『 あなたの足は美しい! 』
ローマの信徒への手紙10章13~15節
パウロは、美しさの基準を「足」に置きます。彼が「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と感嘆するとき、それは綺麗に飾られた足ではなく、福音を伝えるために砂埃にまみれ、傷つきながらも歩み続けた、伝道者の「足」そのものを指しています。
彼はまず、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」という福音の核心を告げます。この「だれでも」という言葉は、身分や背景に関わらず、ただ主の御名を呼び求める者が救われるという、当時の社会構造を根底から覆すほどの衝撃を持つ内容でした。
しかしパウロは、救いに至る道筋を一段ずつたどるようにして問いを重ねます。「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう」「聞いたことのない方を、どうして信じられよう」「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」と。
どんなに素晴らしい救いが用意されていても、聞く機会がなければ、誰も主を呼び求めることはできません。神様は天から大雨を降らせるような方法ではなく、あえて人間が自分の足で歩き、口で語るという、時間と手間のかかる方法を選ばれました。つまり、一人の人が救いに至る背後には、必ずその人のもとへと歩みを進めた「誰かの足」が存在するのです。私たち自身も、かつて誰かが踏み出してくれた足の恵みによって、今ここに生かされています。 神様が私たちを「遣わす」とは、遠い異国へ行くことだけを意味しません。それは日常に張り巡らされた目に見えない壁を越えて、隣人のもとへ一歩を踏み出すことです。隣人の悩みや痛みに気づき、歩み寄って耳を傾けるその一歩こそが、神の愛を目に見える形にする宣教の始まりです。
日々の重荷に疲れ、自分の足は美しくないと感じることもあるでしょう。しかし神様が「美しい」と言ってくださるのは、偉大な業を成し遂げたからではなく、誰かのために踏み出した小さな一歩を愛してくださるからです。主イエスご自身、天の栄光を捨ててこの地上に降り、傷つき病む者のもとへ足を運ばれ、最後には十字架の丘へと歩まれました。
私たちは自らの力ではなく、前を歩まれる主イエス・キリストの足跡に自分の足を重ねて歩みます。他者を励ます電話や祈りといった日常の小さな歩みを、神様は喜ばれることでしょう。願わくは、私たちの小さな一歩が誰かにとってのキリストとの出会いの場となるよう、それぞれの場所へ力強く踏み出していきたいものです。父なる神は天からあなたを見つめ、微笑みながらこうささやいておられるでしょう。
「わたしの愛する子よ。良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と。
ハレルヤ!
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