2019年11月12日火曜日

2019.11.10 牧師室便り

~天国への希望を生きる~

「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピの信徒へ手紙320

先週の月曜日、N姉の葬儀を執り行い、御親族の方々とともに恵みのうちに時を過ごすことができました。この数か月間、見舞いに行って祈る度に「アーメン」と素直に応答されていた姉妹でしたので、福音への信仰告白こそ確認できませんでしたが、永遠の命と神の国の祝福が注がれることを信じながら葬儀を執り行うことができました。真心から葬儀に集われたご親族お一人お一人の上に真の神への信仰の種が芽生えるように、また真の神の前に立ち帰って来られる方が起こされるようにとN姉と共に切に願い求めたひと時でした。
そしてN姉の葬儀の準備につとめていた先週の主日の夜、G兄からメールがありました。「先生、インドネシアの父親が心臓の血栓で緊急入院しました。お祈りください」という内容でした。G兄のお父さんはインドネシアのバプテスト教会の牧師で、私と同じ年代でもあることを聞いていたので、早速主の癒しと助けを祈りました。ところが、次の日の夜、G兄から再びメールが届きました。「先生、お父さんが亡くなりました」という知らせでした。あまりにも突然の知らせだったので、驚きながらG兄に電話をかけ、悲しみに包まれていたG兄のために祈ってあげました。その時、泣きながらG兄は「大丈夫です。お父さんはイエス様と共に天国にいますから!」と語ってくれたのです。そして、6日(水)12時にG兄のお父様の葬儀がインドネシアの教会で執り行われ、G兄とY姉が小泉町教会の礼拝堂に来て、映像通話を利用して葬儀を共にすることができました。あまりにも突然のことだったので、インドネシアに戻ることはできませんでしたが、映像で共に葬儀に加われたことはG兄に小さな慰めとなったでしょう。
願わくは、G兄にとって小泉町教会が日本における家となり、家族となりますように。また復活と永遠の神の国への信仰を確かめる神の家族お一人お一人でありますように…。シャローム!


2019.11.10 小さな泉の恵み




 前々から年令のせいか筋肉が弱くなってきているのが自分で感じる。 最寄りの駅まで何とか懸命に歩くが、だんだん歩くのが、遅くなり、雨天の時などは大変である。若い息子夫婦に来るまで駅までお願いということもなかなか言いにくい事。
 以前は雨衣を着て自転車で山から降りて、駅まで行ったことも何度もあったが…。今は、身体は思うように動かないのである。
  息子の勤めもあり、四年前から、自動車メーカの作った高齢者用の車椅子にバッテーリの付いているシニア車を購入。しかしこれは、大きな雨や雪積の場合は、機能を果たすことは出来ないのである。でも晴天の日にはこれに乗ってゆっくり散歩する日は、真に最高の時である。ラーラララ気分最高。
  いつも週末の天気の様子は心配である。それが今年は週末の天気の様子は、乱れる日が多い。日曜日の朝早くいつも空を見上げては、少しの小降りや、晴れ間を何とか、見つけて駅まで行きたいと思っております。
  何とか駅にたどり着いた時は、ホーット一息。一週間ぶりに逢う兄弟姉妹の姿を見るのが私の励ましです。
  いつも見る、信友の姿が見えないときは、何となく寂しい感じ…。でも兄弟姉妹は互いに自分たちの生活や身近な家庭、私場などで、主の証しをしているのだと信じております。
                                  A.M姉

2019.11.3 牧師室便り

~健康診断の恵み~

「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。」(ヨハネの手紙三2節) 
 先週は、後回しにしていた健康診断を二年ぶりに受けました。やっぱり胃カメラをのむことは辛いことですね。
 一生涯一度も健康診断を受けない人もいれば、真面目に毎年受ける人もいます。私もできれば、毎年受けたいと思っていながらも、なかなか余裕がなく見過ごしてしまう年もありました。それでも心の底には体の健康をチェックし、神の御業のために備えなければ!という思いを抱いています。
 実は先日、韓国の友人から「済州道の母教会の先輩に突然胃癌が見つかり、治療を受けている」という知らせが届きました。話によると、その先輩は60才になるまで一度も健康診断を受けたことがなかったそうです。そして体調を崩し、初めての病院での検査で胃癌3期という診断が出され、今は治療に専念しているとのことでした。その先輩は人柄もよく、信仰においても模範となる人でした。教会でも長老として柱のような存在でありました。病状が分かった時はかなりショックを受けていたそうです。遠く離れていて直接励ますことはできませんが、主の癒しと助けを祈ります。 
 病気が見つかるかも知れないことを恐れ健康診断を受けない人もいると聞いていますが、神の家族の皆さんは、ぜひ診断を受けてくださいね。私たちの体は私たちのものではありません。神のものですし、聖霊の神殿なのです。つまり、神から授かった体を大切に管理し、神の栄光のために用いなければなりません。それが私たち造られた者の創造者への義務であって、責任なのです。とりわけ、外なる人(肉体)は日々衰えていくことが定まっているわけですから、体調管理に心がけるべきです。私も今回の健康診断とともに、規則的な運動と健康な食生活、時間のバランスなどに最善を尽くそうと思っています。…それに加え、霊的健康診断も忘れてはならないでしょう。神を礼拝し、祈り、讃美し、御言葉の黙想、善い行い、伝道に喜びと感謝をもって励んでいるだろうか。常に聖霊様の前に裸になって点検していただきましょう。願わくは霊肉共に健康である神の家族お一人お一人でありますように…。シャローム!
 







2019.11.3 本日の宣教


『 死んで葬られた主イエス 』 (ローマの信徒への手紙5:68) 

 使徒信条は主イエスが十字架にかかり死んで葬られた事実をはっきりと告白しています。神のひとり子であり、私たちの救いの主であるイエス・キリストが十字架につけられ死んだことを美化しようとしたり、隠そうとしたりせず、明確に宣言しているのです。しかも呪いの木である十字架にかかり、確かに死なれたんだ、と告げているのです。なぜでしょうか。これこそ、キリスト教の福音の核心であるからです。“イエス・キリストが十字架にかけられ死んだ!”…この言葉は2千年近く昔の事でした。しかし、彼の死は、人類の歴史の中で二千年間、多くの人に大きな影響を与え続けてきましたし、今の私たちをも圧倒的な影響力で包んでくれているのです。そして、このことは歴史が続く限り、続いていくに違いありません。 
 主イエスの死、それは一人の人間の死でした。それでは、人間にとって死とは何でしょうか。聖書が語る死は「罪が支払う報酬は死」(ローマ623)という言葉にすべてが示されていると言えます。もともと聖書に見られる死についての最初の言及は、アダムとエバが神との契約を破った時に裁かれた状態を指します。その時、人間は死に、またその後の人類に死がもたらされることになりました。神の形に似せて創造され、創造された者のうち、神と交われる唯一の存在となり、神の栄光を表しながら生きる存在としての人間でしたが、神に背いた罪により、神との関係が絶たれ、神のエデンの園から追放されることとなり、死がもたらされたのです。この時の死を「霊的な死」と言います。もちろん、この時点で呼吸が止まったわけでも、見える形の死が訪れたわけでもなく、体はなお生き続けていました。しかしこの時点で、罪が支払う報酬としての死はすでに始まったのです。すなわち綺麗な生花がその根から切られているのと同じように、見た目は綺麗に生きているように見えても、実際は根から切られた瞬間、すでに死んでいるのと同じです。同じく、霊的に死んだままの人間は生花が徐々に枯れていくように、肉体的にも徐々に衰えていき、やがて死を迎えることになるのです。ですから、アダムの子孫である私たちも死んだ者として生まれ、死の宣告を受けた者として、死に近づく人生を歩むことになるのです。この死の定めから逃れられる人は一人もいません。 
 しかし聖書は死についての新しい観点を示してくれます。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」(ヨハネ黙示録1413)、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)
  主イエスは十字架の死によって人間の罪を贖われ、人間に下されるはずであった死を無効にし、死そのものに死亡宣告を下されました。それゆえ、もはや死は主イエスを信じる人にとって恐れの対象でもなく、敵対すべき存在でもありません。十字架につけられ、死に打ち勝った主イエスによって私たちも永遠に生きる者とされたのです。ハレルヤ!「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。 」(フィリピ121



2019.11.3 小さな泉の恵み



  史上最大級の台風19号が日本列島の広範囲に甚大な被害をもたらしました。被災された方々に主の哀れみと励ましを祈っています。S兄が携わっている長野県の賛育会豊野事業所の多くの施設も水没し大変な被害にみまわれています。施設の復旧のみならず地域の復興、救援に尽力しているS兄や全ての皆様を主が強め力を与えて下さるように祈っております。

台風や大雨の関連で俄に信じられないニュースがありました。東京消防庁のヘリコプターから救助中の女性が落下して死亡。原因は救助装置のフックをワイヤにかけ忘れたとのこと。この事を聞き、死亡した女性が「救い」を得ておられたのかを思い更に私たちクリスチャンが神様から命綱を周りの方々に薦める使命を与えられているということを改めて感じました。主イエスに繋がる命綱です。


  ゛イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」"(ヨハネによる福音書11:2526) …主の日も私たち個人の終末も神様以外誰にも分かりません。終わりの日が来る前に愛する者たちが「救い」を得ますように。主の栄光が永遠にありますように。
                                   S.Y兄
 

2019.10.27 牧師室便り

500501502、…そして60

「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」(詩編1032 
 今から2年前の2017年、日本のプロテスタント教会と信徒たちは宗教改革500周年を迎えて様々なイベントで盛り上がっていました。特別出版物、コンサート、展示会、セミナーなど、数えきれないほどのイベントが全国各地で行われていたことを覚えています。しかし、501周年であった昨年、502周年である今年、宗教改革という言葉がだんだんと聞こえなくなってきているような気がしてなりません。恐らく503周年になる来年にはもっと寂しくなるでしょう。 
 命をかけて「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」という三大原則を貫き通した宗教改革者たちのことを思うこの季節ですが、彼らを燃やし宗教改革へと一直線に走らせた信仰は時間と共に忘れられるものでしょうか。彼らも現代の私たちのように徐々に冷めていき、信仰の喜びも、感動も失われていたでしょうか。いいえ、決してそうではありませんでした。宗教改革者のほとんどは命の尽きる日まで福音を携え、信仰の戦いを続けたことを歴史が教えています。なぜ、そのような歩みができたでしょうか。もし、彼らの働きの土台が人間の力や頑張りであったならば、途中であきらめてしまったはずです。彼らを動かしてくれた土台、その力こそが、聖霊による使命、聖霊による導きと働きであったからです。それは主イエスにも、使徒パウロにも見られる姿です。そして今の私たちにも求められる姿なのです。 
 私たち小泉町教会は来年の2020年で伝道開始60周年を迎えます。教会の歴史の中で記念すべき年であります。神の家族の皆さんはどのような思いで60周年を迎えようとしていますか。日々の忙しさのゆえにそれを考える暇などないと思われる方はいませんか。60年前、富山の地に福音の種が蒔かれた時の伝道者の熱情と献身への思いに対し、60周年を迎えた私たちの伝道への情熱と献身への思いの一致を見出したいと願いたいものです。 
 宗教改革を記念するこの季節、小泉町教会のお一人お一人が「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」の信仰の原則の上にしっかり立ちつつ、宗教改革の御業を成し遂げた改革者たちに倣い、聖霊の助けと導きをいただき、福音伝道と健康な教会形成に励んでまいりましょう。シャローム!











2019.10.27 本日の宣教


『 バプテスマを考える 』 ローマの信徒への手紙6:114)
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(6:8)  
 “キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなる”という信仰告白は、キリスト教の核心であります。 これは、終末(死後)における復活に限定されず、今、この世における生において、キリストの復活の命に与ることの確かさを示す言葉です。このことを象徴的に表すのが、バプテスマ式なのです。バプテスマとは、ギリシャ語で、「全身を水に浸す、沈める」という意味です。これは、自己中心に生きていた古い自分が、十字架にかけられたキリストと共に死んで葬られ、死に打ち勝ち復活されたキリストと共に新しくされ、新しい命に生きることを証しするキリスト教会における大切な礼典です。ですから、バプテスマとは、厳密に言えばその人の葬儀であって、同時に復活祭となるのです。 
 聖書は、人の誕生には二種類あり、死にも二種類あると教えます。まず、人間の誕生には、母の胎から、赤ん坊として生まれるのが“、第一の誕生”です。しかし、この生命には限りがあります。人はある年齢までは成長していきますが、それ以後は次第に老化し、ついには死に至るのです。そして、“第二の誕生”は、神のお与えになる「永遠の命」への誕生、新しい霊的身分による誕生のことです。すなわち、「永遠の命」と呼ばれる、朽ちない、無限の生命が存在するのです。 
 聖書はまた、死にも二種類あると述べています。“第一の死”は、肉体と魂の分離です。肉体の機能が停止し、魂が離れ去る時、それが第一の死です(創世35:18)。“第二の死”は、生命の根源なる、神の恵みからの完全な断絶を意味します。(ヨハネ黙示録201115)つまり、聖書が教える誕生と死において、二度生まれた者は、二度死ぬことはありません。二度生まれた者は、一度死ぬのです。そして、一度生まれた者は、二度死ぬことになるのです。 
 イエス・キリストの十字架の死によって罪赦されたことを信じ、神の子という新しい身分となった者は、罪の奴隷として生きてきた過去の自分を恥ずかしく思い、新しく生まれたものとして、神の義と神の栄光のために、自分自身を献げる人生を選ぶことになります。これは、誰かによる強制でも、義務でもありません。神の一方的な恵みが、その人の心と魂を感動で満たし、聖霊が神の救いの御業へ 
導くことによって起きる出来事であるからです。 
 今、あなたを動かしている力は何でしょうか。今日もわたしたちは、あれこれと成すべき事、決心すべきことで溢れています。しかし、何よりもまず、キリストと共に死に、キリスト共に生きることを心がけ、すべてのことにおいて、神の子どもとしてふさわしい歩みを選び、神の栄光を表わしながら生きることでしょう。ハレルヤ!





2019.10.27 小さな泉の恵み



 先日、17回目のバプテスマ記念日を迎えるにあたり、自身の信仰生活を振り返る機会が与えられました。するとそこには、自分の信仰を保つことに汲々とし、他者に福音を伝える余裕が全く無かった自分の姿が見えてきました。その現実にショックを覚え、自分の信仰の原点を探ろうと、つらつらと御言葉を読み進めていきました。すると、以下に節が目に留まりました。
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ524
   滅びる他ない罪深い私が、死から命へと移されているとは何という恵みなのでしょう。神の子である清いイエス様が、私の罪を帳消しにするために肉体を裂いて十字架に掛かって下さるとは、何と大きな愛なのでしょう。イエス様の言葉を信じるなら、永遠の命を得られるとは、何と素晴らしい約束なのでしょう。こんなに大きな希望を頂いていながら、それをまるで当たり前のことのように考え過ごしてきた自分を反省させられました。これからは、救われた喜びを、少しでも周囲の方々に伝えられる器として成長していきたいと願っております。
                     A.T姉

2019.10.20 牧師室便り

~命より大切な物はありません~

畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。わたしはあなたたちの神、主である。」(レビ記2322 大型台風19号が残した歴史的な爪痕の大きさのゆえに、悲しみを覚えていた先週でした。多くの川が氾濫し、多くの地域の方々が浸水の被害に遭われ、苦しい時を過ごしています。100年に一度と言われている大きな台風でしたので、自然の圧倒的な力の前で、小さく怯えてしまう人間の弱さを悟らされる時でしたね。主の慰めの御手が災害に遭われた方々を、包んでくださいますように…。 台風の中での様々な被害や出来事の中で、考えさせられる3つの出来事がありました。まずは、東京の台東区で、路上生活をしていた二人のホームレスの方が、台風の最中、台東区の住民表をもっていなかったという理由で、避難所への受け入れを拒否されてしまったということでした。避難所を後にしていた二人が感じただろう思いは、どのようなものだったでしょうか。また、多摩川の河川敷で、同じく路上生活者とみられる70代くらいの男性の遺体が見つかったというニュースも耳にしました。こういう災難の時に真っ先に疎外されてしまう存在は、社会的弱者であることに悲しさを覚えるのです。それから、富山駅の駅北の工事のために、駅北の地下で路上生活をしていた方々の居場所がなくなるという知らせもありました。そのために、今まで駅北で食事配給の奉仕をしていた方々が、これからのことをどうすべきかと悩んでいるとの話を聞いています。主イエスは、これらのことをご覧になりどう言われるでしょうか。
  聖書は、人の命に勝るものはないことを教えます。その中でも、貧しく弱い者への社会的責任を果たすことを命じておられます。とりわけ、ライフライン(水道、電気、ガス)を切ることがあってはならないのです。民の安全と福祉のために存在するのが国であることを、忘れてはなりません。愛なる神の御目は、疎外され、悲しい涙を流している人々に向けられていることを覚えましょう。“御心の天になるごとく、地にも成させたまえ”


2019.10.20 本日の宣教


嘆きの谷が命の泉に 』(詩編8418) 
 「いかに幸いなことでしょう、あなたによって勇気を出し心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、 そこを泉とするでしょう。」(詩編846-7
 イスラエルの歴史は、涙と苦難の歴史であると言えましょう。神に選ばれた民、祝福の民としての誇りをもっていながらも、苦難からは逃れられませんでした。詩編84編は、国が滅ぼされ、捕虜として連れ去られた異国の地でコラの子たちが歌った歌が、「シオンの歌」です。コラの子たちは、神を礼拝するために選ばれたレビ族で、神殿で讃美の務めを担っていました。神の都シオンを夢見ていたコラの子たちは、詩を書き、巡礼の旅に出かけ、夢に描いていたエルサレム神殿を上りながら、感動の涙と喜びの讃美、神様との交わりを歌にしたのです。 詩人は、神を「万軍の主、わたしの王、わたしの神」と呼びます。この告白には、神だけが自分をこの苦しい状況から解放し、自由にすることのできるお方であるという信仰が込められています。詩人の言葉の中で、目を引く表現は、「鳥、またつばめ」をうらやむという告白でしょう。神の民にとって、神の宮は神が臨在する場所であって、生きている神と交わる家です。そのことをよく知っていた詩人は、神の宮を慕い、その家にいつまでも住みたいという望みを鳥たちにたとえて証ししているのです。その通り、主の宮に進み出、神に礼拝する者は幸いです。 しかし、神の宮を愛し、神を礼拝する人も、時には「嘆きの谷」を通るような経験をします。神を信じているから、また、神の宮を愛するから苦しみや、嘆きの場面がないことはありません。「嘆きの谷」とは、原語は「ハバハの谷」で、ハバハとは「涙」という意味です。すなわち嘆きの涙を流しながら通る谷になります。実際には、シオンの神の家に行く途中にある谷を指すと言われています。神を礼拝するために旅する巡礼者に、渇きと苦しみを与える嘆きの涙の状況が訪れます。しかし神は、その渇いた「嘆きの谷」さえも「泉の湧き出る場所」に変えてくださるのです。そうです。神を愛し、神を礼拝する幸いに生きる人たちは、苦しい嘆きの谷を通るような状況であっても、神からの泉を見出し、いよいよ力を増して礼拝の場に進み出るようになるのです。
私たちも避けられない苦難に遭う時があります。望まなくても、嘆きや悲しみを抱いたまま歩み続けなければならないことがあります。しかし、私たちは詩人の言葉のように、「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とする」神の恵みを味わうことになるでしょう。どんな苦難の中にあっても、神に信頼し神を礼拝する人は、どのような苦難をも受け止める力、万事を益に変える神の約束と働きを信じ、喜んで待ち望むことができるはずです。今こそ、大変な災害と苦難に遭っている人を神の宮に導き、彼らの涙を拭い取ってくださり、命と希望の泉を与えてくださる神を紹介すべき時でしょう。嘆きの涙を流す谷から潤いの泉が湧き出る真の幸いを、伝えてあげたいものです。ハレルヤ!




2019.10.20 小さな泉の恵み



 「インドネシア便り」
   
 皆さんお久しぶりです。いつも小泉町教会の兄弟姉妹の祈りに支えられており感謝です。さて、私たち家族は来年1月末に日本に帰国する決断をしました。インドネシアでの生活も残り3か月です。 こちらの礼拝に参加して思うことがあります。小泉町教会の多国籍な礼拝や多言語礼拝っていいなって。私たちが通う教会はジャワ教会なので礼拝が全てジャワ語で行われます。なんでジャワ語わからないのにジャワ教会に通ってるんだよーって毎回思うのですが、知り合いも多いので思わず行ってしまいます。人数が多いでの顔見知り程度の方が多いのですが、多くの方が「日本人のお姉さん!」や「日本人の子供たち!」と私たちを呼びます。これ、地味に悲しいです。輪の中に入れてもらえてないなーって。
 小泉町教会の兄弟姉妹はどうでしょうか。愛さん、りゃんさん、メイさん皆さん名前で呼び合っていますよね。当たり前だと思っていたことが恵まれたことだったのだと気づきました。閔先生や執事の方々が外国人も参加しやすい礼拝を一生懸命作って下さっている事を痛感しております。帰国後は私も小泉町教会の素晴らしさにプラスを与えられるようになれますように!またよろしくお願いします。


                        I.A姉

2019.10.13 牧師室便り

~本物と偽物の見分け方~

 私たちは度々、にせブランド品を作って商売していた業者が捕まるというニュースを耳にすることがあります。人々は有名ブランド品を好み、大金を払ってでも手に入れようとします。街を歩く人々が手にしている有名ブランドのカバンのうち、本物は何パーセントでしょうか。100%本物だと言えましょうか。確かに言えるのは、その中にはにせ物もあるということでしょう。ある牧師先生から、にせ物を手にしている人と本物を手にしている人の行動には次のような傾向が見られると教えられました。その見分け方を紹介しますと、
 「まず、雨が降る時、カバンで頭を覆って走れば、それはにせ物で、胸に抱いて走ればそれは本物だそうです。また、カバンをどこにでも置くならそれはにせ物であり、いつも手から離さずにいれば本物だそうです。」ということでした。その話を初めて聞いたとき、大いに笑ったことを覚えています。…しかし、ここで一つ考えるべき問題があります。ある人が本物だと信じて大金を払って有名ブランドのカバンを買って、それ以来、ずっと本物だと思って大事にしていたのに、後に、それがにせ物だと分かった時の失望と衝撃は言葉では言い表せないほどのものでしょうね。
 私たちの生きている日本社会において、人々が命をかけてまで手にしようとするものがあります。権力、名誉、知識、財産、人間関係などなど・・・。しかし、それらは私たちが命をかけるほど、持ち物をすべて注ぎ尽すほどの本物でしょうか。時間が経って、状況が変わっていても変わらないもの、それが本物でかけがえのないものなのです。聖書は幸せをもたらし、この世のものをすべて集めても買うことのできない本物があると教えます。時間が経っても、状況が変わっても決して変わることのない本物こそ、イエス・キリストであって、キリストの愛がそれです。あなたが手にしたいブランド品はありますか。それを得るためにあなたは命をかけ、大金を払う心の備えができていますか。神の家族の皆さん、あなたの命と幸せをもたらす本物、あなたがすべてを尽くしても惜しまない本物、それがイエス・キリストです。イエス・キリストはあなたと私を得るため、命を捨て、すべてを注ぎ尽くされました。それでは、あなたは本物のイエス・キリストのために何をしていますか。本物のイエス・キリストのために何ができますか。シャローム!

2019.10.13 本日の宣教

『 十字架につけられ 』 (イザヤ5345、Ⅰコリント1:1825) 本日は、使徒信条のクライマックスとも言える「十字架につけられ」という告白を分かち合いたいと思います。
 神の独り子が私たち罪人の罪と死の呪いのために十字架につけられ、成し遂げられた贖いの御業こそ、福音の中の福音です。そのことをパウロは次のように語ります。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Ⅰコリント1:18)…十字架が語る言葉こそ福音であり、その十字架につけられたキリストを伝えるのが、救われた者のなすべきことなのです。
 十字架刑の由来はペルシャ帝国にまで遡ります。その後、カルタゴを経てローマに至ったものと言われています。十字架刑に処せられるのは重罪を犯した罪人や政治犯であって、刑罰の中でも最も過酷な極刑でありましたし、同時に裸のままかけられるという最も恥ずべき屈辱的な刑罰でもありました。その十字架刑の過酷さは、何と言っても致命傷を与えないまま、長時間十字架にかけられた状態で放置され死なせていくことにあります。度々、獣たちの餌食にされる悲惨なこともあったと言われています。主イエスはその十字架に両手両足を釘打たれて6時間ほど、耐えられない痛みと恐れ、苦しみの中で、人間としての肉体的な苦しみの極限を味わわれたのです。
 しかし、使徒信条は、十字架の生々しい苦しみの姿については詳しく記していません。「パッション」という映画で観たような、人々から嘲られ、鞭打たれ、その他の数々の屈辱的な仕打ちについて、何も語っていません。ただ淡々と主イエスが「苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られた」という主イエス・キリストの救いの御業を表すことに徹しています。恐らく、初代教会当時の人々にとって、十字架の悲惨さを知らない人はいなかったことでしょう。だから、たったの一言「十字架につけられ」で、主イエスキリストの十字架の苦しみと死を表せるとの共感が、初代教会の皆にはあったのではないかと思われます。
 ユダヤ人たちにとって十字架にかけられるということは、「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。」(申命記21:23の申命記の言葉にあるように、神に呪われることだという理解がありました。すなわち、罪のない神の独り子が木にかけられたことによって、その意味が全く変わるようになったわけです。十字架にかけられた神の独り子が、忌まわしい犯罪人のようになって、神の呪いをすべてご自身の身に背負い、贖って下さった。だから主イエスがつけられた十字架は、呪いの象徴から神の赦しと愛、救いの象徴に変えられたのだ!という証しだったのです。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5)…本来、罪人の私たちに下るべき神の呪いが、すべて十字架の主イエスの上に下され、主イエスが呪われた者となってくださったのです。主イエスのつけられた十字架に、神の怒りと呪いは満たされ、もはや私たちに神の怒りと呪いが下ることはないのです。そうです。もはや主イエス・キリストの十字架のゆえに、あなたと私の罪と死の刑罰は帳消しにされ、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える者となったのです。ハレルヤ!

2019.10.13 小さな泉の恵み



~教会は私の家~
こんにちは!わたしは相変わらず、働きながら看護学生してます。テスト、宿題に追われる毎日なんですが、なかなか自宅では落ちついて勉強することができません。以前、どうしても提出期限のある宿題を抱えていて、教会の集会室で勉強した時がありました。そのとき不思議なことが起こりました。なんと勉強がとても「はかどる」んです!!
  その驚きと喜びを牧師に伝えました。牧師は共によろこんでくださり、「ここはあなたの家だからいつでもここに来て勉強してください」と言ってくださいました。
  そこでわたしは、テスト前、何回か多目的室が空いているときに夜、勉強するために行きました。そのどの時もいつもの自分以上のちからで勉強することができました。
  小泉町教会の七不思議だと思いました!!!そして不思議現象の理由を考えてみました。
  ①教会は静かである
  ②牧師がなんとなく見張っている
  ③勉強前にイエス様に祈る
  自宅やその他の場所で勉強するときは、その時間は生活の中の一部で、勉強の前に祈ることはないんです。でも教会に来て勉強するときは、祈ってから勉強を行います。いつもなら勉強の途中にふとスマホなど触って散漫になっしまうものが、誘惑から守られて、スマホの存在を忘れて集中することができました。
  わたしは弱い人間です。普段の生活のなかでは祈ることを忘れてしまうことがたくさんあります。そんなと 
 き、教会にきて、一息ついて祈ること。自分には家(教会)があること。それがとても嬉しく、心強いと感
 じた体験でした。
                                            A.M姉

2019.10.6 牧師室便り

~路傍伝道の恵みと力~
 「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。」(コヘレト11:1 先週は3人の兄弟が富山駅での路傍伝道に出かけました。最近、いろいろと忙しいこともあって、少人数だけが路傍伝道に参加しました。富山駅に車を駐車してから、祈りを合わせ、聖書を配るために分かれます。数年前からの小泉町教会の路傍伝道は一般的な路傍伝道とは少し変わったやり方で行っています。長時間をかけて、また持っていた聖書やチラシを全部配るまで行っていたことから、各自5冊の聖書を15分という時間を決めて配るようにしています。その理由は、伝道することを負担に思わないで楽しさを味わってもらうためでした。そんな中、全員が配り終え、喜びと達成感に満ちて帰ってくる時もあれば、時には通りすがりの方々に受け取ってもらえず、多くの聖書を残したまま寂しく教会に戻る時もあります。しかし、参加される神の家族が、主イエスも人々から拒まれたことを心に刻みつつ、神の愛を知らない人々に良い知らせ(Good news)を伝えることを喜び楽しんでもらいたいと願います。 先週も全部配ることができず、少し残したまま帰ってきて休んでいた時でした。“ピンポン~”教会の玄関のベルが鳴りました。“すみません。この聖書この教会のものでしょうか。”と、ある青年が教会を訪ねたのです。その青年の話によると、富山駅のあるところに聖書と教会案内が落ちていたので、ちょうどお宅がの小泉町教会の近くだったので、届けにきたということでした。そして最後に語った彼の言葉は、“小泉町教会を通る度に、いつも賑やかで熱心に動いている姿を覚えている“ということでした。その青年の優しさと心配りに感動し、感謝を表してから彼に聖書をプレゼントし、ぜひ教会の礼拝や諸集会に来てほしいという言葉をかけて見送りました。その時心に響く思いがありました。 ”あ、誰かが私たちの姿を見ている。また聖書を配ることは無駄ではなく、必ず届けられている。“と。…神の家族の皆さんが、ぜひ教会生活を楽しみ、信仰する喜びを忘れないように、また聖書は必ず人の手に届けられ働いてくれることを信じ、熱心に配り続けたいですね。シャローム!
 

 
 

 
 


2019.10.6 本日の宣教

『ピラトのもとで苦しみを受けられたイエス』 (ルカによる福音書23:1325) 
 使徒信条の中には、主イエス以外に、二人の名前が登場します。主イエスの母マリア、そして十字架刑を下したピラトです。「おとめマリア」はイエスの誕生に直接かかわった女、そして「ポンティオ・ピラト」はイエスの死に最終的な役割を負わされた男、この二人は、人となられた主イエスの生と死という、大切な出来事に深く関わっています。 興味深いことは、使徒信条は、イエスの処女降誕による受肉の信仰告白の後、すぐに受難の事柄に移っているということです。その間の30年余の生涯については触れていません。なぜでしょうか。もちろん、主イエスの全生涯について触れることは素晴らしいことでしょう。しかし、神の独り子、救い主としての働きの中心の御業こそ、十字架による贖いと救いの業にあるでしょう。だからでしょうか。使徒信条では、「苦しみを受け」という言葉によって、キリストの地上での全生涯を表わそうとしたのではないかと思います。主イエスは確かに十字架刑で苦しみを受けられました。しかし彼の苦しみは、十字架という人生の終わりの時だけではありませんでした。飼い葉桶での誕生から、エジプトへの避難、父ヨセフを亡くしてから大工として家を支えていた時期、また荒野での誘惑、…「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタイ8:20)と言われたことを思うと、主イエスの全生涯が受難であって、それが「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け」という言葉に含まれていると言えましょう。 
 さて、ポンティオ・ピラトは、主イエスの公生涯当時ローマ帝国の支配下にあったパレスチナに、ローマ皇帝から派遣されていた総督でした。使徒信条はこのピラトの決定によって、主イエスが十字架につけられたことを明かしています。すなわち、総督ピラトの名前を出すことによって、主イエスの生涯と十字架が、確かな「歴史的」な出来事であって、ただの信仰の領域にとどめようとする試みからではなく確かな歴史性をもたらしてくれる役割を果たしています。  またピラトは、イエスの無罪を主張しつづけ、釈放のために働きかけましたが、結果としては十字架刑の判決を下すことになります。彼は、宗教指導者たちとそれに影響された群衆の『十字架につけろ』という執拗な要求に妥協してしまったのです。無罪のイエスに十字架刑を下しながら、自分には何の責任もないと手を洗い、責任逃れをしようとするピラトを、初代教会の使徒たちは、主イエスを十字架につけた罪人の代表としているのです。「事実、この都でポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。」(使徒4:2728)…罪なきお方が、有罪者のごとく扱われ十字架刑にされた、ここに、身代わりとして神から裁かれた贖いの主の姿を見ることができます。
 イエスが無罪であることを知っていながら、ユダヤ人の要求や政治的な益を優先し、十字架刑に引き渡したピラト。彼の名は使徒信条に記され、主イエスに苦しみを与え十字架で殺した人として世々覚えられるようになりました。そのピラトのように、今日も主イエスを様々な苦難や理由のゆえに十字架に引き渡してしまう人々がいます。その中に私とあなたはいませんか。今、ピラトは私たちに尋ねているかもしれません。“あなたはどっちを選ぶ?”と。

2019.10.6 小さな泉の恵み



「ファイヤー!」
  小泉町教会を離れて8ヶ月ですが、オンラインで学びに参加させていただいたり、SNSやメールで結ばれていることを感謝します。そして、教会の様子を写真で送信していただくのを見るのがとても嬉しいです。 
 特に5月のバーベキューの写真。はじめての太閤山チャレンジでは?もうすでにかなり暑い日でしたがお肉を召し上がるみなさんの、前の日バザーをやったとは思えない元気な様子に感動して、涙出ちゃいました。
 そして9月の北陸交流会のキャンプファイヤー。これもはじめての立山チャレンジですね。送ってもらった写真には炎と人影しか写ってないはずなのに、説明不能なパワーを感じて「うわーこれが小泉町教会だよ」と思ってしまいました。7月にわたしもお訪ねしたキャンプでは「雨のキャンドルサービスもいいな」と思いましたけど、やっぱり小泉町教会は「ファイヤー!」ですよ。
 行事をやってるからパワフルというのじゃなくて、主を喜ぶパワーが行事に満ち溢れていると見ます。富山小泉町キリスト教会の証人としてみなさんの良い熱い業を証しする役割をいただいたことを、改めて主に感謝します。
                                      S.M姉

2019.9.29 本日の宣教

『苦難の時には主を呼ぼう』 (詩編12017) 
 人生の中で苦難に遭わない人は誰一人いません。その人がこの世においていかなる金持ちであっても、名誉や権力を持っている人であっても同じです。その中でもキリスト者の歩みはさらなる苦難の道であると言えましょう。聖書の御言葉はキリスト者の人生が神の御手の中に守られることを語りながら、苦難もつきものであることを教えます。すなわち苦難とは神の恵みを味わう通路であって、神の民を成長させる道具となるのです。 詩編120134編は「都に上る歌」という表題がつけられています。恐らく世界各地に散らばっていたディアスポラ・ユダヤ人たちがユダヤの祭りを守るためにエルサレム神殿に向かう巡礼の旅の時に歌われた歌とされています。生活は異国の地、礼拝者としてのアイデンティティーを忘れず、長い時間をかけて山を越え、川、砂漠、獣、強盗による命の危機を乗り越えながら、エルサレム神殿での礼拝を献てるため旅を続けていた巡礼者たちの信仰に心打たれます。
 特に、本日の120編の詩人は大変厳しい苦難の中にいることが分かります。その苦難があまりにも辛かったからでしょうか。詩人は今までの人生を振りかえながら、彼の人生の中で数多くあった苦難の度に、主を呼ばわっていたことを、そしてその度に主が答えてくださったことを思い起こします。「苦難の中から主を呼ぶと、主はわたしに答えてくださった。」(1節)…昔、何度も訪れていた苦難であったけれども、必ず主は私の祈りに答えてくださったのだ!だから今経験している苦難、偽りの唇と欺きの舌を持っている人々の手から主が守られ、彼らを裁かれることを信じ信仰の歌を歌っているのです(2節)。詩人の時代のみならず、今現代も変わらず、唇と舌から出てくる偽りの言葉と欺きによる暴力は、社会と個人の関係を壊してしまいます。とりわけ信頼していた人から受けた偽りと背信の傷はとても深く、生涯にかけて苦しめられるものです。神の家族の皆さんは信頼していた人による偽りと欺きの痛みを覚えたことはありませんか。実は、主イエスも愛する弟子たちより裏切られるという傷を負われたことを知っています。 そして詩人は、自分は平和を語り、平和を求めていたけれども、彼の周りには平和を憎み、戦いを好む人たちで囲まれていることを嘆きます(57節)。平和を語り、平和を作り出そうとすることは神の民の召命ですし、生き方です。主イエスも山上の説教で「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ59)と言われましたし、御自ら十字架の死によって真の平和を成就されました。それゆえ、現代を生きるキリスト者はすべての人と共に平和に暮らすことを、また平和を作り出すことを心がけなければならないのです。


 神の家族の皆さん、最近の世界情勢の中、偽りの唇、欺きの舌をもち、平和を憎み、戦いを語る人々への裁きは神の御手にゆだねつつ、私たちにできる平和を語り、平和を生きることです。私たちが主イエスからいただいた十字架の平和と愛にすがり、主を呼ぶと、主なる神は必ず答えてくださるはずです。今まで通りに!

2019.9.29 小さな泉の恵み




 「過去と他人は変えられないが、自分と未来は変えられる。自分が変わると他人も変わる可能性がある。」 今、私は交流分析士インストラクターの資格を目指しています。交流分析(略してTA)は、エリック・バーンという心理学者の対人関係を中心にした心理学の口語版とも云われている理論ですが、簡単に言えば、自分を知り、他者との関係やコミュニケーションのあり方を学び、人生をより良く生きるための知識と実践ともいえます。私が現在お手伝いしている社会福祉法人賛育会では、新人研修で従来から交流分析を取り入れています。この2年間、「看護にいかす交流分析」(白井孝子著)を中心に自分で学び、指導してきたのですが、限界を感じ、より深めるために日本交流分析協会の会員となりました。6月から交流分析士2級の研修を受講し、いよいよ土日の二日間かけて試験を受けます。今年中に1級まで目指し、来年はインストラクターの資格を得るつもりでいます。 交流分析は、自我状態、やりとり(対話)分析、ストローク(励ましなど心の栄養)、ディスカウント(自分・相手や状況判断の割引)、人生の立場(私はOKか?)、心理ゲーム(対話におけるわななど)、時間の構造化(過ごし方)、人生脚本という8つの考え方が相互に関連し合い成り立っています。私たちは、イエス様に出会い、救われたにもかかわらず、時に、自分自身を否定(not OK)し、また、他者を否定したりします。


  私たちキリスト者は、私はOK、あなたもOKという生き方を神様から与えられています。何故なら、神様 
 は全ての人が誰一人取り残されないことを切に願っているからです。
                                         S.S兄

2019.9.22 牧師室便り

~信仰のサビを取り除く~

 「かびが家屋の壁に広がっているならば、祭司は命じて、かびが生じている部分の石材を抜き取り、町の外にある汚れた場所に捨てさせ、…」(レビ14:3940

先週は、牧師館の給湯器の電源が消え、片方の壁のコンセントの電源が入らないということで、慌ただしく不便な時を過ごしました。教会の修理や営繕に関して自分の手でできるものは積極的に直してきたわけですが、電気関係、特に見えない配線などにはまったくの素人なので、業者の方に来てもらいました。電気プロの方は、早速ブレーカーや給湯器、コンセントなどを一目見てから、10分くらい経ったでしょうか。“直りましたよ!”という声が聞こえてきました。あまりにも簡単に“直った”という声を聞いたので、驚きながら彼の説明に耳を傾けました。“実は、ブレーカーのうち、一階のコンセントに電気を供給する部分がサビっていて、電気が流れなくなりました。”…早速サビ()がついた部分を取り除き、つなぎ部分の部品を交換することで修理を終えました。実は、「もしかして大工事になるのでは?」という不安もありましたが、あまりにも簡単に修理が終わったので、神に感謝の讃美をささげました。ハレルヤ!

その後、心の中に示された御心がありました。あなたがたは神様との関係において、「神の命と力が流れなくしてしまってはないのか、あなたの生活や心の見えないところが、サビってしまってないのか?」ということでした。外からは見えず、特に問題がないように見えても、実際、主イエスとの親しい関係を妨げ、主からの命と恵みの流れを切らせてしまったサビ(罪)はついてないでしょうか。興味深いことに、今月のリビングライフには建物に生じた「カビ」についてツァラアト(汚れた部分)と表現し、カビで汚れているものを取り除くことを命じています。サビは金属に生じるカビと言えましょう。目に見えない少しのサビが電気の流れを防ぎ、間違ったら火事になり家全体を滅ぼす恐れがあることを覚えつつ、常にイエス・キリストの十字架の血潮に心と魂のサビを取り除いていただき、命と恵みを流していただきましょう。

2019.9.22 小さな泉の恵み




 夏休みに韓国に帰国し、韓国のクリスチャン中高生の修養会に参加しました。
   韓国ではクリスチャン人口が多いため、教会やキリスト界宿泊施設も多く、信仰者のための修養会が頻繁に行われています。私が今回参加した修養会は、中一から高三までの数十人の学生が集い、三泊四日の日程で行われました。まるでライブ会場のような雰囲気の中で、聖書を探し黙想したり、何時間も立って賛美したり、聖霊の臨在と助けを求めたりする時を過ごしました。自分も声に出して罪を告白し、手をあげて祈りと讃美をささげ、参加した学生たちと互いに励まし、執り成すことができました。
   講師の先生はTVにも出演する有名な方で、自らが経験した青少年期の様々な傷や苦しんだことを証しし、青少年たちを慰め、信仰における勇気と確信、決断のメッセージを伝えてくれました。
   私が祈る中で何度も与えられた言葉が、「一つにしてください」というものでした。「イエス様、あなたと私を一つにしてください。私を無くしてあなただけにしてください。この人たちと一つにしてください。人と人を一つにし、平和の王国を来たらしてください。」という祈りの言葉でした。
   修養会の恵みを忘れずに、示された御言葉を心に刻んで、主と一致した神の国の民として、希望と使命をもって、これから歩んでいきたいです。
                                      M.J兄