2019年11月12日火曜日

2019.9.29 本日の宣教

『苦難の時には主を呼ぼう』 (詩編12017) 
 人生の中で苦難に遭わない人は誰一人いません。その人がこの世においていかなる金持ちであっても、名誉や権力を持っている人であっても同じです。その中でもキリスト者の歩みはさらなる苦難の道であると言えましょう。聖書の御言葉はキリスト者の人生が神の御手の中に守られることを語りながら、苦難もつきものであることを教えます。すなわち苦難とは神の恵みを味わう通路であって、神の民を成長させる道具となるのです。 詩編120134編は「都に上る歌」という表題がつけられています。恐らく世界各地に散らばっていたディアスポラ・ユダヤ人たちがユダヤの祭りを守るためにエルサレム神殿に向かう巡礼の旅の時に歌われた歌とされています。生活は異国の地、礼拝者としてのアイデンティティーを忘れず、長い時間をかけて山を越え、川、砂漠、獣、強盗による命の危機を乗り越えながら、エルサレム神殿での礼拝を献てるため旅を続けていた巡礼者たちの信仰に心打たれます。
 特に、本日の120編の詩人は大変厳しい苦難の中にいることが分かります。その苦難があまりにも辛かったからでしょうか。詩人は今までの人生を振りかえながら、彼の人生の中で数多くあった苦難の度に、主を呼ばわっていたことを、そしてその度に主が答えてくださったことを思い起こします。「苦難の中から主を呼ぶと、主はわたしに答えてくださった。」(1節)…昔、何度も訪れていた苦難であったけれども、必ず主は私の祈りに答えてくださったのだ!だから今経験している苦難、偽りの唇と欺きの舌を持っている人々の手から主が守られ、彼らを裁かれることを信じ信仰の歌を歌っているのです(2節)。詩人の時代のみならず、今現代も変わらず、唇と舌から出てくる偽りの言葉と欺きによる暴力は、社会と個人の関係を壊してしまいます。とりわけ信頼していた人から受けた偽りと背信の傷はとても深く、生涯にかけて苦しめられるものです。神の家族の皆さんは信頼していた人による偽りと欺きの痛みを覚えたことはありませんか。実は、主イエスも愛する弟子たちより裏切られるという傷を負われたことを知っています。 そして詩人は、自分は平和を語り、平和を求めていたけれども、彼の周りには平和を憎み、戦いを好む人たちで囲まれていることを嘆きます(57節)。平和を語り、平和を作り出そうとすることは神の民の召命ですし、生き方です。主イエスも山上の説教で「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ59)と言われましたし、御自ら十字架の死によって真の平和を成就されました。それゆえ、現代を生きるキリスト者はすべての人と共に平和に暮らすことを、また平和を作り出すことを心がけなければならないのです。


 神の家族の皆さん、最近の世界情勢の中、偽りの唇、欺きの舌をもち、平和を憎み、戦いを語る人々への裁きは神の御手にゆだねつつ、私たちにできる平和を語り、平和を生きることです。私たちが主イエスからいただいた十字架の平和と愛にすがり、主を呼ぶと、主なる神は必ず答えてくださるはずです。今まで通りに!

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