2019年11月12日火曜日

2019.11.3 本日の宣教


『 死んで葬られた主イエス 』 (ローマの信徒への手紙5:68) 

 使徒信条は主イエスが十字架にかかり死んで葬られた事実をはっきりと告白しています。神のひとり子であり、私たちの救いの主であるイエス・キリストが十字架につけられ死んだことを美化しようとしたり、隠そうとしたりせず、明確に宣言しているのです。しかも呪いの木である十字架にかかり、確かに死なれたんだ、と告げているのです。なぜでしょうか。これこそ、キリスト教の福音の核心であるからです。“イエス・キリストが十字架にかけられ死んだ!”…この言葉は2千年近く昔の事でした。しかし、彼の死は、人類の歴史の中で二千年間、多くの人に大きな影響を与え続けてきましたし、今の私たちをも圧倒的な影響力で包んでくれているのです。そして、このことは歴史が続く限り、続いていくに違いありません。 
 主イエスの死、それは一人の人間の死でした。それでは、人間にとって死とは何でしょうか。聖書が語る死は「罪が支払う報酬は死」(ローマ623)という言葉にすべてが示されていると言えます。もともと聖書に見られる死についての最初の言及は、アダムとエバが神との契約を破った時に裁かれた状態を指します。その時、人間は死に、またその後の人類に死がもたらされることになりました。神の形に似せて創造され、創造された者のうち、神と交われる唯一の存在となり、神の栄光を表しながら生きる存在としての人間でしたが、神に背いた罪により、神との関係が絶たれ、神のエデンの園から追放されることとなり、死がもたらされたのです。この時の死を「霊的な死」と言います。もちろん、この時点で呼吸が止まったわけでも、見える形の死が訪れたわけでもなく、体はなお生き続けていました。しかしこの時点で、罪が支払う報酬としての死はすでに始まったのです。すなわち綺麗な生花がその根から切られているのと同じように、見た目は綺麗に生きているように見えても、実際は根から切られた瞬間、すでに死んでいるのと同じです。同じく、霊的に死んだままの人間は生花が徐々に枯れていくように、肉体的にも徐々に衰えていき、やがて死を迎えることになるのです。ですから、アダムの子孫である私たちも死んだ者として生まれ、死の宣告を受けた者として、死に近づく人生を歩むことになるのです。この死の定めから逃れられる人は一人もいません。 
 しかし聖書は死についての新しい観点を示してくれます。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」(ヨハネ黙示録1413)、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)
  主イエスは十字架の死によって人間の罪を贖われ、人間に下されるはずであった死を無効にし、死そのものに死亡宣告を下されました。それゆえ、もはや死は主イエスを信じる人にとって恐れの対象でもなく、敵対すべき存在でもありません。十字架につけられ、死に打ち勝った主イエスによって私たちも永遠に生きる者とされたのです。ハレルヤ!「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。 」(フィリピ121



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