2026年9月7日月曜日

2026.8.9 本日の宣教

 『 正しさを手放すとき  』

                    ルカによる福音書18章9~14節

わたしたちは皆、心の中に「正しさ」を測るものさしを持っています。そのものさし自体は、神様からいただいた良心であり、決して悪いものではありません。けれども、いつしかそれを自分を測るためではなく、隣人を裁くために使ってしまうことがあります。今日与えられている聖書箇所で、イエスさまは「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対して、一つのたとえを話されました。神殿に上って祈る二人、ファリサイ派の人と徴税人です。ファリサイ派の人は、「奪い取る者でない、不正な者でない、あの徴税人のような者でもない」と、自分の正しさを並べ立てて神様に感謝しました。断食も献げ物も、律法以上に忠実に果たしていました。一方、徴税人は遠くに立ち、目を天に上げようともせず、ただ胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」とだけ祈りました。義とされて家に帰ったのは、後者、徴税人の方でした。

申命記9章で神様は、イスラエルに「自分が正しいので約束の地を得た」と思ってはならないと繰り返し語られました。彼らが約束の地に 導かれたのは、ただ神様の憐れみによるものであって、彼らの正しさによるのではありませんでした。この福音は、わたしたちにもそのまま当てはまります。わたしたちの救いも、自分の正しさによるのではなく、ただ神様の一方的な恵みによります。長く教会に仕え、聖書をよく学んできた者ほど、実は知らないうちに、自分の正しさを他者を裁く道具にしてしまう危険があります。信仰暦も、奉仕の年数も、知識の豊富さも、本来は神様からの恵みの実であるはずなのに、いつの間にか「自分は正しい、あの人とは違う」という思い込みに変わり、教会の一致と交わりを傷つけてしまうことがあるのです。モーセの時代も、イエスさまの時代のファリサイ派の人々も、そして今を生きるわたしたちも、いつも自らの信仰のあり方を問い直す必要があります。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」この約束に立ち帰り、自分の正しさを手放して、へりくだって神様の憐れみの中を、共に歩んでまいりましょう。

                   山形キリスト教会   宮田祐亮師                                          


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