神の独り子が私たち罪人の罪と死の呪いのために十字架につけられ、成し遂げられた贖いの御業こそ、福音の中の福音です。そのことをパウロは次のように語ります。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Ⅰコリント1:18)…十字架が語る言葉こそ福音であり、その十字架につけられたキリストを伝えるのが、救われた者のなすべきことなのです。
十字架刑の由来はペルシャ帝国にまで遡ります。その後、カルタゴを経てローマに至ったものと言われています。十字架刑に処せられるのは重罪を犯した罪人や政治犯であって、刑罰の中でも最も過酷な極刑でありましたし、同時に裸のままかけられるという最も恥ずべき屈辱的な刑罰でもありました。その十字架刑の過酷さは、何と言っても致命傷を与えないまま、長時間十字架にかけられた状態で放置され死なせていくことにあります。度々、獣たちの餌食にされる悲惨なこともあったと言われています。主イエスはその十字架に両手両足を釘打たれて6時間ほど、耐えられない痛みと恐れ、苦しみの中で、人間としての肉体的な苦しみの極限を味わわれたのです。
しかし、使徒信条は、十字架の生々しい苦しみの姿については詳しく記していません。「パッション」という映画で観たような、人々から嘲られ、鞭打たれ、その他の数々の屈辱的な仕打ちについて、何も語っていません。ただ淡々と主イエスが「苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られた」という主イエス・キリストの救いの御業を表すことに徹しています。恐らく、初代教会当時の人々にとって、十字架の悲惨さを知らない人はいなかったことでしょう。だから、たったの一言「十字架につけられ」で、主イエスキリストの十字架の苦しみと死を表せるとの共感が、初代教会の皆にはあったのではないかと思われます。
ユダヤ人たちにとって十字架にかけられるということは、「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。」(申命記21:23)の申命記の言葉にあるように、神に呪われることだという理解がありました。すなわち、罪のない神の独り子が木にかけられたことによって、その意味が全く変わるようになったわけです。十字架にかけられた神の独り子が、忌まわしい犯罪人のようになって、神の呪いをすべてご自身の身に背負い、贖って下さった。だから主イエスがつけられた十字架は、呪いの象徴から神の赦しと愛、救いの象徴に変えられたのだ!という証しだったのです。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5)…本来、罪人の私たちに下るべき神の呪いが、すべて十字架の主イエスの上に下され、主イエスが呪われた者となってくださったのです。主イエスのつけられた十字架に、神の怒りと呪いは満たされ、もはや私たちに神の怒りと呪いが下ることはないのです。そうです。もはや主イエス・キリストの十字架のゆえに、あなたと私の罪と死の刑罰は帳消しにされ、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える者となったのです。ハレルヤ!
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