2023.2.19 小さな泉の恵み

 2月15日の昼、北陸新幹線はくたか号で東京に向かっています。はくたか号では、長野駅に着く手前でトンネルを抜けると左側に千曲川が流れ、右側に賛育会の豊野事業所のビルを見る事ができます。

2019年10月の台風19号千曲川堤防決壊で賛育会の3つの建物の1階が水没してしまい、甚大な被害を被りました。被災後、数週間後に川渕映子さんと富山ムスリム協会の代表サリム・マゼンさんが、彼の子どもたちとYMCAのリーダーたちを連れて、募金を持って支援に来てくださった時の事を想い出しました。

 この文を書いている今、川渕さんとマゼンさんは、トルコ・シリア大地震で被災している地域に支援を届ける為に日本を飛び立っています。マゼンさん達は、シリア内戦で破壊された町に学校を設立したそうですが、そこも地震で被災したそうです。現地では、10日間の予定で被災地を巡り、南部のシリアとの国境近くにあるアンタキヤの難民キャンプに物資を届けるほか、今後の復興に向けてどんな支援が必要か聞き取りを行う予定だそうです。

 トルコとシリアにYMCAはなく、クリスチャンとして、支援を見える関係で届けるのは難しかったのですが、富山では川渕さんとマゼンさん達の支援活動に協力したいと思います。お二人の活動が安全に、効果的に進み、無事に帰国されることをお祈りします。

                                   島田 茂


2023年2月12日日曜日

2023.2.12 牧師室便り

 ~ キリスト者の日常を恐れず取り戻そう ~

先日、東京のある教会で牧会している友人と久しぶりに電話で話し合う機会がありました。それぞれの安否を尋ねながら、コロナ下の教会の活動について話し合うことができました。興味深かったことは、彼が牧会している教会はコロナが流行った時から、多くの教会が非対面礼拝に変わる時も、対面礼拝を続け一度も休んだことがなかったということでした。その結果、コロナが原因で教会から遠のいた人がほとんどいない、という話をしていましたね。各教会の判断ではありますが、いろいろと考えさせられたひと時でした。

来る5月8日から新型コロナは、感染力や重篤性など危険性がより低いとされる5類感染症へと引き下げることが決まりましたね。これは季節性インフルエンザと同じレベルだそうです。ここ3年間、私たちを苦しめてきた新型コロナウイルスの脅威からやっと解放されることになるでしょうか。既に飲食店ではコロナはもう過ぎ去ったことのような盛況ぶりを見せていますし、生活においてのほとんどが正常に戻っているような現状です。

しかし、多くのキリスト教会は、まだまだ新型コロナの影響に抑えられているような気がしてなりません。わが教会では主の晩餐式を再開してしばらく経っていますが、数多くの教会では未だに再開できない状況にあると聞いています。

そして先週から昼食を再開しました。もちろん希望者に限って行われることになっていますが、主イエスがいつも食事の席で神の国の福音を語られたことを、大切に分かち合いつつ、経済危機の中、まともな食事ができない方々のための備えもかねて、できることから恐れず、新たな一歩を踏み出したいと願います。

世の人々が、日常生活の回復を素直に受け入れながら歩んでいるように、神の家族お一人お一人も、キリスト者としての日常である主日礼拝、祈祷会、愛餐、主にある交わりを恐れず進んでいきましょう。シャローム!



2023.2.12 本日の宣教

 『 何もかも任せられる?! 』(ペトロの手紙一5:6~7)             

世界各地で起きている様々な出来事を前にして、“なぜこんなことが?”と理解に苦しむような反応を見せている近頃です。自然災害のこと、伝染病、異常気象、戦争、事件、事故など、とりわけ先週トルコとシリアで起きた大地震を見ながら他人事ではないと思われたことでしょう。その中でも、自然災害という試練を前にしては、どうすることもできない人間の弱さが明らかにされる時ではないでしょうか。

聖書は、私たちの身に起きているすべてのことに対して、“起こるべきことが起こったのだ”と教えます。とりわけ「試練」についてですが、一度も試練に遭わなかった人は歴史上一人もいないことを私たちは知っています。まさに「試練」は、犯罪のゆえに楽園を失ってしまったアダム以降、決して避けられない、すべての人間に負わせられた重荷であると言えましょう。

さらに聖書は、「試練」についてのもう一つの側面を教えてくれます。つまり、神にふさわしい民として育て上げ、神の民の信仰を強める道具としての役割を担うのが試練だとして紹介しています。

本日与えられている御言葉の中で、使徒ペトロはキリスト者を襲ってくる様々な試練による「思い煩い」について、「何もかも神にお任せするように」と勧めます。ここで「思い煩い」とは、「心をバラバラに分ける」という意味で、一つのことに集中できず、いろんな思いがバラバラに心を満たしている状態を指します。すなわち、思い煩う姿は全能なる神を信頼していないことの現れであり、そのような思い煩いによって成し遂げられる神の御業はないはずです。だからペトロは、心をバラバラに分けてしまい、神の御心に集中できなくさせる思い煩いを、「何もかも」神にお任せしなければならないと教えるのです。

またここで興味深いのが、「お任せする」という言葉ですが、ギリシャ語で「投げ捨てる、投げかける、遠くに投げる、渡す」などの意味を持っています。すなわち、私たちが抱えているすべての思い煩いを、何もかも「神に投げ捨てなさい」と勧めているのです。ところで、「お任せする」という行為は、お任せする相手がどのような存在なのかを知らなくてはできない行為であります。同じように、神がどのような方であるかを知らないと、思い煩いを何もかもお任せすることは難しいのではないでしょうか。主イエスも、思い煩いについて「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。(マタイ6:25)」と言われるほど、私たちの弱さと限界をよくご存じですし、それを解決するための最善の道を示しておられることを覚えましょう。すなわち、父なる神、全知全能の神に、「思い煩い」を何もかも投げ捨てることで、思い煩っていたすべてのことは、「自分の問題でなく、神の問題に変わる」ことになるのです。

次いで、「何もかも神にお任せできる」理由について、ペトロは「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからだ」と告げます。神の家族の皆さん、私たちの神は、神の子どもたちを愛し、あなたと私のことをいつも心がけてくださるお方です。御子を十字架につけて死なせるほど、私たちを愛しておられるため、一時も私たちから目をそらすことなく、見守り、最善の道を備えてくださる父なる神に信頼しましょう。願わくは、あなたの重荷、あなたの使命、あなたの仕事、家庭、健康、将来など、すべての思い煩いを、何もかもお任せすることを学ぶ祝福された日々でありますように…。ハレルヤ!


2023.2.12 小さな泉の恵み

 立春も過ぎ春の訪れを待ちのぞむ毎日であります。我が家の裏庭の片隅の雪の間から、一本の木が枝がすっとのびていました。よくみると昨年の梅雨にさし木した1本のあじさいの枝だったのです。私はあじさいの花が大好き。 

ちいさな枝が命芽生えたのです。この小さなさし木も生きよう生きようとガンバッテ、根が生えてきたのです。あじさいは成長がはやく本当に楽しみです。

今年の梅雨にはきっと花を咲かせるのではないかと、心待ちにしております。

この花は女性の忍耐を表している強さを持っていると思います。そうしてこの祈りを生きた枝がのびて成長していくのが楽しみです。

私たちの信仰もこの花のように忍耐強くならなければいけないと思います。

                              A.M.姉


2023.2.5 牧師室便り

~ 息子のアルバイトから 思うこと ~

先日、息子から「コンビニでの夜のアルバイトを始めました」という連絡がありました。息子もいろいろ考えた末、新しい挑戦として、また少しでも家計に役立てたいと思ったでしょう。親としては、大人になるための一歩を始めようとしている息子にエールを送りたいものです。

私も大学時代から牧師になる前まで経験したアルバイトを挙げると、「新聞配達、牛乳配達、肉体労働、音楽カフェでの歌手、キムチ工場など」…その後、軍隊の時を経て、来日してからは、「焼肉屋、精神病院での看護補助など」…振り返ると、アルバイトの種類も多く、その経験から得た生活の知恵と力、恵みは素晴らしいものでした。当時の私は、親からの支援を期待できなかったため、生活費や学費すべてを賄うしかなかったからですが、それでも、その時のすべてが嬉しかったし、懐かしい。

最初にアルバイトして給料をもらった時の胸いっぱいの感動は忘れることができません。自分の力で稼いだためでしょうか。無駄遣いは考えたこともなく、常に節約した生活を営んでいたことを思い出します。息子にとってもいろんなことが学べる時となりますように…。

近頃、ガス、電気料金が高騰し、2月から値上げされる食料品が5000品目を超えるというニュースを見ながら、私たちの家計にどれほど大きな影響が及ぶかという心配が広がっています。そんな中、社会的弱者たちの生活がさらに厳しくなることが予想され、心が重くなります。

このような時代だからこそ、個人的、また共同体的にできることを黙想しつつ、主の知恵と力を求め従うことが必要でしょう。   

日々、主の助けと導きを祈りつつ。シャローム!



2023.2.5 本日の宣教

 『 執り成しの祈りの恵み 』(マタイによる福音書8:5~13)             

キリスト教の信仰の中心は、神と人との一対一の個人的な関係であると言えます。私個人の信仰によって救われ、神の祝福を受ける、ですから、キリスト教信仰は個人性というものをとても大切にするのです。しかし、信仰はまた、共同体的な特徴をもっていることも忘れてはなりません。信仰の共同体的性質というのは「私の信仰によって共同体の誰かが生きるようになり、共同体の誰かの信仰によって私が生かされる」ということを意味します。

今日の聖書は、主イエスがカファルナウムに入られた時、一人の百人隊長が主の前に近づいてきて懇願することから始まります。「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます。」と。ここに登場する百人隊長は、ローマ人であって、社会的に力をもっていた人でした。そして聖書は、彼が主イエスへの信仰をもっていたことを教えています。

百人隊長の懇願を聞いて主イエスは、早速「それではわたしが行って癒してあげよう」と言われます。これを聞いて百人隊長は、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎え出来るような者ではありません。ただ一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕は癒されます。」と応えます。ここで私たちは、百人隊長の信仰の謙遜さと、信仰の確かさを見ることができます。

これを聞いておられた主イエスは彼の信仰に驚かれ、感心されたと聖書は記しています。そこで主イエスは、周りにいた人々に「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と誉め言葉を告げられ、そして、主イエスは百人隊長に言われます。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」…続けて聖書は、「丁度その時、僕の病気が癒された」と記すことでこの物語が終わります。

ここで私たちが注意を払うべき大切なことは、主イエスの前に近づいて、癒しを懇願した人が百人隊長であったということです。実際に中風で苦しんでいたのは、彼の僕でしたが、主イエスを驚かせ、ほめ言葉をいただいた信仰の人は、百人隊長であったのです。つまり、百人隊長の信仰によって、僕は癒されたのです。

その通り、主イエスがご覧になられたのは、僕の信仰ではありません。主イエスは、百人隊長の信仰をご覧になり、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」と言われ、僕の病を癒してくださいました。ここに共同体の信仰の秘密が隠されているのです。

私たちの信仰は共同体的な信仰であるべきです。私が倒れる時、共同体の誰かの祈りによって癒され回復されます。また、誰かが病んでいる時、私の祈りと共同体の信仰によって癒され救われるのです。今、この時、私たちの周りにあなたの信仰と祈りを求めている人はいないでしょうか。また、あなたには、誰かの祈りが必要とされているのではないでしょうか。「協力伝道週間」を迎え、私たちの信仰における共同体的な面を大切に黙想しつつ、執り成しの恵みをいただきましょう。「小泉町教会の執り成しの祈り」をご覧になり、その応答として恵みを賜る主をほめたたえましょう。シャローム!


2023.2.5 小さな泉の恵み

 ~ワイズメンズクラブって?~

今週・来週と2週続けて愛する兄弟姉妹と共に教会で礼拝することができず残念です。 

この文章は、大阪に向かう特急サンダーバードの中で書いています。今、福井県を通過しているところです。曇っていますが、車窓から眺める雪景色がきれいです。

 今回は、神戸で開催される東西ワイズメンズクラブ交流会に出席します。ワイズメンズクラブは、YMCAを通して若者を支援するYMCAの最大の寄付団体ですが、YMCAと独立して運営している100年以上の歴史のある国際ボランティア組織です。

 各地域のクラブ単位で活動しており、日本では全国146クラブ、約2,400人が西日本区と東日本区に分かれて活動しています。

ワイズメンズクラブでキリスト教に出会い、クリスチャンになった人もたくさんいます。富山では、2018年に新たに設立し、毎月第二月曜日にゲストを招いてYMCAで例会を開催しています。この2年は、12月例会で閔先生にクリスマスメッセージをしていただき、メンバーは、閔先生のお話しと讃美を聞き、感動に包まれてイエス様の誕生の意味を知る事ができました。活動を通して、福音が伝わればと願っています。祈りつつ

                                   島田 茂兄


2023.1.29 牧師室便り

 ~ 時が迫ってきています ~

「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。(一ペトロ4:7)」

米国の科学者らは24日、地球滅亡まで残された時間を示す「終末時計」の時刻が昨年より10秒進んで残り90秒となったと発表しました。終末時計は、核戦争、疾病、気候変動に起因する脅威によって縮まることになっていて、過去3年間は「100秒」に維持されていたそうですが、昨年から始まったロシアによるウクライナ侵攻を受け、さらに悪化したとのことです。人類滅亡までに残された時間は史上最も短く、90秒・・・。先週、日本を襲った大寒波もそれらの影響だったでしょう。

 それでも人は戦争を止めようとしませんし、核兵器や新兵器の開発を続けるでしょう。また、地球温暖化による自然災害や気候変動を心配する声を上げながらも、生活の便利さへの欲望のゆえに、二酸化炭素排出を諦めないでしょう。ロシアのプーチンもウクライナのゼレンスキーもこのまま戦争が続くと世界にどんな悪影響を及ぼすかを知っていながらも、戦争をやめるための行動を忘れているようです。

皆さんは終末時計90秒ということを聞くとどんな気分になりますか。“あ、大変だ、早く地球を守る方法を探さなきゃ!”“生活様式を変えなきゃ!”“主の助けを祈ろう!”と思っているでしょう。

聖書は繰り返し終末の日について語っていますし、その日が迫っていることを警告していることを覚えましょう。そのために、思慮深くふるまい、主の助けと御業を祈ることです。キリスト者こそ、世界の人々の救いのための最後の望みであり、命綱であることを忘れないことです。シャローム!



2023.1.29 本日の宣教

 『 主が望まれる教会へ 』~御言葉に生きる幸い~ (ヨハネの黙示録1:1~8)             

昨年の一年間を通して、ヨハネの黙示録に登場する7つの教会への主イエスからの手紙の内容について学ぶことができました。とりわけ、新型コロナウイルス、ロシア・ウクライナ戦争、地球温暖化による自然災害など、聖書が語っている終末の時を通過しているような現在において、キリスト教会とキリスト者に求められる姿勢について次のように教えます。

「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。」(1:3)… ここでヨハネは、幸いな人として備えるべき生活の3つの知恵を示しています。①この預言の御言葉を朗読する人が幸いだ ②その御言葉を聞く人が幸いだ ③聞いた御言葉を守る人が幸いだ と教えています。聖書は繰り返し、キリスト者の命こそ、過去、現在、未来、特に終末においても変わらず、御言葉を生きることだと宣言しているのです。そこで、朗読し、聞き、守ることの最初の預言の言葉として挙げられている7つの教会に送られた手紙の内容をもう一度、確かめるひと時を過ごしましょう。

①エフェソ教会:称賛悪者どもに我慢できず、偽使徒たちを調べ、彼らのうそを見抜いたこと。よく忍耐して、主の名のために我慢し、疲れ果てることはなかった。ニコライ派の行いを憎んでいる。叱責初めのころの愛から離れてしまった。

奨励と約束悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。命の木の実を食べる。

②スミルナ教会:称賛主のための死を覚悟するほどの苦難や貧しさの中にあるが、本当は豊かだ。奨励と約束受けようとしている苦難を決して恐れてはならない。死に至るまで忠実であれ。命の冠を受ける。

③ペルガモン教会:称賛サタンの王座がある所で主の名をしっかり守っている。殉教しながらも主に対する信仰を捨てなかった。叱責バラムの教え(偶像への献げものを食べ、みだらな行いをする)を奉ずる者がいる。ニコライ派の教えを奉ずる者たちがいる。奨励と約束悔い改めよ。隠されていたマナが与えられる。白い小石が与えられる(新しい名が記された小石)。

④ティアティラ教会:称賛行い、愛、信仰、奉仕、忍耐。近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっている。叱責みだらな行いと偶像礼拝を勧めるイゼベルの行いを大目に見ている。奨励と約束悔い改めよ。今持っているもの(福音)を固く守れ。諸国の民の上に立つ権威が与えられ、明けの明星(キリスト)が与えられる。

⑤サルディス教会:称賛少数ながら衣を汚さなかった者がいる。叱責生きているように見えても、実は死んでいる。奨励と約束目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。聞いたこと(福音)を思い起こし、それを守り抜き、悔い改めよ。白い衣を着せられ主と共に歩くことになる。名を命の書から消すことなく、父と天使たちの前で言い表す。(表参照!)

願わくは、神の家族の皆さんが7つの教会への主イエスの御言葉を真剣に受け止めつつ、今現在の私たちの教会と各個人の姿を照らし合わせ、主が望まれる教会、主が望まれる個人となるために御言葉に応答できますように…。


2023.1.29 小さな泉の恵み

 皆さん、急激な寒さの中、如何お過ごしでしょか?急激な寒さにより、体調が優れない日々が続く、今日この頃です。

 1月22の坂上さんの宣教を聞いて、ある出来事を思い出しました。以前東京で、私は友達として付き合っていた人が、私を騙し入会させようとし、揉めに揉めたことをです。その頃の私は、友達も全くいなく友達くらいはと思い、友達になりました。何日間か経ち、会うことになりました。会うことになり、会いましたが、会うやいなや4人に囲まれ、いきなり彼らが入っている宗教の話を永遠とされました。もちろん、私は、彼に騙されたと怒り心頭で、話は全く聞く耳持たずでした。その後、本館みたいなところに無理やり行かされ、入会の意思がないのに入会したことになっており、怒りが抑えきれなくなった私は、帰ろうとしたところ、私を騙し入会させようとしたご本人から、珠々、教本みたいなのを渡されました。気持ち悪かったので、返そうと思い電話をしたのですが、一週間もやらずに何が分かるとブチ切れられ

ました。余りにも憤りを感じた私は、後輩や知り合いの法律に詳しい方に相談しました。その後は、嫌がらせの電話も来なくなりました。

何故、人を騙してまで入会させようとするのか?旧統一教会の話が出る度に思います。私は幸いと言うべきなのでしょうか?それらの宗教に入っていません。

 これからの教会生活をしていく中で、しっかりとした信仰生活が送れる、自分でありますように…。

                               Y.H.兄

2023.1.22 牧師室便り

 ~ 今年の証し礼拝をもっと豊かに… ~

小泉町教会を一言で表現するとしたら、皆さんにはどのように表現できるでしょうか。ある方は“讃美で満ちている教会”、またある方は“家族的で温かい教会”、他の方は“いろいろな行事があって忙しい教会”…など、いろいろと表現することができるでしょう。

 牧師として常に皆さんに語ってきた言葉は、“主に喜ばれる教会”ということでした。それでは、どのようにすれば主に喜ばれる教会を形成することができましょうか。もちろん、様々な要素が求められると思いますね。まず、礼拝に集う一人ひとりが喜びと感謝、感動に満たされて献げる教会を挙げることができると思います。そして、福音の御言葉が正しく語られ学ばれるという教会共同体の土台がしっかりしていてどんな嵐にも決して揺れない教会の姿であるでしょう。 

そして今年の小泉町教会が主に喜ばれる教会となるために神の家族に提案したい姿が“証しで溢れる教会”であります。現在の小泉町教会では、神の家族の生活の証しを自由に表す場をもうけています。まず、週報の「小さな泉の恵み」がそうですし、次に、毎月4週目の証し礼拝がそれです。一つは文字による、もう一つは声による証しです。

「証し」はキリスト者を象徴するしるしであり、証しによらなければ伝道はできません。私たちの愛する家族、友人にイエス様を紹介するためにも証しは必須不可欠です。願わくは、小泉町教会の神の家族の書く文字から、唇から、また行動から、キリスト者としての証しが自然に溢れますように…。そのために、日々の生活の中でイエス様との親しい交わりをもつことでしょう。皆さんの証しを、主が喜ばれ楽しく待っておられます。

シャローム!



2023.1.22 本日の宣教

 『 統一教会から救われて② 』~偽りの平安からの解放~(マタイによる福音書 4:4~14)

前回、カルトの代表的な存在として知られる統一協会に入信し又脱会した経緯をお話しました。むろん、何かに騙される経験があったとしてもその事の専門家になれるわけではありません。一緒に学ばせて頂きたいと考えています。礼拝後に頂いた意見の中に「なぜ、そんなものを信じてしまうのか?」という言葉が有りました。それには幾つかの答えが有ります。まず第一に、聖書にある程度の権威を感じながらも詳細については無知であることがあげられます。前回もお話したように統一協会の教義は本物の聖書の一部をつまんで都合良く繋いで文鮮明師がメシアであるとしています。聖書の本当の意味を理解していない者には否定する術がありません。彼らは聖書の神を信じていると思っているのです。そして神の理想社会を実現するために選び召し出されたという使命感も与えられます。重ねてこの世はサタンに支配されているので、統一協会の上司(アベル)以外に相談してはいけないとされ徐々に統一協会に思考をコントロールされていきます。安倍元首相を銃撃し、殺害した山上容疑者の母親の献金は愚かとしか思えません。しかし彼女の思いの中には純粋な面も有ることもご理解いただけたらとも思います。昨今流れてくる二世信者の話を聞くとその親たちは私と同時期に活動していた人たちだと思うと辛くなります。なぜ間違いに気づくことができないのでしょう。それはそこにそれなりに平安が存在するからです。戦争の声を聞き、先の見えない不安に苛まれ続ける中にあって唯一の正解、救いであると信じると安心感に包まれます。また、この世の苦しみは世を支配するサタンによるものであり、仲間と共にそれと戦うという使命に自分の存在意義を見出だすのです。しかしそれは偽りからくる錯覚です。「人が見て自ら正しいとする道でも、その終わりはついに死に至る道となるものがある(箴言14:12)」偽メシア、偽予言者の出現は主イエスの予言の成就です。移ろいやすく弱い私たちにも警告の言葉を発っしておられます。サタンの攻撃、滅びへの誘いは益々巧妙さを増して来るでしょう。「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。(マタイによる福音書24:24)」主の守り無しに立ち続けられる者がいるのでしょうか。自分だけは大丈夫と思うのは愚かです。主の守りを願います。

「なぜそんなものを信じるのか?」という問いは私たちクリスチャンにも投げ掛けられています。救いは人の努力や頑張り、行いによって得られるものではなく、神様からの一方的な赦し、御子イエスの十字架の犠牲による贖いを御霊のお働きによって得させて頂くのです。この人知を越えた奇跡を改めて思います。主の恵みがカルトによって苦しむ人々にももたらせられますように。

                                坂上幸男執事


2023.1.22 小さな泉の恵み

 獅子柚子(鬼柚子ともいう)という直径20cmくらいの大きな実をつける柑橘類があります。

それが通勤途中の線路脇に植わっていて、昨年12月初めには4個実がなってました。12/17までには3個落果して、最後の1個に。そのラスト1個がいつ落ちるだろうかとハラハラしながら通勤していました。それが、12/28の仕事納めの日にもまだ落ちず。なんと年越して1/4の仕事始めの日にもまだ健在でした。

あまりにもずっと頑張っているので、もうこのまま枝で干し柚子になるのかなと思った次の日。1/5に落果していました。やっぱり、その日、は来るんだな、と思いました。

「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」マタイ25:13

その日、は必ず来るのだから、いつ来てもいいように、一日一日を神さまに感謝しつつ大切に歩まなければと思わされました。

                           S.M.姉


2023.1.15 牧師室便り

 ~ 協力伝道の恵みとビジョン ~

先週土曜日(7日)は、日本バプテスト連盟主催の議案説明会が開催され、「福井教会復興のための全国支援・地域協働プロジェクト」について、全国の皆さんに説明をし、質疑応答を通して共有する時をもちました。コロナ危機の中で、日本バプテスト連盟の財政的、人的問題が浮き彫りになり、機構改革をせざるを得ないことが熱心に話し合われた説明会でした。しかし、最後の議案であった「福井プロジェクト」を分かち合う時には、説明する福井教会の平良先生をはじめ、北陸三教会の皆さんの真摯で熱く燃える姿に、説明会に参加していた多くの方がビジョンを共感できたひと時であったと思います。神の家族の皆さんも、ぜひ福井プロジェクトを説明するYoutubeの映像をご覧になり、熱心に執り成してくだされば幸いです。(https://www.youtube.com/watch?v=qqtQed4chgE)

また、明日16日(月)夜7時30分から、北陸三教会主催の説明会が開かれますので、ぜひ、zoomを通して参加してみてはいかがでしょうか。(zoomID:863 1321 4778 パスワード:68soukai17)なかなか交わることのできない日本バプテスト連盟の諸教会の方々の姿に触れながら、新鮮な感動に包まれることになるでしょう。

それに加え、福岡ベタニヤ村教会牧師就任式を迎えられる敬愛する田口昭典先生の健康と働きのために祈りましょう。いくらプロの牧会者と言われる田口先生であっても、新しい牧会地での働きは緊張するものであると思います。まさに牧師の働きは地上での生涯を終える日まで続くものであることを新たに示されている近頃です。シャローム!

                                

2023.1.15 本日の宣教

 『 神に近づく人の幸い 』 (ヤコブの手紙 4:7~10)

“今年の神の家族の願いは何でしょうか。”…毎年のごとく問いかける質問です。牧師として、私が常に信徒たち に求めるべき大切なこととすれば、主イエスとの親密な交わりを持ち続けることです。主イエスとの距離を昨年より 今年が、昨日より今日が1㎝でも近づけられればと願っています。

しかし、神に近づくということにおいて、私より神の方がもっと望んでいることをご存じでしょうか。聖書は、神の、人への望みはただ一つ、神を愛する人と近くで交わりをもつことにあると教えます。聖書に記されている神は、ただの   宗教儀式の対象になることを望まれません。生きておられる神は、あなたと毎日顔と顔を合わせ、親密な交わりをもつ関係を望んでおられるし、その中でご自身の現存を愛する人に示されるのを喜ばれるお方です。だから信仰の先人たちは、常に神の御前に近づくことを心がけていましたし、神に近づく人を幸いな人だと呼んでいたのです。

宗教改革者のマルティン・ルターは毎日の朝早く祈りと黙想の時間を過ごした人として有名です。たとえ、一日 でも神との祈りの交わりの時間を過ごすことがなければ、その日はサタンに負けてしまう日だと言われるほどでした。     だから、彼はいくら忙しくても神との約束していた祈りの時間だけは休むことはなかったのです。そこで、彼は、「忙し ければ忙しいほどもっと多く祈りなさい!」という言葉を残したのです。

本日の御言葉の中でヤコブは、神との親密な交わりのための方法をいくつか提示します。特に、ここで強調されているのは、キリスト者の主体的な決断を強く勧めているということです。

まず、「神に服従する」ことです。神の御心に私たちの思いを服従させる。私たちが神に服従すればするほど、  神との関係は一層深まります。悪魔は神と信徒との信頼関係を打ち崩すために私たちを誘惑しようとするので、 常に主イエスがそうであったように、「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(マタイ4:10)と神の御言葉に服従しつつ、悪魔の誘惑に立ち向かうべきです。次に、「神に近かづく」ことです。私たちは二心を抱かず、清い手と清い心をもつことで神に近づくことができます。私たちは、主イエスの十字架の前に、赦された罪人として嘆き、悲しみ、泣きつつ近づくことです。その時主イエスは、私たちの嘆きを喜びに、悲しみを賛美に、泣く声を賛美に変えてくださるでしょう。最後に、「へりくだる」ことです。「へりくだり」は謙遜な者と同じ語源を持つ言葉で、神は謙遜な人を愛し、その人を高められ、恵みを施してくださいます。「わたしは、…打ち砕かれて、へりくだる 霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」(イザヤ57:15)と  あるように、主がへりくだる者をいかに喜ばれるのかが良く分かります。…神の家族の皆さん、新しい年を始めるに 当たって、礼拝、祈り、ディボーションなどを通して神に近づくことを決心しましょう。ぜひ、神に近づくことの妨げに   なるものを取り除きながら、父なる神が備えられている祝福にあずかる歩みになりますように…。ハレルヤ!


2023.1.15 小さな泉の恵み

 師走の某日、南砺市健康課から呼び出しが有りました。「健康診断の結果、血圧、体重、腹囲について問題が有りました。いわゆるメタボです。今後大きな病気に移行しないように食事改善の指導をさせて頂きます。(市職員)」日頃の食事を聞かれた後、「なぜ夕食後に菓子パンを食べるのですか?お腹はすいていないでしょう。(市職員)」「違うんです。妻がパンを買って手の届く所に置くのが悪いのです。」「では、そのパンを食べるのを止めるか、ご飯を減らすことから始めましょう。(市職員)」家に帰って妻に「あんたのせいで食事指導になっちゃった。」「何言ってるの。あのパンは子供たちの部活動の為の物なんだからあなたが食べなければいいでしょう。😠(妻)」そうです。私が食べなければよいのです。

エバはアダムに善悪知る木の実を食べるように促しますが、私はそそのかされてもいませんでした。責任転嫁も甚だしいのです。「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(創世記3:6)」「(パンを)とって食べてはならない。」という言葉に従いたいと思います。病気になる前に職員さんを遣わして下さった主に感謝いたします。でも、目の前にパンが有ると食べたくなっちゃうんだよなぁ。

病の苦しみの中に在る方に癒しの御業がありますように。皆様の健康が守られますように。

                            S.Y.兄


2023.1.8 牧師室便り

 ~ 行いを息とする一年を ~

「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。(ヤコブの手紙2:26)」

 2023年1月号のリビングライフのテキストはヤコブの手紙です。私としては昨今の世界情勢を思うと、本当にふさわしいテキストであると思います。とりわけ世界中のキリスト教会とキリスト者に向けて問いかけているヤコブの言葉に心打たれながら、少しでも生活に変化をもたらすことができればと願っているところです。

ヤコブは、信仰を評価する基準をあえて「行いにある」と教えます。信仰にふさわしい行いが伴うことによって、その信仰は真実なものとして証明されるのだと言っているのです。口では「信じます」と言いながら行いが伴わないなら、あるいは口では信仰を告白していながら、その信仰を否定するような行いをするならば、その人の信仰は偽物かもしれない。さらにヤコブは「行いのない信仰を死んだものである」とまで断言していることが分かります。このことは歴史の中で多くの人を悩ませてきましたし、今現代の多くのキリスト者にかなり大きな負担となっていることでしょう。

信仰は、知的な側面と感情的な側面、さらに意志の決断によって行動に移す側面までを含んでいます。この三つが三位一体となった信仰者が成熟したキリスト者と言えるでしょう。多くの場合、私たちは知的、感情的同意までは簡単に進みます。ところが、知的、感情的に同意したことを行動に移すことを苦手としているという限界をもっています。…福音書の中で、主イエスに出会った金持ちの青年が、御言葉を聞いて納得し感動するわけですが、「あなたが持っている物を売り払い、貧しい人々に施してから従いなさい。」と決断を迫られると、彼は主イエスから離れてしまうという悲しい物語が思い出されます。この金持ちの青年の姿こそ、現代のキリスト者の共通した弱さではないでしょうか。

 ヤコブは行いを「魂」にたとえ、「魂がない肉体は死んだものである」と告げることで、私たちの信仰の核心を示します。すなわち、信仰という知的、感情的同意という「肉体」に、行いという「魂、息」が伴うことによって、私たちは初めて生きる者とされることを心と生活に刻まなければなりません。礼拝も、祈りも、奉仕も、献金も、施しも、平和も、正義も、すべて行いが伴わなければ成し得ないという単純な事実を確かめつつ、この一年、生きたキリスト者として、肉体も、魂も健康を取り戻す神の家族お一人おひとりでありますように…。シャローム!


2023.1.8 本日の宣教

 『 先を進み、しんがりを守る神 』(イザヤ52:11~12)                                          

預言者イザヤは、70年もバビロンで捕虜生活していたイスラエルの民らに、いよいよエルサレムに帰る日が来たことを告げます。しかし、多くのイスラエル人たちは、バビロンでの生活に慣れてしまい、エルサレムに戻るための準備など、様々な不安に包まれていました。イザヤは、そのような民に向け、「先を進むのも、しんがりを守るのも神なんだ!」という慰めのメッセージを語ります。

私たちが団体で山登りをする時、二人のリーダーが必要です。一人は先頭を歩くリーダーで、もう一人はしんがりのリーダーです。先頭を歩くリーダーがいかにうまくリードしても、メンバーの中には健康の差、年齢の差、呼吸の差などが原因で、遅れてしまう人が出てきます。その時、しんがりのリーダーは遅れる人を待ってあげたり、少し喉を潤したり、声をかけたり、どうしても荷物が重すぎる時は、しんがりのリーダーがその人の荷持を持ってあげたりしながら、その人が無事山登りができるように助けます。誰も、しんがりのリーダーより後を歩くことはできませんし、そんなことはありえません。 当然、頂上に最後に着くのはしんがりのリーダーです。もちろん、山から降りる時も、登る時と同じく先頭のリーダー、しんがりのリーダーが立ちます。そして、先頭のリーダーとしんがりのリーダーの間を皆は歩くことになるのです。 

その通り、聖書が教える神は、常に私たちの先を進んでくださり、行く道を備えてくださり、また新しい方向へと導いてくださるお方です。だから私たちは、先を進まれる神を信頼し、平和に満ちた人生の歩みができるわけです。

同時に、その神が、私たちの「しんがり」を守られると教えています。「しんがり」という言葉は、最近はあまり使わない言葉で、「一番後ろ、最後」という意味をもっています。すなわち、「父なる神は、前を先に進まれ導かれるだけでなく、後ろをも守り、後ろから攻めてくるいかなる敵の攻撃からも守ってくださるお方」なのです。また、「しんがり」と訳されているヘブライ語には、「集める」という意味もあり、「散らかしたものを拾い集め、後始末をする」という意味もあります。

新しい年を始めようとしている今、過ぎ去った一年を振り返ってみましょう。皆さんの生活において、後始末をしてもらわなければならないほどの、やり残したことが散在していませんか。その中には、いろんな間違いも、失敗もあったはずです。しかし聖書は、それらのものを神がご存じであって、後始末をして下さると言われているのです。

ぜひ、前方に見える旅路が激しく見え、大変そうに見えても、主イエスが先を歩まれながら新しい道を作ってくださることを信じ、霊的な目をもって見つめましょう。また、私たちの後ろに残してしまったことや、後ろから迫ってきている敵のことなどは、しんがりを守られる神を信頼し、大胆に歩み続ける神の家族でありますように…。そうする内に、2023年の旅路が終わる時には、感謝と喜びの新しい歌を神にささげることができるでしょう。ハレルヤ!


2023.1.8 小さな泉の恵み

あけましておめでとうございます。正月はいかがお過ごしでしたでしょうか?

ロシアとウクライナの戦争がクリスマスや新年を迎えても停戦することなく攻撃が続いていく中で、市民を含む双方に多くの犠牲者がでていることを悲しく思います。一刻も早くウクライナでの戦争が終結し、困難な中にある方々に平和の希望の光が灯ることをお祈りいたします。

さて、私がホストを務めているラジオ番組、富山シティFM(77.7 MHz)『SDGsカフェ~七色十色』が第43回目を迎えました。毎月ゲストを招いて、SDGsに関する活動を紹介し、一人でも多くの方がSDGsについての取り組みができるように、視聴者に語りかけています。今回は、局の部長でディレクターの小原源さんが司会を担当し、昨年を振り返り、私に今年の抱負を問う内容となっています。毎月同じ内容が6回放送されます。同時間帯で富山シティFMのサイトを検索するとスマホでも「ネットからラジオ」をクリックすると聴くことができます。2019年7月から続いている『SDGsカフェ~七色十色』、今年も続くでしょうか?

毎月第1と第2週の水曜日14時、木曜日18時、日曜日11時に放送されます。 1月の後半は、11日(水)14時~15時、12日(木)18時~19時、15日(日)11時~12時です。ぜひお聴きいただければ幸いです。

「わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。『あなたのうちに平和があるように』」(詩編122篇8節)

                           島田 茂兄

2023.1.1 牧師室便り

 ~ 小泉町教会の駅伝へ ~

「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。(ヘブライ12:1~2)」

 毎年の年末年始にテレビをつけると必ず流れているのが「駅伝」です。高校、大学、実業団の大会が続きますね。

各チームの選手たちが長距離をリレー形式で、各走者は競技用の「たすき(襷)」を身に着けた状態で走り、中継所では前の区間の走者から次の区間の走者に「たすき渡し」を行ない、チームとしてのゴールを目指す競技です。私は毎年同じ光景を見ながら、日本人のマラソン好きをつくづく感じています。

 今日から小泉町教会の新しい駅伝レースも始まりますね。もちろん、何か記録のために走るわけでも、何か賞をもらうための走りでもありません。また一人、一人と、各自が個別に走り抜くわけでもありません。私たちのレースは小泉町教会という共同体による走りであり、常に隣の神の家族と手をつなぎ支えながらの走りとなります。だから、途中で脱落する人を一人ぼっちにすることもしませんし、走りの速度が遅いからといって無視することも、走りが速いからといって自慢することもあってはなりません。求められるのは、神の家族同士が、主イエスをはじめ、おびただしい証人の群れからの応援を受けながら、互いに重荷を担い合いつつ、私たちに定められた競走を忍耐強く走り抜くことです。

 今年の小泉町教会のレースにおいて天候に恵まれない時もあるでしょうし、体調を崩す方も現れるでしょう。しかし、決してレースをあきらめたり、立ち止まったりすることはありません。私たちより先に走り終えられた信仰の先人たちからの応援を受けながら、私たちを励まし、力をくださる聖霊に満たされることです。私たちの信仰の創始者また完成者である主イエスを見つめながら、2023年に定められたレースを走り抜きたいものです。シャローム!


2023.1.1 本日の宣教

 『 勇気を出しなさい 』(ヨハネによる福音書16:33)                          

 明けましておめでとうございます!

2023年、新しい歩みを始める神の家族の上に主の恵みが豊かに注がれることを祈ります。とりわけ様々な試練に遭われておられる方々の上にはさらなる主の慰めと助けがあるようにと祈っています。

昨年はこれまで以上に山あり谷ありの一年でしたね。コロナ危機が続き、戦争が激しさを増し、それによる経済危機、自然災害など、予想もしなかった試練の連続でありました。さらに、今年の予測も決して明るくはありません。

主イエスは、十字架にかかる前日、愛する弟子たちに「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)と教えられました。3年以上も、寝食を共にしながら家族以上の関係を築いてきた弟子たちでした。そしていよいよ主イエスは、十字架の死と復活、そして昇天による別れを弟子たちに告げておられます。その時、弟子たちが感じただろう不安と恐れ、戸惑いは言うまでもありません。とりわけ主は、主ご自身がおられなくなった後、弟子たちに襲ってくる苦難に際してどんな姿勢を貫くべきかについて語られます。

試練や苦難はこの世の誰もが経験するものです。一人の例外もありません。ですから、あるべき試練を否定しようとしないで、試練をありのまま認めながら、その試練や苦難をどう迎え入れるかを考える必要があるのです。

ある神学者は“キリスト者の生活にとって最も安全な時こそ、試練を受けている時だ”と言いました。それは、逆境に追い込まれた時、キリスト者は祈りの座へ進み、自ら背負っている重荷を主の御前に運び込み、そこに下ろすことができ、試練に遭う度に、聖書の御言葉にすがろうとするからでしょう。

だから聖書は、苦難や試練について「変装した祝福」であると教えているわけです。それは、オリーブから油を搾り取る時やブドウからワインを作り出す時、大きい圧力をかけ、踏みつける過程が必要になるように、また純金を作るために、何度も炉の燃える火を通過しなければならないように、キリスト者も、試練を経験する度に、より優れた霊的恵みを手にすることができ、輝く宝石のような信仰者へと成長していくのです。

ただし、それらの苦難に対して、私たちが自力で立ち向かうことはできません。もしそうするのであれば、私たちはいつも敗北と失敗、挫折を繰り返すことになるでしょうし、ますます小さくなっていくでしょう。だからこそ主イエスはご自身について「既に世に勝っているお方」だと宣言されますし、私たちも主イエスによって勝利を得ることができると約束しておられるのです。主イエスは、十字架の死と復活を通して、この世(サタン)に打ち勝たれました。ですから、「既に勝利されている主イエス」を信じ、その方がいつも共に歩んでくださることを確信している私たちは、勇気を出すことができるわけですし、実際、主イエスによって勝利することになるのです。

 神の家族の皆さん、2023年の歩みの中、今日の御言葉にあるように、絶えず苦難が襲ってくることを覚え備えておきましょう。ただし、どんな苦難であっても、主イエスと共にあるので、平安を得ることができ、勝利者としての人生を歩むことができることも心に刻んでおきましょう。だから、恐れず、挫けず、勇気を出して歩みましょう。ハレルヤ!


2023.1.1 小さな泉の恵み

 あけましておめでとうございます。

週報係の役得で、元旦早々、登場させていただきます。1年、早いですね…

昨年、ある姉妹が「私、富山に来て『うまいものは小勢』という言い方をはじめて聞いた」とおっしゃっていました。おや?私は名古屋で『仕事は大勢、うまいものは小勢』という言い方に出会ったぞ(?)。と、思い、ググって(インターネットで調べて)みたところ、奥飛騨の諺のようでした。

ところで、小泉町教会に集められた私たちは“仕事”も“うまいもの”も、全員で分け合える群れでありたいと思っています。

“真のとりなしの祈り”のできる人にもなりたいし、掲げた目標をいつも心にもっていたいです。今年度の活動標語“「互いに重荷を担い合おう」~互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。~” も、そういう意味なのかなと思っています。

多用な日々の生活の中で、信仰第一、教会第一としていくことは、なかなか難しいことだと思いますが、兄弟姉妹が一枚岩となって、たくさんの恵み、祝福をいただく1年となりますよう、今年もよろしくお願いいたします。

                             K.I.姉

2022.12.25 牧師室便り

  ~ もう一回紹介したい詩… ~

「はい」と言っておくれ

子よ、「はい」と言っておくれ

わたしがこの地上にやってきたとき

マリアの「はい」が必要であったように

きみの「はい」がいま必要なのだ

 

わたしにすべてを投げ出してくれ、きみのすべてを!

地上におりて、きみといっしょになるために!

きみの「はい」がわたしには必要なのだ

この世を救い続けるために、きみの「はい」が必要なのだ

 (ミシェル・クオスト『神に聴くすべを知っているなら』)


この詩は、今まで何度か神の家族に紹介してきたもので、クリスマス季節に最もふさわしい詩であると思います。

クリスマス物語にはマリア、ヨセフ、エリサベト、3人の学者たち、羊飼いたちなどの人々が登場し、救い主の誕生の証人になり、ある人は命をかけた犠牲を払い、ある人は最高の贈り物を献げました。彼らに共通したのは、「はい」という喜びの応答でした。

そして神は、今日の私たちにも同じことを望んでおられることを覚えましょう。コロナ、異常気象、戦争、経済危機など、人間の欲望や罪がますます燃え上がる暗闇の時代に、神の御計画に「はい、ここに私がおります。用いてください。」と、自らを神の救いの御業の道具として献げる人を通して、神は新しいことを始められることでしょう。あなたはどう応答しますか。シャローム!


 






2022.12.25 本日の宣教

 『神にできないことは何一つない 』(ルカによる福音書1:26~38)                              

救い主のお誕生、おめでとうございます!!!

クリスマス物語を象徴する言葉の中で、最も大切な言葉の二つが本日の御言葉の中に登場します。その一つは神からの言葉で、もう一つの言葉は人間側からの神様への応答の言葉です。それは、「神にできないことは何一つない」という神からの言葉と、「お言葉どおり、この身に成りますように」という人間側、マリアの言葉であります。

今から2000年ほど前のある日、ガリラヤのナザレという町に住んでいた、処女マリアのところに、突然天使ガブリエルが訪れます。その時、天使は驚くべき言葉をマリアに告げることになります。「処女であるあなたが身ごもり、男の子を生むことになる。その幼子が、いと高き方の子、ダビデの王座を継ぐ約束されたメシアである」という。…本当に驚愕するほどの衝撃がマリアを襲ったことでしょう。

当時のイスラエル社会では、処女が子を生むとは、夫となるべき婚約者のヨセフを裏切った姦淫の罪であるし、その結果、石で打たれ殺されるべき決して赦されない罪でありました。そこで、マリアが早速天使に尋ねます。…「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と。マリアにとっては当然の反応です。

その時、マリアに勇気を与え、背中をそっと押してくれる神の声が聞こえてきます。

「神にできないことは何一つない。(37節)」 … あまりにも単純でシンプルな言葉です。しかし、この言葉を天使から聞いた時、マリアの内から一つの決断が起こります。そしてその一つの決断によって、今まで彼女の心の中で激しく燃え上がっていた様々な恐れ、不安、疑問、怒りなどが静まり始めます。そして、そこからマリアの一つの忘れがたい信仰の言葉、そこに自らの人生を丸ごと委ねる一つの言葉が彼女を新しい信仰の次元へと導いてくれるのです。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(38節)」

聖書は私たちの信仰について次のように宣言します。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ11:1)」と。この言葉には、目に見えることに捕らわれず、目には見えないけれど、確かに生きておられる神への信頼をもって歩むことが示されています。

私たちが信じる神は、天地万物を創造され、人間を神ご自身の姿に似せて創造されたと聖書は教えます。しかし人間は神様との約束を破り、欲望に捕らわれ罪を犯し堕落していまいます。堕落してしまった人間に定まったのは死と滅び、しかし神は人間がそのまま滅びることを望まず、歴史の中で絶えず、驚くべき奇跡を起こされ、イスラエルの民らを救われました。そしていよいよ、造られた人類すべてのために唯一の救いの道を与えてくださいました。その道こそ、神ご自身が人間の体をもって人間としてお生まれになり、人類が背負うべき罪と死、滅びのすべてをご自分が背負い、生贄として贖うことでした。そのために、遣わされたのが神の独り子イエス・キリストなのです。愛する皆さん、信仰とは、自分には出来ないことに向かって、「神にできないことは何一つない。」という神の御業を信じて、「お言葉どおり、この身になりますように」と応答し、一歩踏み出すことです。 ハレルヤ!


2022.12.25 小さな泉の恵み

 現在、祈祷会でソロモン王が書いたとされている「伝道者の書(コヘレトの言葉)」を学んでいます。

「すべてのものは土のちりから出て、すべてのものは土のちりに帰る。(伝道者の書 3:20)」では、神は、人は獣に優ってはいないと教えてくれています。私自身、人は土の化け物と思っていますので、土のちりにからできていることに全く違和感がありません。しかし、次節で「人の子らの霊は上に昇り、獣の霊は地の下に降りていくのを。(伝道者の書 3:21)」で、一方で、人は死後、獣と違い神により裁かれるといわれています。

最後に、人は仕事によって楽しみを得ることが最も幸福であり、それは神から人へのプレゼントである、ということを学びました。私は農作業を日々追われながら黙々とやっていましたが、これからは、神に与えられた日々を感謝しながら、多収穫を楽しみにして農作業をやっていきたいと思いました。「人が自分のわざにまさる幸いはないことを。それが人の受ける分であるからだ。(コヘレトの言葉3:22)」。       

                             K.K兄