2026年9月7日月曜日

2026.9.6 牧師室便り

 「北陸伝道協議会の恵み」

先週月曜日、本当に久しぶりに北陸伝道協議会が開かれ、福井教会、金沢教会、富山小泉町教会の牧師たちが集まりました。食事を囲みながら、それぞれの教会が抱えている課題や問題を率直に分かち合い、共に祈り、励まし合う恵まれた時となりました。

福井教会は、北陸地域伝道プロジェクトとして新しい会堂が建てられ、平良先生ご夫妻の尊い奉仕と献身によって、地域に向けて積極的に働きが進められています。金沢教会も、しばらく牧師のいない厳しい歩みをしていましたが、今は田口先生が協力牧師として戻られ、新しい歩みを始めています。また、英語礼拝を担当するフーシー先生ご夫妻の働きも大きな恵みです。

世界のどの教会にも、それぞれの課題があります。人間関係、奉仕者、経済的な問題など、教会の規模にかかわらず、祈りを必要とすることがあります。

しかし小泉町教会を振り返る時、小さな群れでありますし、経済的にも決して豊かではありませんが、皆が互いに愛し、支え合いながらここまで歩んでこられたことは、大きな恵みです。

願わくは、北陸三教会が、それぞれの地域で与えられた使命を担い、光と塩として輝いていくことができますように。そして小泉町教会も、さらに模範となる教会へと成長していきたいと願います。

何よりも、生きた礼拝者で満ちあふれる礼拝共同体、御言葉に感動し、御言葉の上に立つ共同体、そして喜びと感謝と愛に満ちた交わりの教会として歩んでいきたいと思います。

主がこれからも私たちを豊かに導いてくださることを信じ、共に祈り、歩んでいきましょう。シャローム。



2026.9.6 本日の宣教

 『神の船を漕ぐ者たち 』

                 コリントの信徒への手紙一 4章1~2節

コリント教会は、聖霊による豊かな働きを経験し、生き生きとした教会でした。しかし、「派閥問題」という大きな課題を抱えていました。信徒たちがパウロ、ペトロ、アポロなど特定の人を慕って争う姿に対し、パウロは「大切なのは植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神だ」(Ⅰコリント3:7)と戒めます。教会は人間を中心にするのではなく、ただ神によって成り立つのです。この信仰の原点に立つとき、教会は分裂を避け、神の祝福で満たされます。

パウロは教会の働き人や信徒の姿を「キリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者」(Ⅰコリント4:1)と表現しました。「仕える者」と訳されるギリシャ語「ヒュペレテース」の語源は、「船の下層で櫓を漕ぐ者」、すなわち「主人のもとで黙々と力を合わせる助け手」です。大型船を前進させるには、目立たない最下層にいる漕ぎ手たちが指揮官の合図に耳を澄まし、息を合わせなければなりません。私たちは皆、キリストという船長のもとで、見えないところで共に櫓を漕ぐ「神の手伝い手」に過ぎないのです。

ただ流されるだけだった旧約の「ノアの箱舟」とは異なり、新約の教会は聖霊と御言葉の合図に合わせて共に力を合わせて漕ぎ出す船です。また「管理者(オイコノモス)」という言葉は、自らを低くして仕える謙遜な姿勢とともに、主 から託された「責任と委託」を表しています。指導者も信徒も主の前では共に船を漕ぐ同労者であり、神の家の中でそれぞれの役割を忠実に果たす責任を負っています。

この管理者に求められる最大の資質とは「忠実さ」です(Ⅰコリント4:2)。救いは100%神様からの恩寵であり、私たちの自慢や誇りが挟まる余地はありません。私たちの奉仕や努力は救いを得るための条件ではなく、救ってくださった神様への愛と感謝の応答なのです。

富山小泉町教会にも、病床で最後まで教会のために祈り続けた方々、毎週黙々と小さな奉仕に喜んで尽くしてくださる神の家族がいます。人の目には小さく見える奉仕も、神の目には極めて尊いものです。主の前で自分を誇らず、小さなことにも喜んで仕える漕ぎ手が集まるとき、教会は祝福で満たされます。

これからの小泉町教会の航海には穏やかな日も嵐の日も、思うように進まない日もあるでしょう。しかし、船を動かし導くのは神ご自身です。私たちがなすべきことは、自分に託された櫓をしっかりと握り、主の御声と聖霊の語りかけに耳を澄ませて、与えられた場所で忠実に漕ぎ続けることです。神の恵みを信じ、互いに支え合いながら、救いの港へと共に前進していきましょう。ハレルヤ!


2026.9.6 小さな泉の恵み

 ~名古屋から①~

今、世の中はまさにAIの時代を迎えています。人工知能は一気に私たちの身近な存在となり、AIを使うことが当たり前になっています。私の職場でも、仕事の中でいかにAIを上手に活用するかについて、発表会が行われています。さらに、AIとロボットがつながり、これまでSF映画の中でしか見られなかった世界が、少しずつ現実のものとなっています。AIの進歩は日進月歩という言葉では追いつかないほど速く、秒進分歩とも言える勢いです。そんな中、こんなニュースを耳にしました。人間が意図したわけではないのに、AIがサイバー空間の中で他のAIと連携し、仲間を作って企業のセキュリティーを突破した。そして、その痕跡をAI自身が隠そうとしたのです。AIは、膨大なデジタル情報から学習します。そして、そのデジタル情報の多くは人間が生み出したものです。つまりAIは、人間の知識だけでなく、人間の持つ善も悪も、ある意味では学んでいることになります。AIの危険性が認識されるにつれ、規制が必要だという声も上がっています。(つづく)

                             E.N.兄

2026.8.30 牧師室便り

 「 主の家に平和が 」

先週、教会学校のリーダーを務める兄弟から、「聖書教育の内容について相談があります」と電話をいただきました。そこで教会に来ていただき話を聞くと、「この内容は、聖書が本来語ろうとしていることと、だいぶずれているように感じます。この箇所をどう解釈すればよいでしょうか」とのことでした。

私も内容を確認しましたが、聖書の人物や出来事をあまりにも批評的に捉え、執筆者自身の考えや神学から、聖書の信仰者の行いに悪い意図があったかのように解説しているように感じました。

小泉町教会では、教会学校のテキストとして『聖書教育』を用いています。日本バプテスト連盟の先生方が執筆されていますが、それぞれの個性や神学的立場が表れることがあります。これをバプテスト教会の豊かさや多様性と見ることもできるでしょう。しかし、聖書を神の言葉、信仰の書として受け取り、そこに恵みを見いだしてきた私たちにとって、聖書の人物を一方的に批判し、悪い意図を持った人として描くことには慎重であるべきだと思います。

これからも『聖書教育』を用いて教会学校を行います。執筆される方々が、自分の思いや神学、主張を押し通すのではなく、時に批評的な視点を持ちながらも、皆が御言葉の恵みを受け取ることのできる解説をしてくださることを願います。

そして今回、疑問を心に隠すことなく率直に分かち合い、より良い方向へ導こうとしてくださった兄弟の働きに心から感謝します。小泉町教会の教会学校が、御言葉の上にしっかりと立ち、恵みの御言葉によって成長していく群れでありますように。シャローム。




2026.8.30 本日の宣教

 『 主の家に行く幸い 』

                          詩編122編 1~9節

この夏休み、私は済州道の母教会を訪ねました。教会に足を踏み入れた瞬間、10代から20代の頃の記憶がよみがえり、胸の奥に熱いものがこみ上げました。あの頃、私たちは誰かに言われたから教会に行ったのではありません。ただ、イエス・キリストに救われたことが嬉しく、その恵みに感謝したくて、礼拝し、賛美し、奉仕し、伝道しました。「しなければならないから」ではなく、「したいから」でした。今回の旅を通して、主が改めて示してくださったのは、「主の家に行く幸い」でした。

詩編122編1節には、「『主の家に行こう』と人々が言ったとき、わたしはうれしかった」とあります。詩人にとって、主の家に行くことは義務ではなく、大きな喜びでした。私たちも、なぜ教会に来ているのでしょうか。責任感や義務感だけになってはいないでしょうか。私たちがここにいる原点は、主が私たちを救ってくださったことです。キリストが私たちのために十字架にかかり、罪を赦し、神の子としてくださった。その救いの感動と感謝を、決して失ってはなりません。

詩編122編は、エルサレムへ向かう巡礼者の歌です。遠い道のりを歩きながら、「さあ、主の家に行こう」と声を掛け合い、ついに神殿に到着します。信仰の歩みは一人旅ではありません。神の家族が互いに「主の家に行こ う」と招き合い、共に歩む旅です。

また、主の家に集う幸いは、自分だけが恵みを受けることではありません。詩人は「エルサレムの平和を求めよ」と祈り、「わたしの兄弟、友のために」平和があるよう願います。聖書のいう「シャローム」は、単に争いがないことではなく、 神との関係、人との関係が整えられ、心も共同体も満たされる、神からの祝福です。教会に集う私たちも、互いのためにシャロームを祈り、支え合い、祝福し合う者とされたいのです。

聖霊によって私たちは神の神殿とされ、教会は「主の家」とされました。だからこそ、私たちは主の家を愛し、そこに集う兄弟姉妹の幸いを願います。日々の生活で疲れ、傷つき、迷うときも、共に「主の家に行こう」と声を掛け合いましょう。

主の家には、私たちを愛してくださる主がおられ、キリストの恵みがあり、兄弟姉妹と共に味わう喜びがあり、私たちを立ち上がらせる平安があります。

「主の家に行こう、と人々が言ったとき、わたしは嬉しかった」…いつまでも、その嬉しさを胸に刻み、救われた者として感謝と喜びをもって主を礼拝し、平安と祝福を携えて、それぞれの遣わされた場所へ 

歩んでいきましょう。アーメン。


2026.8.23 牧師室便り

 「 真の平和を求める旅へ 」

先々週、帰国の旅を始めた直後から、スルギは「早く富山に帰りたい」と、しきりに言っていました。私自身も、早くこの旅を終えて、慣れ親しんだ富山での生活に戻りたいと思っていました。

韓国には「家を離れれば苦労する」ということわざがあります。旅は楽しみであり、期待に満ちたものでもありますが、私の中にある旅のイメージは、どこか「苦労すること、疲れること」でもあります。今回の二週間も、済州、蔚山、大田、ソウルと移動を重ねる中で、少しずつ疲れが積み重なっていきました。

最後の主日礼拝を終え、すべての奉仕が終わったことを実感した時、疲れとともに「早く富山に帰りたい」という思いが強くなりました。しかし、富山を離れてから私の心の中には、愛する神の家族一人ひとりのための祈りがいつもありました。特に、心身ともに弱さを覚えている方々が守られ、病のために倒れることがないように祈りながら、この二週間を過ごしました。

そして今日、再び愛する神の家族の皆さんと共に礼拝できることを心から感謝し、主を賛美します。
今日は「平和を覚える礼拝」です。日本を離れている間にも、日本や世界各地で起こった自然災害や戦争のニュースを目にしました。その中で、個人にとっても、共同体にとっても、世界にとっても、平和がどれほど大切なものであるかを改めて感じました。
皆さんは、今、平安の中におられるでしょうか。イエス様は「わたしの平安をあなたがたに与える」と語られました。その平安は、世が与えるものではなく、十字架による赦しと和解から生まれる真の平和です。
私たち一人ひとりがその平和を日々経験し、周りの人々にも伝え、世界の真の平和のために祈り続ける者となれますように。今日の礼拝を通して、私たちの平和への思いがさらに深められ、生きて働かれる聖霊が私たちの間に真の平安と平和を実現してくださいますように。シャローム。

2026.8.23 本日の宣教

 『平和が支配する生活 』

                  コロサイの信徒への手紙3章15節

1.愛と平和で心を満たして、世界中がイエスは主だと知るため 栄光を見せてください。  この声を一つにして、この心を一つにして、あなたの栄光のために 用いてください。

2.今こそみんなで主を讃美しよう。世界中がイエスは主だと知るため 私にも何か出来る。この声を一つにして、この心を一つにして、あなたの栄光のために 用いてください。

 この詩は、8月の礼拝のオープニングの讃美である『ワン・ボイス』の歌詞です。平和を覚えつつ、キリスト者としての思いを新たにしてくれる讃美でもあります。

毎日のように戦争や争い、自然災害のニュースが流れてくる世界です。そこには愛する人を亡くし、泣き叫ぶ人々の姿が映し出されています。私たちは彼らの涙や怒りの言葉に触れるたび、心が締め付けられるような痛みを覚えます。

そのような私たちに向け、聖書は優しく語りかけてくれます。「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。」と。

聖書にある「支配する」という言葉は、人を上から押さえつけたり、強制的に従わせたりするという意味ではありません。元々「支配する」と訳されているギリシャ語は、「審判(アンパイア)を務める」「判決を下す」という意味を持っています。心の中で感情や考えが迷ったり、怒りや不安がぶつかり合ったりしたときに、「キリストの平和」を心の審判として立て、その平和の判断 に従って進む方向を決めなさい、という意味になります。

主イエスがくださる平和(平安)は、世の中の情勢がどうあっても揺らぐことのない、深い安心感です。それは、主ご自身がどんなに酷い仕打ちを受けても相手を赦し、愛し抜いてくださったからです。

聖書は続けて、「この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」と勧めます。

神が私たちを神の子どもとして、そして一つの教会(神の家族)として集めてくださったのは、一人で寂しく耐えるためではありません。みんなで肩を寄せ合い、「大丈夫だよ」と励まし合いながら、平和を育てていくためです。それは「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)」と語られた主イエスの山上の説教の言葉の成就でもあるでしょう。そして、平和を実現する人々の間に著しく表れる特徴が「感謝する」ということです。「平和と感謝」。この二つは深く結びついています。

愛する神の家族の皆さん、満たされない思いに心が揺れる日こそ、与えられている恵みを思い起こしたいものです。「主よ、私の心をあなたの平和で満たしてください。キリストの平和が、私たちの心を支配しますように。私を、平和を実現する者として用いてください。」 ・・・ハレルヤ!


2026.8.23 小さな泉の恵み

 小泉町キリスト教会にお世話になり、もうすぐ一年程になります。それまでの聖書だけ、教会へ行かない空白の約3年間。教会は、牧師先生は、兄弟姉妹は、礼拝は、賛美は、祈祷会は、私に、生きる力を与えて下さいます。

過去を悔やみ苦しい時、私が繰り返す御言葉は、「キリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。(ローマ 6-11)」…翻訳が違い、解釈が我流で、皆さんとズレがありそうですが、私にとっては大事な御言葉です。

先日、牧師先生にご無理をお願いして、妻と一緒に、小泉町教会の墓地を見せていただきました。「私たちの国籍は天にあり(ピリピ 3-20)」…  全ての国々、民族が、平安で有りますように。妻も一緒に、教会に行ける者に、して下さい。

                                K.S.兄

2026.8.16 牧師室便り

 「平和を語り合う会への誘い」

連日厳しい暑さが続いていますが、主の御手に守られていることでしょう。

わが家は皆さんの祈りに支えられ、日々主に守られて過ごしています。心より感謝します。

さて、次週は「平和礼拝」として献げ、昼食後の時間に「平和を語り合う会」を開きたいと考えております。

今回、講師として奉仕してくださる堀江節子さんは、私たちの教会とも深い関わりがあり、「小さな泉の村」や「小さな泉のカフェ」の働きにも携わってくださっている方です。また長年にわたり、「駅北食堂」をはじめとする富山地域での平和運動の中心的な役割を担ってこられました。

堀江さんは常に社会の中で弱い立場に置かれている方々に寄り添い、その人々のために力を尽くしてこられました。その歩みは、まさに「クリスチャン以上に行いによってキリストの愛を現わしている方」と言っても過言ではありません。

日本が過去に犯した戦争責任の問題をはじめ、障害者やハンセン病回復者の方々の人権問題にも深い関心を持ち、平和をつくり出す働きを広げてこられました。さらに「アジアの仲間たちの会」や、次世代を担う若者たちのための活動などにも取り組んでおられます。

次週は堀江さんのお話を通し、平和を覚え、共に語り合う時を持ちたいと思います。ぜひ集い合い、平和を実現していく教会として、またキリストに従う者としての思いを新たにしましょう。シャローム!



2026.8.16 本日の宣教

『互いに愛し合うためには・・・?  』

                   ヨハネによる福音書 13章34~35節

イエス様は、十字架にかけられる前に弟子たちに「新しい掟(おきて)」を与えられます。「互いに愛し合いなさい」という、一見やさしいことのように思われるシンプルな掟です。この「掟」は、私たちへの遺言ともいわれる最も大切な信仰者のルールです。

「互いに愛し合う」あり方は、「私(イエス様)があなた方(弟子たち)を愛したように」という修飾語がつき、互いに愛するあり方を伝えています。

それでは、イエス様はどのように弟子たちを愛されたのでしょうか?私たちは、福音書や使徒言行録からイエス様がどのように弟子たちを愛されたのかということを思い浮かべます。言葉や祈りに加えて、弟子の足を洗うなど行動をもってイエス様が弟子たちを愛している場面が記述されています。子どもや女性、病や弱くされた人々に手を差し伸べ、癒し、人々の批判や自らの命の危険をもかえりみず、一方的にいつくしみ愛されている姿が心に浮かびます。

もちろん私たちは、神ではなく、完全ではないので、イエス様のように病をいやすことなどはできません。 完全にはできなくても、パウロが教えてくれているように、少しでも「目標を目指してひたすら走ること」(フィリピの信徒への手紙3章14節)はできます。パウロは、すべての手紙を通して、「イエス様のように」というあり方を自らの行動を、人生を通して示しています。私たちは、「パウロのように」もできない自分がいますが、人生を通して目指す目標が与えられています。

 バプテスマを通して新たにいのちを与えられたはずの私が愛せず、憎しみや怒りがあるのは、なぜなのでしょうか?ちょっとした言葉や相手の仕草に傷つき、相手を恨んだり、とことん批判したりする私は、何者なのでしょうか?相手を知らないのに、国や文化の違いで嫌ったりする私もいます。自分自身をも愛せない私もいます。

私は、自分の過去を変えることはできません。そして、家族であっても他者を変えることはできないのです。しかし、自分が変わると相手も変わり、自分の未来が変わる可能性があるのです。    

                                島田 茂


2026.8.16 小さな泉の恵み

 ~祈りの大切さ~

私はまだ求道中ですが、時々家でもお祈りします。

習慣にしたいと思いながら、なかなか今の環境では、毎日祈ることができないでいます。

つい、他の人の為にとか家族の為にと思い、祈ることにハ―ドルをあげてしまっています。

自分の叶えたいことや願いのために祈るとして、神様との関係をもっと身近なものにしたいとは思うようになりました。例えば、私の体調についても祈ると祈らないでは、雲泥の差があります。

苦しいことがあっても、それを放り投げにしないで、苦しみと共存しながらも、神様にすがることが出来たら、何か1つのことに達観できるようにも思うのです。それは現状を受け入れながらも希望を捨てないと言うことでもあります。

少しの習慣を取り入れて、私なりに信仰を深めたいと願っています。

小泉町教会の信徒の方々と共に。

                         S.N.姉

2026.8.9 牧師室便り

 「 母教会をもっている恵み 」

本日は、富山小泉町キリスト教会の誇りであり喜びでもある、宮田祐亮先生ご家族をお迎えして共に礼拝をささげることができ、心から感謝しています。わが教会で育ち、今は山形教会で立派な牧師として牧会している宮田先生が、4年ぶりに母教会へ帰ってきてくれたことは、私たち群れにとっても本当に大きな恵みです。いつでも温かく迎えてくれる母教会があるのは、本当に幸いなことですね。

私はときどきYouTubeで宮田先生のメッセージを聴いているのですが、まっすぐな信仰と深みのある福音の言葉に、いつも大きな喜びと励ましをもらっています。宮田先生、そしてご家族の皆さん、この母教会で神の家族の愛と慰めをたっぷりチャージしてくださいね。そして元気をいっぱい蓄えて、また山形の地へと力強く飛び立っていってほしいと願っています。

実はわが家も本日、私の母教会である済州聖恩教会で宣教奉仕をしています。両親の引越しや家族4人で訪問することの経済的な負担もあり、済州を訪れることは容易ではありませんでしたが、先日富山に来られた母教会のみなさんの温かいご好意のおかげで、なんと20年ぶりに家族揃って訪問することができました。本当に感謝でいっぱいです。
遠く離れていても、いつも心に留めて祈ってくれる母教会があることは、宮田先生にとっても私にとっても最高の恵みです。今日の宮田先生と私の奉仕を通して、それぞれの母教会との絆がさらに深まり、互いに力をもらって、またそれぞれの宣教地へと遣わされていきますように。
神の家族の皆さんに再会する日を、楽しみにしています。シャローム!

2026.8.9 本日の宣教

 『 正しさを手放すとき  』

                    ルカによる福音書18章9~14節

わたしたちは皆、心の中に「正しさ」を測るものさしを持っています。そのものさし自体は、神様からいただいた良心であり、決して悪いものではありません。けれども、いつしかそれを自分を測るためではなく、隣人を裁くために使ってしまうことがあります。今日与えられている聖書箇所で、イエスさまは「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対して、一つのたとえを話されました。神殿に上って祈る二人、ファリサイ派の人と徴税人です。ファリサイ派の人は、「奪い取る者でない、不正な者でない、あの徴税人のような者でもない」と、自分の正しさを並べ立てて神様に感謝しました。断食も献げ物も、律法以上に忠実に果たしていました。一方、徴税人は遠くに立ち、目を天に上げようともせず、ただ胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」とだけ祈りました。義とされて家に帰ったのは、後者、徴税人の方でした。

申命記9章で神様は、イスラエルに「自分が正しいので約束の地を得た」と思ってはならないと繰り返し語られました。彼らが約束の地に 導かれたのは、ただ神様の憐れみによるものであって、彼らの正しさによるのではありませんでした。この福音は、わたしたちにもそのまま当てはまります。わたしたちの救いも、自分の正しさによるのではなく、ただ神様の一方的な恵みによります。長く教会に仕え、聖書をよく学んできた者ほど、実は知らないうちに、自分の正しさを他者を裁く道具にしてしまう危険があります。信仰暦も、奉仕の年数も、知識の豊富さも、本来は神様からの恵みの実であるはずなのに、いつの間にか「自分は正しい、あの人とは違う」という思い込みに変わり、教会の一致と交わりを傷つけてしまうことがあるのです。モーセの時代も、イエスさまの時代のファリサイ派の人々も、そして今を生きるわたしたちも、いつも自らの信仰のあり方を問い直す必要があります。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」この約束に立ち帰り、自分の正しさを手放して、へりくだって神様の憐れみの中を、共に歩んでまいりましょう。

                   山形キリスト教会   宮田祐亮師                                          


2026.8.9 小さな泉の恵み

 ~ その他」の恵み~

わたしは教会で「総務委員」をやっています。うちの教会にはいろいろ委員会があって、選挙管理委員が、どの委員がどんな仕事をするかをまとめて一覧してくれています。その中で、「総務委員」の仕事にだけ、ほかの委員にない語があります。それは「その他」。

この「その他」のところに何でも来ます。でも、「総務委員としてやらないといけないこと」は3つくらいしかなく、あとは自由に動けます。ほかの委員会では、委員会としてしなければいけないことを労苦して担ってくれています。常設の委員会とは別のチームや個人、名も名乗らない奉仕者もいます。総務委員は、その一人ひとりに感謝しながら、多くの働きをどのように教会で共有し助けていくか、自分のやることを見つけていきます。

一方、仕事が多岐にわたると、しみちゃん個人としてのことなのか総務委員としてのことなのか、相手が受ける印象に気をつけなければなりません。とくに年下のみなさんだと、「しみちゃんが言っていた」というのが「総務に言われちゃった」のプレッシャーになりかねません。調子に乗っては失敗もし、聖書と祈りで励まされ戒められを繰り返し、この恵みの仕事をいただき5年目です。       

                          S.M.姉

2026.8.2 牧師室便り

  「折が良くても悪くても」

先日、永住ビザの申請が認められず、これからの日本での働きについて改めて考え、祈る時が与えられました。しかし、ちょうど2週間ほど前、新たに3年間の在留ビザの更新が許され、これからも日本で牧師として奉仕できることになりました。また先週には運転免許証の更新も無事に終え、安心して日本での生活を続けられることを感謝しています。

外国人にとって、日本で生活し働き続けることは年々厳しくなっているように感じます。それでも、主が与えてくださった状況を、感謝をもって受け止めることが、クリスチャンとして大切な歩みであると改めて教えられています。

パウロはテモテへの手紙の中で、「折が良くても悪くても、御言葉を宣べ伝えなさい」と勧めています。この御言葉は今の私自身にも深く語りかけています。

自分の計画どおりに進まないことや、失望する出来事があったとしても、一喜一憂するのではなく、その都度与えられた状況を受け止め、主の導きに従いながら、主の最善を信じて歩み続けたいと願っています。

先週は、熊本地域で10年ぶりとなる大きな地震が発生し、多くの方々が悲しみと不安の中に置かれています。被災された方々の上に主の慰めと助けが豊かにありますように。また、熊本地域の教会や神学校、クリスチャン一人ひとりに新たな神の希望と慰めのメッセージが与えられますようお祈りしています。

折が良くても悪くても、置かれた場所で神の助けを求め、神の栄光を現す歩みを続けることができますように。私も遠くから祈りつつ、主に与えられた務めを忠実に果たしていきたいと願っています。

シャローム。


2026.8.2 本日の宣教

 『繁栄をもたらす人』  

                           詩編1編1~6節

世の中では「繁栄」といえば、ビジネスの成功や経済的安定、社会的実績といったことで定義されるでしょう。しかし聖書が語る真の繁栄とは、単なる結果ではなく、人が「どこに根を下ろし、誰と共に歩むか」という優先順位のあり方そのものを指しています。

詩編の詩人は「幸いな人」を描くにあたり、まず「神に逆らう者の計らいに従わず、罪人の道に留まらず、傲慢な者と共に座らない」という拒絶の姿勢から語り始めます。人は関わる対象によって徐々に価値観に染まっていきます。クリスチャンの優先順位の第一歩は、ご利益や自己中心的な成功観といった世の価値観を退け、自分の判断基準の起点を神の静かな御声に置く決断から始まります。

幸いな人は「主の教えを愛し、昼も夜も口ずさむ(黙想する)」人です。ここで求められているのは義務感ではなく、神の御言葉に対する「愛と喜び」です。私たちが日常の中で何を一番の喜びとし、何を心の中で反芻しているかに優先順位が露わになります。神の御言葉を最優先にすることで、どんな状況でもブレない「内なる軸」を培います。

詩人は、御言葉に根を下ろす人は「流れのほとりに植えられた木」のようだと歌います。「流れのほとりに植えられた木」は、自力で必死に水を汲み上げているのではありません。命の水源のすぐそばに「植えられて いる」からこそ、常に潤いを受け取り、その命の勢いを止めることなく青々と茂り続けるのです。

ここで「繁栄をもたらす」と訳されるヘブライ語「ツァラハ(צָלַח)」は、単なる金銭的成功ではなく、「障害を突き抜けて前に進む」「神の目的が滞りなく成就に向かう」という命の働きを意味します。真の繁栄とは自力で掴むものではなく、命の水源である神に繋がることで、神の愛と目的がその人の人生を通して結実していくことです。試練の季節があっても、神の「時」が来れば周りを潤す豊かな実を結びます。

一方で、神を外した生き方は「風に吹き払われるもみ殻」に例えられます。根も重みもなく、人生の試練や死といった風が吹けば、一瞬にしてその虚しさが露呈します。神は神に従う者の道を親密な愛をもって知っておられ、その歩みを永遠の結実へと導かれます。

「繁栄をもたらす人」とは、自分一人で成功する人ではなく、神との関係を人生の真ん中に置くことで、神の恵みを周囲へと溢れ出させていく人のことです。日々の忙しさの中で立ち止まり、歩みの起点を「主の流れのほとり」へと戻しましょう。御言葉を喜びとし、神に深く根を下ろすとき、私たちはどんな季節にあっても真の「繁栄」をもたらす人となるのです。

ハレルヤ!


2026.8.2 小さな泉の恵み

 ~災害大国日本~

始めに。 熊本で7月28日に起きた大地震で、被害に遭われた多くの方々のおかれている現状を思い、お亡くなりになった方々の魂が主にあって平安の中にありますように。また、今その状況のただなかで、途方に暮れている方々、前を向いて力を振り絞り、困難と向き合っている方々、災害の救助活動を行っている方々、傷ついた人々の治療に携わっている医療関係方々など、被害に遭われた全ての方々の上に、主の力と平安と癒しがありますように!

 日本は災害大国と言われて久しく、特に地震は世界第4位となっています。

小泉町教会のある富山は地震が少ないですが、熊本や能登のように地震が起きやすい地域も日本には多く存在します。比較的災害の少ない富山は一定数の方々が、「立山連峰が、富山を守っている」と、まことしやかに言っているのを何度も聞いたことがあります。そのような富山も、今後はどのような災害が来るか分かりません。いつ支援される側になるか分かりません。わかっているのは、今、目の前にいる支援の必要な方々の為に祈り、そして実際に手を差し伸べることなのでしょう。

また、平和を祈る八月が巡ってきました。

                          S.Y.姉

2026.7.26 牧師室便り

 「主に喜ばれる共同体への招き」

本日、富山小泉町キリスト教会の家族としてK兄をお迎えできますことを、心より感謝し、喜び合いたいと思います。

K兄は昨年10月に初めて当教会に来られて以来、毎週の主日礼拝はもちろん、水曜日の祈祷会にも欠かさず足を運んで来られました。最初の日からご自身の悩みや心の重荷を率直に分かち合ってくださり、私たちは共に祈り、励まし合いながら、歩みを重ねてまいりました。いつも真摯に、純粋な思いで主を求め続けるその姿は、大きな恵みでした。

兄弟は今から44年前、アメリカの教会でバプテスマを受けられてから、長い時を経て今、小泉町の地で神の家族に加わったのはすべて神の導きであったでしょう。

私たちの教会には、国籍や育ってきた環境、年齢や考え方の異なる多様な人々が集っています。しかし私たちはみな、イエス・キリストの十字架による罪の赦しをいただき、一つの主のもとで結ばれた家族です。違いがあるからこそ、互いの間に常にキリストの十字架を置き、主の愛を通して相手を見つめ、ありのままを受け入れ合う交わりを深めていきたいと願うものます。

K兄が加わったことによって、小泉町教会はキリストの体としていよいよ健やかにされていくでしょう。これから先、世の歩みがどれほど厳しくなろうとも、聖霊なる主が私たちを力づけ、固い絆で結んでくださるでしょう。

K兄、本日はご入会、本当におめでとうございます。これからも共に祈り、互いに支え合いながら、主に喜ばれる群れを形成していきましょう。

シャローム。



2026.7.26 本日の宣教

 『 証し人として生きる 』  

                        エレミヤ20章9節

本日与えられたエレミヤの言葉は、「証し人として生きる」とは何かを、私たちの理想とは異なる現実の姿を通して教えています。私たちは「証し人」と聞くと、喜びに満ち、自信をもって福音を語る力強いクリスチャンを思い描きがちです。もちろん聖書の中にも、そのような自信に満ち、力強く神から預かった言葉を語る人も多く存在します。しかし、そのような理想像ではなく、悲しみと苦しみの最中、証し人の使命を放棄するような人々の姿も多く描かれていることが分かります。

その代表的な人がエレミヤでした。彼は神の言葉を忠実に語り続けた結果、人々の嘲笑や裏切り、激しい迫害を受け、ついに「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい」と決意するほど心身ともに疲れ果てた時がありました。その姿は、周囲との葛藤を恐れ、「信仰は心の中だけにしまっておこう」と沈黙を選びたくなる私たち自身の姿でもあります。

しかし、彼は語ることをやめることができませんでした。主の言葉は「骨の中に閉じ込められた火」のように燃え上がり、どれほど抑えようとしても消えることはありませんでした。彼はついに「わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」と告白します。この「負け」とは敗北ではなく、自分の意志よりも神の言葉が勝ったという、神への完全な降伏の告白です。ここに証し人として生きる本質があります。 証し人とは、自分の情熱や能力によって神に仕える人ではありません。もし証しが人間の熱意だけに支えられているなら、試練の中でその火は消えてしまうでしょう。しかし真の証し人は、自分は弱く疲れ果てていても、その内側で神の言葉が燃え続けるため、「語らずにはいられない」と生かされる人です。私たちが神の言葉を支えるのではなく、神の言葉が私たちを捕らえ、前へと押し出してくださるのです。

 この「骨の中の火」は、主イエス・キリストにおいて完全に現されました。主イエスは迫害と孤独の中でも父なる神の愛を最後まで証しし、十字架においてご自身の命を完全に献げられました。その十字架と復活によって現された命の火は、今や聖霊によって私たちの内にも宿っています。

ですから、私たちが目指すべき証し人とは、傷一つない英雄ではありません。傷つき、「もう語れない」と思うほど弱さを覚えながらも、なお内に燃えるキリストの愛に押し出されて再び立ち上がる人です。自分の力で輝くのではなく、弱さという器を通してキリストの光を映し出す生き方こそ、真の証し人の姿です。沈黙の誘惑に打ち勝ち、主の言葉という消えることのない火に生かされて歩む者を、神は今もこの時代の証し人として豊かに用いてくださるのです。ハレルヤ!


2026.7.26 小さな泉の恵み

 去年、数カ月ぶりに秋田の教会に行った時の話です。礼拝中に讃美歌を歌っていると、後の席から今まで聞いたことのないような下手くそな讃美歌が聞こえてきました。誰が歌っているのか見てみると、小学2年生の男の子でしたが、それが。僕にとって恵みだったのです。

秋田の教会の隣には保育園が併設されており、その子は保育園で聖書を学びながら、月に1回ほど祖母に連れられて教会に来ていました。秋田の教会には他に子どもがいないこともあり、その子は僕が来るといつも一緒に遊んでいました。その子は非常に私に懐いたのですが、私はその人懐こさに不安定さを感じました。小さい子どもは愛情が不足すると、大人の前では自分を可愛く見せたり変なことをしたりする傾向がある気がします。

僕が子ども達との遊びを大事する(=呼吸困難の悪化よりも優先する)のは、体調が壊れていく中で、もし感情表現が上手ければここまで悪化しなかったかもしれないという思いの反転でもあります。

そのため、その子が今までと違い礼拝中に讃美歌を歌ったこと、それも周りの大人に合わせて綺麗に歌うのではなく、保育園の時からそうしているように下手くそに歌ったことが僕にとって恵みだったのです。

                                N.Y.兄

2026.7.19 牧師室便り

  「すべては御手の中にある」

連日の厳しい暑さが、私たちの生活を脅かしています。昨年もこのことに触れましたが、今年もまた記録を更新するような暑さが続き、外に出ることさえためらわれる日々の中で、私たちはただ、その暑さが少しでも和らぐことを願うばかりです。体調を崩しやすい季節でもありますので、互いに気遣い合いながら過ごしていきたいものです。

そのような中、世界に目を向けると、中東情勢をはじめ、各地で緊張が続き、平和への願いとは裏腹に、不安な出来事が絶えません。私たちが思い描く計画や予定、そして期待が思いどおりにならない現実を、日々経験しています。思いがけない出来事に心が揺れることもありますが、その中でこそ、私たちは神様の守りと導きを覚えたいと思います。

このような時だからこそ、私たちは何を基準として判断し、どのように歩むべきでしょうか。人はさまざまな計画を立て、その計画に従って歩もうとします。しかし聖書は、「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」(箴言16章9節)と教えています。私たちは、この御言葉の原点へと立ち返り、自分の力だけに頼るのではなく、主の御心を求めて歩むよう促されているのではないでしょうか。

「すべては御手の中にある」という真理の上に、もう一度しっかりと立ち、私たちの神にすべてを委ねながら、日々の歩みを感謝と祈りのうちに続けてまいりましょう。どのような状況の中にあっても、主は私たちを見捨てず、最善へと導いてくださいます。

この夏、小泉町教会の上に豊かな神の恵みと御業が現されますよう、心から祈ります。

シャローム。



2026.7.19 本日の宣教

 『 善い業を始められた方を讃美せよ 』  

               フィリピの信徒への手紙1章3~6節

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日のまでに、それを完成させてくださると、私は確信しています。」(6節)

明日7月20日は、富山小泉町キリスト教会の教会開拓66周年・教会組織26周年の記念日です。

この66年の歩みを振り返ると、私たちの歴史はまさに山あり谷ありのものでした。しかし神は、この弱い群れを、あたかも親が子を抱くように、「負ぶって海を渡って」くださいました。時にはそれは荒野での訓練のような厳しい季節であり、また時には迷いそうになる旅路でもありました。しかし、そのような時にも神は絶えず私たちと共にいてくださり、ついに約束の地、このカナンの地へと導いてくださいました。そして今、私たちは「小泉町」という、「小さな泉」のある恵み豊かな土地を与えられ、ここに立っています。

旅に疲れ、病を背負い、人生の荒野をさまよっていた私たちが、この小さな泉のほとりに集められ、どれほど癒やされ、憩うことができたでしょうか。この66年の、そして組織されてからの26年間の恵みの歩みを覚えつつ、本日は与えられた聖書の御言葉から、私たちがさらに前進するための神のビジョンを共に受け取りたいと願います。

パウロは「あなたがたが、最初の日から今日に至るまで、福音を伝えることにあずかっている」と感謝しています。フィリピの教会にとっての「最初の日」とは、アジア伝道を志していたパウロたちが聖霊によってヨーロ ッパへと導かれ、川岸の祈り場で紫布売りのリディアという一人の女性に出会った日から始まりました(使徒16章)。神が彼女の心を開き、そこからヨーロッパ初の教会がうぶごえを上げたのです。その後、パウロたちは激しい迫害や投獄を経験しますが、夜中に賛美を歌う彼らを通して、今度は看守とその家族が救われ、教会へと加えられていきました。

本来なら交わるはずのなかった人々が、神の不思議な導きによって一つの群れとされ、互いに支え合う歩みを始めた、それがフィリピ教会の原点でした。

神がこの小泉町に私たちの教会を建ててくださったときから、主は私たちに絶えず一つの御声をかけてくださっていたと思います。「あなたがたが小さな泉となりなさい」と。私たちが今立っているこの場所の名称が「小泉町」であることは、神の深い摂理とデザインが隠されていると言えましょう。

その主は私たちにこう語りかけておられます。「あなたがただけで、この小さな泉を囲んで満足していてはならない。周りの疲れた者、渇いている者、人生に迷い、行き詰まっている者、誰もが遠慮なくこの泉へと近寄り、あなたがたの小さな泉から『命の水』を飲んで生かされるようにしなさい」と。

願わくは、私たちの内に善い業を始められた神が、これからの歩みをも完全に支え、驚くべき御業をもって完成させてくださいますように…。ハレルヤ!


2026.7.19 小さな泉の恵み

「お互いに支えあうネットワーク作り」

これは食料の生産者と消費者の関係について、このような関係でありたいと願う一農業者の言葉です。私作る人、私買う人という、そこに市場を通して物が流れるという関係ではなく、お互いに顔が見える関係を築こうとしているのです。こうした関係は、1970年代の日本の一部の地域で「提携」として形作られた関係であり、栽培方法や価格等、双方の事情を考慮しあって設定されていたものです。この原点は1970年代の日本でしたが、この仕組みが欧米に飛び火して普及し、近年CSA(地域支援型農業)として日本にも還流し(たとする説が有力)、今日ではCSAを何とか普及させようと努力している地域もあります。生産者にとっては担い手不足が相当に深刻で、消費者にとっては食料危機を予感させる今日このごろです。

パウロは、「あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、わたしの必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。」(使徒20章34節)として模範を示しています。「ともにいる人」が、弱い者を指しているとすれば、生産者も消費者も弱い部分を抱えていると、私にはみえるのです。

                             S.T.兄

2026.7.12 牧師室便り

 「熱波のなかの福音 」

先週、二階の畳の部屋のエアコンが故障していたため、何とか自分の力で直せないものかと思い、エアコン洗浄をしてみましたが、残念ながら故障は改善できず、業者の方に修理を依頼するしかありません。

 5月下旬からヨーロッパを襲っている記録的な熱波により、多くの尊い命が失われています。フランスでは千人を超える死者が報告され、イギリスやドイツ、オランダなどでも深刻な被害が広がっています。これまであまり必要とされてこなかった移動式エアコンを求めて人々が店舗に殺到し、争奪戦を繰り広げる様子からは、突然の異常事態に対する人々の戸惑いや、不安と恐れの大きさがうかがえます。

このような状況だからこそ、私たちは世の出来事に振り回されるのではなく、祈りをもって神の前に立御言葉を黙想しながら日々を歩むことが大切です。聖書は、このような世界規模の異常事態が起こっても、恐れたり、何か特別なことが起こったかのように騒ぎ立てたりしないようにと勧めています。

年々更新される記録的な暑さや自然災害、社会的困難は、これからも続いていくことでしょう。しかし、終末を思わせるような時代であるからこそ、私たちは主イエス・キリストの十字架と復活によって示された神の救いを見上げ、神の国の福音に生きる者でありたいと願います。変わりゆく世界の中にあっても、神の御言葉と約束は決して変わることはありません。恐れに支配されることなく、希望をもって主を見上げ、神の国の福音に生きる歩みを続けてまいりましょう。シャローム。




2026.7.12 本日の宣教

 『 あなたの足は美しい! 』  

               ローマの信徒への手紙10章13~15節

パウロは、美しさの基準を「足」に置きます。彼が「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と感嘆するとき、それは綺麗に飾られた足ではなく、福音を伝えるために砂埃にまみれ、傷つきながらも歩み続けた、伝道者の「足」そのものを指しています。

彼はまず、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」という福音の核心を告げます。この「だれでも」という言葉は、身分や背景に関わらず、ただ主の御名を呼び求める者が救われるという、当時の社会構造を根底から覆すほどの衝撃を持つ内容でした。

しかしパウロは、救いに至る道筋を一段ずつたどるようにして問いを重ねます。「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう」「聞いたことのない方を、どうして信じられよう」「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」と。

どんなに素晴らしい救いが用意されていても、聞く機会がなければ、誰も主を呼び求めることはできません。神様は天から大雨を降らせるような方法ではなく、あえて人間が自分の足で歩き、口で語るという、時間と手間のかかる方法を選ばれました。つまり、一人の人が救いに至る背後には、必ずその人のもとへと歩みを進めた「誰かの足」が存在するのです。私たち自身も、かつて誰かが踏み出してくれた足の恵みによって、今ここに生かされています。 神様が私たちを「遣わす」とは、遠い異国へ行くことだけを意味しません。それは日常に張り巡らされた目に見えない壁を越えて、隣人のもとへ一歩を踏み出すことです。隣人の悩みや痛みに気づき、歩み寄って耳を傾けるその一歩こそが、神の愛を目に見える形にする宣教の始まりです。

日々の重荷に疲れ、自分の足は美しくないと感じることもあるでしょう。しかし神様が「美しい」と言ってくださるのは、偉大な業を成し遂げたからではなく、誰かのために踏み出した小さな一歩を愛してくださるからです。主イエスご自身、天の栄光を捨ててこの地上に降り、傷つき病む者のもとへ足を運ばれ、最後には十字架の丘へと歩まれました。

私たちは自らの力ではなく、前を歩まれる主イエス・キリストの足跡に自分の足を重ねて歩みます。他者を励ます電話や祈りといった日常の小さな歩みを、神様は喜ばれることでしょう。願わくは、私たちの小さな一歩が誰かにとってのキリストとの出会いの場となるよう、それぞれの場所へ力強く踏み出していきたいものです。父なる神は天からあなたを見つめ、微笑みながらこうささやいておられるでしょう。

「わたしの愛する子よ。良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と。

ハレルヤ!


2026.7.5 本日の宣教

 『 現代のヨナたちへ 』  

                   ヨナ書 4章10~11節

旧約聖書の預言者ヨナは、神様から敵国アッシリアの首都ニネベへ行き、裁きを伝えるよう命じられました。しかしヨナはこれに従わず、反対方向のタルシシュへ逃げ出してしまいます。彼は祖国を深く愛していたからこそ、自国を苦しめる敵国が救われることをどうしても赦せなかったのです。神様は逃げるヨナに嵐と巨大な魚をもって臨まれ、魚の腹の中で悔い改めたヨナを赦して再びニネベへと遣わされました。神様は、弱さや葛藤を抱える者をも忍耐強く導き、用いてくださるお方です。

再び遣わされたヨナが「あと四十日でニネベは滅びる」と宣言すると、王から民に至るまで人々は断食して悔い改めました。神様はその姿を見て災いを思い直されますが、ヨナはこの救いを喜ぶどころか、神様に対して激しく怒りました。ヨナは神様の深い憐れみを知っていたからこそ、「自分の宣教によって敵国が救われてしまうこと」を最初から恐れていたのです。

このヨナの姿は、現代の私たち自身の姿を映す鏡です。私たちは個人的な傷や対立のゆえに、「この人だけは赦したくない」という独自の「境界線」を心の中に引いてはいないでしょうか。韓国語で「ヨナ」を逆から読むと「ナヨ(私です)」になるように、神様の愛を受けながらも他者への愛を拒む姿こそ、「現代のヨナ」である私たち自身なのです。

自分の正義を譲らずに死を願うヨナに対し、神様は 一本のトウゴマとその陰、それを枯らす虫を用いて教えられました。一夜で滅びた植物を惜しむヨナに対し、神様は「どうしてわたしが、十二万人以上の人間がいる大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか」と語りかけられます。神様の御心は、敵味方の壁を越え、御自身が造られたすべての命の救いを願うところにあります。

この愛は、新約聖書においてイエス・キリストによって鮮やかに示されました。ヨナは敵の救いを嫌がりましたが、キリストは神様の敵であった私たちのために天の栄光を離れ、十字架で命を献げてくださいました。私たちはヨナの姿に己の罪を見つつ、その向こうにおられるキリストの圧倒的な愛を見上げるのです。

ヨナ書は、ニネベを惜しむ神様の問いかけに対して、ヨナがどう答えたかを記さずに終わっています。この未完の結末は、この問いが今を生きる私たち一人ひとりに向けられているからにほかなりません。「神様があなたの受け入れがたい人を愛することを、あなたは喜べますか」という問いです。

私たちは心の中にある境界線を悔い改め、人間の壁を越えて注がれる神様の広大な憐れみに立ち返らなければなりません。世界のすべての人を愛される神様の御心を心に刻み、境界線を越えて大胆に福音を届ける者として、それぞれの場所へと遣わされていきましょう。ハレルヤ!