2023年2月12日日曜日

2023.1.8 牧師室便り

 ~ 行いを息とする一年を ~

「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。(ヤコブの手紙2:26)」

 2023年1月号のリビングライフのテキストはヤコブの手紙です。私としては昨今の世界情勢を思うと、本当にふさわしいテキストであると思います。とりわけ世界中のキリスト教会とキリスト者に向けて問いかけているヤコブの言葉に心打たれながら、少しでも生活に変化をもたらすことができればと願っているところです。

ヤコブは、信仰を評価する基準をあえて「行いにある」と教えます。信仰にふさわしい行いが伴うことによって、その信仰は真実なものとして証明されるのだと言っているのです。口では「信じます」と言いながら行いが伴わないなら、あるいは口では信仰を告白していながら、その信仰を否定するような行いをするならば、その人の信仰は偽物かもしれない。さらにヤコブは「行いのない信仰を死んだものである」とまで断言していることが分かります。このことは歴史の中で多くの人を悩ませてきましたし、今現代の多くのキリスト者にかなり大きな負担となっていることでしょう。

信仰は、知的な側面と感情的な側面、さらに意志の決断によって行動に移す側面までを含んでいます。この三つが三位一体となった信仰者が成熟したキリスト者と言えるでしょう。多くの場合、私たちは知的、感情的同意までは簡単に進みます。ところが、知的、感情的に同意したことを行動に移すことを苦手としているという限界をもっています。…福音書の中で、主イエスに出会った金持ちの青年が、御言葉を聞いて納得し感動するわけですが、「あなたが持っている物を売り払い、貧しい人々に施してから従いなさい。」と決断を迫られると、彼は主イエスから離れてしまうという悲しい物語が思い出されます。この金持ちの青年の姿こそ、現代のキリスト者の共通した弱さではないでしょうか。

 ヤコブは行いを「魂」にたとえ、「魂がない肉体は死んだものである」と告げることで、私たちの信仰の核心を示します。すなわち、信仰という知的、感情的同意という「肉体」に、行いという「魂、息」が伴うことによって、私たちは初めて生きる者とされることを心と生活に刻まなければなりません。礼拝も、祈りも、奉仕も、献金も、施しも、平和も、正義も、すべて行いが伴わなければ成し得ないという単純な事実を確かめつつ、この一年、生きたキリスト者として、肉体も、魂も健康を取り戻す神の家族お一人おひとりでありますように…。シャローム!


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