2026年9月7日月曜日

2026.7.26 本日の宣教

 『 証し人として生きる 』  

                        エレミヤ20章9節

本日与えられたエレミヤの言葉は、「証し人として生きる」とは何かを、私たちの理想とは異なる現実の姿を通して教えています。私たちは「証し人」と聞くと、喜びに満ち、自信をもって福音を語る力強いクリスチャンを思い描きがちです。もちろん聖書の中にも、そのような自信に満ち、力強く神から預かった言葉を語る人も多く存在します。しかし、そのような理想像ではなく、悲しみと苦しみの最中、証し人の使命を放棄するような人々の姿も多く描かれていることが分かります。

その代表的な人がエレミヤでした。彼は神の言葉を忠実に語り続けた結果、人々の嘲笑や裏切り、激しい迫害を受け、ついに「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい」と決意するほど心身ともに疲れ果てた時がありました。その姿は、周囲との葛藤を恐れ、「信仰は心の中だけにしまっておこう」と沈黙を選びたくなる私たち自身の姿でもあります。

しかし、彼は語ることをやめることができませんでした。主の言葉は「骨の中に閉じ込められた火」のように燃え上がり、どれほど抑えようとしても消えることはありませんでした。彼はついに「わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」と告白します。この「負け」とは敗北ではなく、自分の意志よりも神の言葉が勝ったという、神への完全な降伏の告白です。ここに証し人として生きる本質があります。 証し人とは、自分の情熱や能力によって神に仕える人ではありません。もし証しが人間の熱意だけに支えられているなら、試練の中でその火は消えてしまうでしょう。しかし真の証し人は、自分は弱く疲れ果てていても、その内側で神の言葉が燃え続けるため、「語らずにはいられない」と生かされる人です。私たちが神の言葉を支えるのではなく、神の言葉が私たちを捕らえ、前へと押し出してくださるのです。

 この「骨の中の火」は、主イエス・キリストにおいて完全に現されました。主イエスは迫害と孤独の中でも父なる神の愛を最後まで証しし、十字架においてご自身の命を完全に献げられました。その十字架と復活によって現された命の火は、今や聖霊によって私たちの内にも宿っています。

ですから、私たちが目指すべき証し人とは、傷一つない英雄ではありません。傷つき、「もう語れない」と思うほど弱さを覚えながらも、なお内に燃えるキリストの愛に押し出されて再び立ち上がる人です。自分の力で輝くのではなく、弱さという器を通してキリストの光を映し出す生き方こそ、真の証し人の姿です。沈黙の誘惑に打ち勝ち、主の言葉という消えることのない火に生かされて歩む者を、神は今もこの時代の証し人として豊かに用いてくださるのです。ハレルヤ!


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