2024年9月18日水曜日

2024.9.15 牧師室便り

    ~ あなたは何者? ~

先週の礼拝後、『赦しのちから(英:Overcome)』という映画を観ました。その映画にはさまざまなメッセージが含まれていましたが、特に印象に残ったのは、主人公と質問者との会話のシーンでした。

質問者は主人公にこう問いかけます。「君は何者?」。主人公はなんとなくその問いに答え、「自分はバスケットボールのコーチだ」と言います。すると質問者は次に、「もしその立場を奪われたら?」と問います。今度は主人公は「歴史の教師でもある」と答えます。しかし質問者はさらに突っ込みます。「それも奪われたら、君は誰だ?」主人公は「私は夫であり、父親だ」と答えます。けれども質問者はさらに問い続けます。「でも、もしそれらが変わってしまったら、君は何者だ?」少し疲れた様子で、主人公は「自分は白人のアメリカ人だ」と答えます。質問者はさらに踏み込んで、「それを除いたら、君は誰だ?」と問いかけます。最後に主人公は、「私はクリスチャンだ。キリストを信じている」と答えます。その答えを聞いた質問者は「それはどれくらい大事?」と尋ねます。すると、主人公は「すごく大事だ!」と力を込めて答えます。しかしその時、質問者は彼に衝撃的な一言を投げかけます。「キリストがこれほど低い扱いをされるとは?」と。そして「自分が何者かは、心を捧げるものと結びついているんだ。キリストは君の一番には到底思えない」と主人公に迫ります。その言葉に、主人公は心を揺さぶられ、大きな衝撃を受けます。

神の家族の皆さん、「君は何者なのか」と問われた時、「自分がキリスト者であること」や「キリストを信じていること」は、私たちの心の中でどれくらいの位置を占めているでしょうか? 私たちがイエス・キリストを信じていることは、何にも勝るものであり、イエス・キリストは何にも代えがたいお方ではありませんか。それでは、改めて聞きましょう。「あなたは何者ですか?」 シャローム!



2024.9.15 本日の宣教

 『主イエス・キリストを信じながら 』          

                                                          ヤコブの手紙 2章 1~13節

1章の終わりでヤコブは、孤児ややもめに対する世話こそが主に喜ばれる信心であると語り、2章に入ると「教会内の差別の問題」を取り上げます。

「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。(1節)」…ここで私の心に刺さったのが「主イエス・キリストを信じながら」という言葉でした。私たちは主イエス・キリストを信じる者です。そのことこそが、キリスト者の命であり、すべてであると言えます。それなのに、「なぜ、あなた方は主イエス・キリストを信じながら、イエス・キリストの御心に反する生活をしていますか?」と、ヤコブは問いかけているのです。特に、主イエス・キリストを信じながら、主が誰よりも大切に受け入れてくださった貧しい者や弱い者たちを、どうして差別し、彼らを分け隔てしているのかという厳しい告発なのです。
旧約聖書から新約聖書に至るまで一貫して強調されているのは、「人は誰でも神の御手によって造られた尊い存在である」という事実でしょう。また、聖書全体の主題聖句とされるヨハネによる福音書3章16節では、父なる神が独り子イエス・キリストを与えられた理由は、すべての人が滅びることなく、永遠の命を得るためであることが強調されています。すなわち、「世のすべての人が滅びてはならない尊い存在であり、永遠の命を得るべき存在」であるということです。だからこそ、どんな人も、特に貧しい者や弱い者を分け隔てしてはならないのです。ましてや、差別や分け隔てがキリスト教会やキリスト者の間にあってはならないのです。
人間がもつ罪の属性の中で、最も深刻なものの一つが差別です。人類がこの世界に生き始めて以来、差別は絶えず繰り返され、ますます深刻化してきました。人が人を、国が国を、民族が民族を、男性が女性を、白人が有色人種を、主人が奴隷を、地主が小作人を、資本家が労働者を、ある宗教が他の宗教を、健康な人が障がい者を…。例を挙げればきりがありません。そして、知らないうちに私たちも、時には差別する側に立ち、また時には差別される側に立たされてきたのではないでしょうか。それほどまでに、私たちは差別を当然のことのように受け入れながら生きてきたのかもしれません。
そこでヤコブは、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い黄金律の律法を実行しながら、「分け隔て」をしてしまう人の例を挙げます。そして、律法の99%を守っていても、1%の律法を破れば、その人はすべての律法を犯した者となるのだと指摘します。
ヤコブは結論として、すべての律法の行いの基準となる「憐み」を生きるようにと勧めます。「憐み(ギリシャ語:エレオス)」とは、自分のはらわたがちぎれるほど、他人をかわいそうに思い、困っているのを見て世話をし、助けることを意味します。ですから、神から憐みを受けた者が他人に対して厳しい態度を取るなら、神の憐れみは消えてしまい、神の裁きを逃れることはできなくなるのです。裁きに打ち勝つことができる唯一の道は憐みです。私たちの神は、憐み深く、情け深いお方だからです。ハレルヤ!

2024.9.15 小さな泉の恵み

 ~おとな聖書を読んで~

旧約聖書のなかのお話で アブラハムがひとり子イサクをいけにえとしてささげるように、神様に命じられたことが記されています。神様がアブラハムに望まれたものは最も大切なものさえもささげるだけの信仰です。神様は愛するひとり子、イエス・キリストを人間の救いのために十字架につけられました。ここに神様の愛が私たち人間にそそがれているのです。

神様はイエス・キリストの犠牲によって私たちの罪をゆるし、永遠の命を与えてくださいました。

愛というのは一方通行ではいけません。お互いが同じ熱量で愛し合うのが理想的な愛のかたちです。神様に愛されている者として、私たちが犠牲を払ってでも仕えることが求められていると思います。

私には罪があります。まず、自分が求めているものを得ようとしますし、自己中心的です。これは的外れな生き方です。かみさまを中心として考えることができるように、また、愛してくださる方を第一として生きるように悔い改めたいと思います。

                                M.T.姉


2024.9.8 牧師室便り

  ~ 奥深く潜んでいる罪を取り除こう~

2週前から嫌な匂いがするエアコンの掃除に取り掛かっています。これまでは、どうすることもできないほど汚れたエアコンは掃除業者に頼んでいましたが、費用がかなりかかるため、今度はYouTubeの動画を参考にしながら自分で掃除することに挑戦しました。ただし、間違えると故障する可能性もあるため、慎重にエアコンの外側を解体し、掃除用のテープでエアコンの重要部分をしっかりと囲んでから作業を始めました。一般的な手入れとしては、ホコリがたまっている外側のフィルターを取り出して掃除機をかけるだけで終わりですが、目に見えるホコリだけを軽く取っただけでは、エアコンの奥深くから漂う嫌な匂いや空気をきれいにすることはできません。

そのため、機械の敏感な部分に水がかからないように気をつけて下準備をし、エアコンのアルミフィンと送風ファンに洗剤を細かくかけ、しばらく時間を置いてから水で洗い流しました。驚いたことに、エアコンの奥から次々と黒いカビの塊が流れ出てきました。こんなに汚れたカビが奥深くに隠れていて、それを吸っていたんだと気づかされました。

そして、次第にきれいな水が流れるのを見て心がすっきりし、感動を覚えました。掃除が終わった後は、暖房運転に切り替え、設定温度を最高に上げて回すことで内側のフィルターを乾かし、すべての作業が終了しました。かかった時間は2~3時間…。最後にエアコンがちゃんと動くか確認したところ、問題なく動いてくれたことにもう一度感動!…9月中には教会に設置されているエアコン全部の掃除の完了を目指そうと思っています。
エアコンの奥深くに隠れていた汚れたカビの塊が流れてきれいになるのを見ながら、私たちの内側に隠れて悪臭を漂わせている汚い欲望と罪の塊も取り除かなければならないと感じました。そして、この欲望と罪の汚れを完全に取り除く洗剤こそ、イエス・キリストの十字架の血潮しかないということ、その血潮によって罪が赦され、清くされたことを日々確かめつつ感動を覚える神の家族お一人おひとりでありますように…。シャローム!

2024.9.8 本日の宣教

   『御言葉を行う人?御言葉を生きる! 』          

                                                        ヤコブの手紙 1章 19~27節

本日の聖書本文には、二つの重要なキーワードが明確に浮かび上がっています。一つ目が「御言葉」、二つ目が「行う」です。つまり、「御言葉を行う人は幸せになる」という手紙の主題に焦点を当てて、内容を広げています。

ヤコブはまず、「聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅くしなさい」と、三つの命令を述べ、キリスト者として「早くすべきこと」と「遅くすべきこと」をわきまえた生活をするように導いています。

初代教会の伝承によると、教会の集まりは多くの場合、個人の家で行われていました。そして、これらの集まりでは、神の言葉が朗読され、聖書の真理について討論が行われていたようです。そこでヤコブは、言葉を聞いたり討論したりする際の正しい態度について指針を示しており、神の御言葉の前でのこれらの姿勢の目的が「神の義を実現する」ことにあると強調しています。あなたは、聞くことと話すことをどのようにわきまえていますか?

続けて、ヤコブは御言葉に対するキリスト者の行動に焦点を当てます。まず「御言葉を受け入れなさい」と勧めます。「心に植え付けられた御言葉」(21節)とは、生まれつきの御言葉ではなく、心の中に入ってきた御言葉、つまり、これまでに聞いてきて心に根付いている言葉を指します。ヤコブは「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」(21節)と教えます。これは、将来に成就する救いの完成を指します。福音を受け入れた人はすでに救われていると同時に、その救いの力と恵みを味わうことができます。御言葉には私たちに救いを与え、生きることへの確信と勇気、御国への希望を与えてくれる力があります。

しかし、御言葉をただ受け入れるだけでは不十分です。ヤコブは「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(22節)と強調します。ここで重要なのは、信仰が行いによって証明されるということです。ヤコブは、神の言葉を聞くだけで行わない者を「鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったかすぐに忘れてしまう人」に例えています。その通り、私たちは神の言葉を聞いて、そこに自分の姿が映し出されますが、すぐにその姿を忘れてしまうのであれば、何の意味もありません。つまり、神の言葉は私たちに自分の罪や弱さを示し、新しくなるようにと導く完全な鏡です。この完全な鏡に日々自分自身を照らし、御言葉を守り行う人は幸せになることを心に刻みましょう。

最後にヤコブは、真の信仰を持つ者がどのように生きるべきかを具体的な例を挙げて示します。それは、みなしごややもめ、つまり社会的に弱い立場にある人々が困っているのを見て世話をし、助けることでした。これこそが、「父である神の御前に清く汚れのない信心」(27節)であると教えます。

神の家族の皆さん、御言葉は聞いて満足するのではなく、聞いた御言葉を実践し生きることにこそ意味があります。私たちこそ、「主の憐れみを生きる群れ」であることを心がけて歩みたいものです。ハレルヤ!




2024.9.8 小さな泉の恵み

 ~聖書輪読と黙想の恵み~

わたしの教会で、毎主日の午後四時から三十分、小さな集会をいただいています。聖書を出席者同士で数節ずつ輪読し、1章読み終わったところで5分黙想をします。わたしの教会もいろいろと課題が多く、みことばと祈りが必要なんですが、特に主の前に「静まって」主日の教会を出たい、と感じた数名で始まりました。とにかく簡単に、語り合いもなく、賛美もなく、持ち回りの司会者が最低限短くお祈りしたあとは、耳に聞こえるのは順番で朗読するみことばのみ。みことば自体が持つ力に全て委ねます。何か言うのが苦手な人も、人の話を聞くのが苦手な人も、聖書だけを携えていつでも気軽に参加できます。牧師もほぼ毎回来ます。1ヶ月ほど毎週続いて、マタイから始めてもう18章まで来ました。これからいよいよ十字架に入ります。神の慈愛と峻厳に身を沈める時となりますように。 

                              S.M.姉(東京O教会)      


2024.9.1 牧師室便り

 ~ 命の糧を偏らず食べよ ~

皆さんの中で、聖書を通読された方はいらっしゃいますか? 昔は聖書通読が信仰者の基本とされていましたが、近頃は忙しくて、聖書を読む時間がないと感じている方も多いでしょう。この忙しい日本社会を生きるクリスチャンとして、私たちは最低限でも御言葉をいただき、その御言葉を糧として歩むことが重要です。そのため、私たちの教会では『リビングライフ』を用いて、毎日、霊の糧として聖書の御言葉をいただくことを心がけています。

しかし、リビングライフでほんの少しの聖書の御言葉をいただいても、問題となるのは、なじみのある聖書箇所、特に新約聖書の福音書や手紙など、分かりやすいところを好む傾向があることです。一方で、あまりなじみのない箇所、特に旧約聖書の律法の書や預言書などがテキストになると、短い本文であるにもかかわらず、なかなか深い黙想には至りにくいのが現実かもしれません。

ある人々は、旧約聖書は読まなくても良いのではないか、イエス・キリストの十字架と復活の福音だけで十分だと考えるかもしれません。そのため、新約聖書の御言葉、特に福音書を重んじ、他の箇所を単なる飾りだと思う方がいるのも事実です。

しかし、ぜひ覚えていただきたいのは、創世記からヨハネの黙示録に至るまで、聖書66巻のすべてが聖霊の感動によって書かれたものであり、それらすべてが神の御心を示す生ける神の言葉であるということです。福音書や新約聖書の救いの言葉を重んじる方々も、新約聖書が旧約聖書の御言葉の約束の土台の上に成り立っていることを忘れないでください。

この9月は教会学校月間です。皆さんの聖書に対する視野をぜひ広げましょう。偏った食生活が後に病を引き起こすように、信仰生活でも偏って聖書の御言葉や霊の糧を受け取ることで、父なる神が備えてくださった広い恵みを享受できなくなることがあります。そのため、教会学校、火曜日の聖書の学び、水曜日の祈祷会での黙想の分かち合いを大切にしましょう。御言葉こそ、わが道、わが光、わが力、命…。シャローム!



2024.9.1 本日の宣教

 『試練と誘惑を見分けて生きる 』          

                                                        ヤコブの手紙 1章 12~18節

これまでの学びを通して、ヤコブは「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい!」と勧めていました。試練こそ、神が神の子どもを鍛える方法であり、その試練を通して忍耐を養う道となるからです。そして、今日の箇所でヤコブは「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」と教えます。「幸いです」という言葉は、主イエスの山上の説教で語られた言葉を思い起こさせます。

以前にも分かち合いましたが、「試練」(ギリシャ語: ペイラスモス)には二つの意味があります。①試練(外側からやってくる攻撃)、②誘惑(内側からやって来る攻撃)の二つです。神は時として、外側からやってくる試練を通してキリスト者の信仰をテストされます。ですから、私たちは試練を耐え忍ばなければなりません。この試練とは、苦難や迫害などの「外側から来る試練」を指します。ヤコブの手紙をはじめとする聖書の中では、そのような試練を耐え忍んだ勝利者は「命の冠」、すなわち永遠の命を得ることを約束しています(黙示録2:10)。
続いてヤコブは、内側から来る試練である「誘惑」について語ります。特に、自分自身の欲望に引かれ、唆されて誘惑に陥ることについて語ります。これは内的試練である誘惑(temptation)を指します。ユダヤ教の伝統の中には、諸悪の根源を「欲望」と見る考え方があり、ヤコブもそれを踏まえて語っているのです。多くの場合、人々は自分の誤りのために苦しみに陥っても、その責任を神に負わせようとする傾向があります。これは初代教会当時から見られた誤りです。そのような間違った考えに対して、ヤコブは「神は悪の誘惑を受ける方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないお方です」と断言します。なぜなら、神の性質がそれを許さないからです。神は悪とは無関係であり、悪を経験したことのない方です。それゆえ、人を誘惑することもありません。人自らが誤って誘惑に陥ったのに、それを神によるものだと言うのは誤りです。ヤコブはここで、「欲望と罪と死」の関係を生命体の誕生と成長過程にたとえています。「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます(15節)。」その通り、欲望を放置しておくと、罪を犯すようになり、罪を繰り返し犯すと、死に至ります。 
最後にヤコブは、父なる神は真理の言葉をもって私たちをお生みになったことを伝えます。これは生ける御言葉による新生(創造)を意味します。私たちが霊的に新生したのは、父なる神によるものです。「御心のままに」とは、私たちが新生できたのは父なる神が熱心に願われた結果であることを示します。私たちは、自分の努力によって救われるのではなく、神がしてくださったことによって救われるのです。
さらにヤコブは、私たちを新生させてくださったのは、私たちを「初穂」にするためであると教えます。ここで「初穂」とは、人間が神の特別な愛を受けている存在すなわち、「初穂」とは、尊い存在、栄光ある存在を意味します。…日本人への伝道や家族伝道において、神が私たちを「初穂」として生んでくださったことを覚えましょう。そして、「初穂」があるということは、それに続く収穫があることも覚えましょう。ハレルヤ!


2024.9.1 小さな泉の恵み

 8月25日主日礼拝のなかで平和をテーマに行われた酒井富夫兄(富山大学名誉教授)特別講演「聖書と被造物ケア」は、とても興味深い内容でした。礼拝の中での限られた時間だったので、講演の内容をすべて理解することはできませんでしたが、被造物をケアするように神様から示された私たちが、「地」をもっと理解することが必要だと考えさせられました。富山県は、環境に対する負荷(二酸化炭素(CO2)の排出など)を少なくするために有機農業の面積を現在の240haから2026年には300hsにするという具体的な目標を設定しています。酒井兄は、有機農業推進のリーダーとして、この目標の達成のために尽力されています。

私の知る限り、富山県で有機農業を推進している営農事業所は、県外から移住された方が多いです。土遊野、小原営農センター、白雪農園など都会から富山の魅力に誘われて移住し農業者になった方々です。

一方、私の住んでいる太田南町では、農業従事者の高齢化により、町内で米の生産をしている専業農家は、年々減少しています。私は、慣行農業と有機農業のバランスの取れた拡大が必要だと考えています。

私は、教会では坂上兄の寄付してくださる野菜に酒井姉の野菜が加わり、そして、釣った鮎を地域の方々に差し上げ野菜と物々交換することによって、豊かな野菜生活が送れる幸いに感謝しています。

                                  島田 茂


2024.8.25 牧師室便り

  ~ 平和運動の可能性を広めよう ~

この2週間、知人から車を借りて韓国全国を回る旅をしました。11年ぶりに韓国で運転をしましたが、運転席が右から左に変わり、道路も右側通行となったため、何度も道を間違えたり、ナビが教える方向を誤ったりしてしまうことがありました。

そんな中、ナビに従いながらも何度も道を誤る自分自身の姿を、「ハマルティア」(罪)を犯した罪人に重ねて考えるようになりました。ギリシャ語の「ハマルティア」は「的外れ」という意味です。神が人に予定し、また神が人に望まれた道から自分勝手に逸れ、神に反逆することが罪であると聖書は教えています。

そして、この罪の中で最も大きな的外れとなるのが戦争ではないかと思います。聖書では「殺してはならない」と十戒で教えていますし、主イエスがこの世に来られた理由は、一人も滅びないで永遠の命を得るためだと語られました。主イエスは一人の人の救いのためにこの世に来られたのに、人類は戦争を通してあまりにも多くの命を奪ってきましたし、今もなお変わりません。神の目から見ると、決して赦されない、最も大きな罪、それが戦争なのです。

8月は平和を覚える月ですが、多くの場合、「平和」とは戦争や武器が取り除かれた世界という、政治的・軍事的な意味で使われてきました。しかし、最近では「平和運動」の範囲が広がり、気候変動に伴うエネルギーを巡る問題や食料問題、水問題なども平和を脅かす要因となっている状況です。
今日の礼拝の第二部では、酒井富夫兄を通して「聖書から見る農業問題や環境問題」について学ぶことになります。酒井兄は日本における有機農業の権威者であり、有機農業、自然栽培を教えながら食糧問題に対応する活動を広めておられます。
神の家族の皆さん、私たちが平和を実現するためには、まず私たちの身の回りでできる平和の活動を始めることが大切です。本日の学びが、平和を実現するためのヒントを得る時となりますように…。シャローム!

2024.8.25 本日の宣教

  『 希望の神から喜びと平和が 』          

                                                          ローマの信徒への手紙15章13節

本日の御言葉は、ローマの信徒への手紙の祝祷に当たる箇所です。これは、使徒パウロがキリスト教会の皆に贈る心を込めた祝福の祈りでした。パウロがいかに神から与えられた希望を大切に抱き、その希望を育み、希望に満ち溢れて生きていたのかがよく分かります。

神の家族の皆さん、あなたはどんな「希望」によって生活しているでしょうか。お金に対する希望を抱く人もいれば、進学や就職、結婚、老後に対する希望を持つ人もいるでしょう。…この「希望」というものは、クリスチャンであっても、ノンクリスチャンであっても関係なく求められるものであり、生きるために必要不可欠なものであると言えるでしょう。
社会心理学者のエーリッヒ・フロムは、人間を「希望する存在」と定義しました。そうです。人間は夢と希望を持つことで初めて人間らしく生きることができるのです。人間と動物の違いは何でしょうか?動物は食べ物さえあれば生きていけます。しかし、人間は食べ物だけでは生きられません。希望を糧にし、夢を持ってこそ人間らしく生きることができるのです。また、有名な実存主義哲学者キルケゴールは、「絶望こそが人間にとって最も恐るべき『死に至る病』である」と述べました。…人が希望を失ってしまえば、死んで当然の状態になります。…現在の日本社会では、毎年2万人を超える人が自ら命を絶っています。その理由の根本には、「希望」を失ったということがあるのでしょう。…希望を見出そうと切に求めたが、その希望を見出せなかったために、絶望してしまったのでしょう。
それでは、本日の御言葉に耳を傾けたいと思います。
まず、パウロは「希望の源である神が」という表現を使っていることから、神を信じるキリスト者は神からの希望がなければ生きていけない存在であることを伝えています。これを逆に言えば、希望のない人は死んでいる人であるということになるでしょう。そこでパウロは、真の希望の源である神から、真の喜び、真の平和をいただきなさい!と勧めているのです。
パウロは、「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」と祈ります。ある注解者は、パウロが語るこの希望について次のように説明しています。「パウロがここで言及している希望とは、異邦人がユダヤ人と共に真の唯一の神を讃美することである」と。ユダヤ人と異邦人が共に神を讃美すること、それが13節でパウロが祈った希望の具体的な姿であるというのです。ユダヤ人であろうと異邦人であろうと関係なく、神の御心に従ってすべての人が一つになって神を讃美し、神に栄光を帰すこと、これがパウロの祈りであり、パウロの希望であり、夢であったのです。
そこで求められるのが、何よりも「聖霊の力」です。私たちの力ではできないので、その力を求めるしかありません。パウロは祈ります。「聖霊の力によって希望があふれるように」と。神に栄光を帰す美しい教会になることが、私たちの希望となることを願います。ハレルヤ!


2024.8.25

 ~広島 夏の思い出~

20歳の時、夏休みを利用して父が単身赴任をしていた広島を訪れました。父は広島駅まで迎えに来てくれて、そこから広島の繁華街や平和公園など市内観光をしました。その時平和公園の原爆ドームを見たり、川縁を歩いたりした記憶はあるのですが、原爆資料館に行った覚えがないのです。何故行かなかったのかは定かではありませんが、遠い過去の話、内容の凄絶さに見なかったことになっているのかと思ったりもしています。        

それから数年後に、父はその次の赴任地の大阪で、57歳の若さで突然この世を去りました。その数年前の最初で最後の父との二人旅。共に歩いたあの時の広島は、原爆ドームの向こう側に青く澄んだ夏空が広がり、市内を流れるきれいな川や並木の緑も深く、色々な花が咲き、商店街は賑わい、行きかう人々の姿など、平和そのもののような風景でした。  

子供の頃、夏になると父は私たち兄弟姉妹によく戦争の話をしてくれました。冗談好きで優しかった父が伝えてくれた戦争の話と、二人で歩いた平和で美しかった広島が私の大切な夏の思い出です。

世界で初めて原爆を落とされた広島・長崎が原爆兵器の被害の壮絶さと戦争の悲惨さ、平和の大切さを教えてくれる場所として、これからも戦争を知らないたくさんの人々が訪れ、戦争の悲惨さと平和の大切さを知る場所であり続けますように。  

                                S.Y.姉

2024.8.18 牧師室便り

     ~ オリンピックと戦争、平和作り ~

 「平和の祭典」と呼ばれていたパリオリンピックが終わりを告げました。連日の日本選手団からのメダルの朗報を確かめつつ、寝不足になっていたことでしょう。

ところが、世界中の人々がこの平和の祭典に盛り上がっていたその時、ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ、さらにはイランをはじめとする他の中東の国々へ戦争が広がりつつあり、その激しさも増してきました。

今回の旅の途中、親の墓も訪問しました。親が納められている墓地は、韓国戦争に参加した参戦勇士たちの墓です。1952年、朝鮮戦争の時に父も入隊し、何度も命の危機に迫られていたと聞かされました。父にとって同じ民族に銃を向けなければならない悲しい戦争は、二度と味わいたくない悲劇であったことでしょう。しかし今もなお、北と南の間には戦争が終わっていない「休戦線」があり、いつでも戦争が再開されてもおかしくない状況を生きています。そんな中、10月に入隊する息子のことを考えると、いろいろと複雑な思いに包まれる近頃です。

 先週、パレスチナのあるお父さんが誕生した双子の出生届を出すために外出した際、イスラエルの空爆によって双子を含む家族全員が死亡したという悲しいニュースの映像を見ました。10ヶ月以上続いたイスラエルとハマスの戦争で、これまでに4万人に及ぶパレスチナ人が死亡し、そのうち16,400人は子供であり、その中には115人の新生児が含まれていたそうです。主の憐れみと慰めを祈るばかりです。
人間の罪と欲望がもたらした最も厳しい悲劇こそ戦争です。戦争はどんな理由でも正当化されない罪です。平和を祈るこの季節を過ごしながら、主イエス・キリストの十字架にすがりつつ、十字架による真の平和の福音を作り出していく私たちでありますように…。シャローム!

2024.8.18 本日の宣教 

 『 手で作ったものなどは神ではない 』          

                                                         使徒言行録19章23~40節

現在私が住む山形市中心部は、歴史的に神社・仏閣が非常に多い町です。山形市の資料館において、400年前の山形城下町の地図を見る機会がありましたが、その当時からすでに山形城の周りにある寺院の数の多さに大変驚きました。江戸時代初期の山形城の城下町には71ヵ所もの寺院が存在したということです。改めて、地図を見ながら山形の歴史を実感しておりました。しかし、これはどこの日本の地方においても同じような状況だろうと思います。日本のあちこちにいわゆる神とされるものが多く祭られているわけです。各地で開催されるお祭りも宗教的意味合いがルーツとなっている場合がほとんどです。               

そういう意味では我々人間は、文化の中からでも神を造り出してしまう存在であるといえます。神ではないものを神とすること、これも、人間社会の文化の中で成されるものですし、あろうことか、私が神だという人間までもが誕生してしまうわけです。私たちは、自分で意識することなく、日本という自分が生まれ育った社会とか文化に、決定的な影響を受けています。   それは自分が意識してもいなくとも、すでにそういった文化・風習・伝統といった言葉の中で、当たり前のように育まれて、自然と私たちには、それらのものが染みついているということなのです。

今朝、与えられている聖書のみことばは、日本のように、大変偶像の多かった町、エフェソの町でおきた騒動が書き記されています。エフェソには、当時その規模の大きさ故に、世界七不思議(ピラミッドなどと同じ)の一つに数えられていた、アルテミスの神殿がありました。世界の七不思議の一つに数えられるほど大きな神殿には、全アジア州はもとより、各地からの参拝者が絶えることがなかったそうです。ですから、エフェソの町は、大きな港町であり、アジア州の都であると同時に、このアルテミス神殿の町という側面も持っていたのです。
パウロはこの偶像があふれるエフェソの町でも、十字架と復活のイエス・キリストの福音を、真の神について告げ知らせたのです。私たちは、手で造ったものではない、人間が都合よくつくりあげたものではない、真の神を信じるものたちです。主イエス・キリストの福音は、この国においても、この現代社会においても、力を発揮し、影響を与え、正義と平和を打ち立てていく力となることができる、そう堅く信じて共に歩んでまいりましょう。            

                      日本バプテスト連盟  
                       山形キリスト教会 宮田祐亮牧師


2024.8.18 小さな泉の恵み

 連日、暑い日が。…田んぼの中で作業をしていると、近所の方から差し入れを頂くことが有ります。先日も帰ってから妻に「今日、マサヨシさんのお母さんからお茶の差し入れ貰った。『キリンの生茶』の本物。あんたの嘘っこ生茶じゃなくて!」「嘘っこ生茶って何?(妻)」「この前、あんた『キリン生茶』飲んでた時、一口貰ったら、中身ウチで沸かした麦茶やったやろ!コロナの後遺症で味覚が麻痺したかと思って焦ったわ。」「へへぇ。バレたかぁ。『キリン生茶』のペットボトルに麦茶を入れると高級感が出ていつもの麦茶が美味しく感じるのさ!(妻)」「チョット何言っているのかわからない。生茶は緑茶、麦茶は麦茶。違う物やろ。何で美味しくなるの?麦茶の気持ちも考えてあげてよ。麦茶は麦茶として頑張って美味しくなってくれているのにそんな風に言われたら悲しい気持ちになるでしょう。可哀想なこと言わんといて。」 私たちは何かと他人と比べがちですが、神様は私たちに違う賜物を与えてご自分のご計画に従って導いて下さいます。それぞれの個性と役割が調和をなし、主のお働きとなされますように。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。(ペトロの手紙第一4:10)」

                                S.Y.兄

2024.8.4 牧師室便り

 ~慰めよ、慰めよ~

「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。(イザヤ40章1節)」

 先日行われた「小さな泉のカフェ」は、本当に神の導きと恵みであったとしか言いようのない、祝福されたひとときでした。出発から終わりまでのすべての過程が神の備えであって、神の助けと守りでした。まさしく何から何まで、神の助けと備え、励ましをいただく時であったと信じています。

何より感謝だったのは、8人のわずかな奉仕者たちの働きによって、柳田公民館に集まった皆さん一人ひとりが励まされ、慰められ、また喜びを感じておられたことです。私たちが特別に何か偉いことをしたとは思いません。ただ、私たちは「人を慰めなさい」という神の命令に従っただけでした。

今年度の小泉町教会の主題は「主の憐れみに生きる教会」です。この主題は、今年元日に発生した能登大地震に遭われた方々への神の憐れみを分かち合うようにと命じられる御心への応答でした。しかし、神の命令を実践するにあたって、私たちは小さな群れであって何の力もありませんが、小泉町教会の神の家族は常に困難や苦しみの中にある人々への開かれた心、主イエスの命令に対して素直に従う心を持っていることを感謝しています。今までの「小さな泉の村」をはじめとする諸活動、また試練の中にある諸教会への支援と協力にも積極的に応答してくださったことは牧師にとって大きな喜びでした。

9月から私たちは月一度、被災地に出かけることになります。第一回目の奉仕が恵みで満たされたからといって、すべてがうまくいくという保証はありません。時には失望することもあるでしょうし、思わぬ問題が起きることもあるかもしれません。それでも私たちは主の導きと祝福を信じて出かけたいと願います。神が「ここまでだ」と言われるところまで、最善の奉仕をしていきたいです。神の家族の皆さんもぜひ心を合わせ、祈りと力を合わせ、神の国の素晴らしさを広げていきましょう。真に「神の憐れみに生きる教会」として、主に喜ばれる教会としての歩みが続けられますように・・・・。シャローム!



2024.8.4 本日の宣教

  『 逆説の福音による平和 』     

                  ヤコブの手紙1章9~11節

今までキリスト者にやってくる試練についてどう受け止めるべきか、また試練に向かってキリスト者はどう祈り、どのように試練を通して神の栄光を表すべきかについて学びました。そのような中でヤコブは突然、貧しい兄弟と富んでいる者の話に移ります。おそらくヤコブが手紙を書いていた教会、つまり宛先の共同体に貧富の問題が生じていたことを垣間見ることができます。

ヤコブは手紙の中で、貧しさと富がキリスト者の試練の現場と結びついていることを記します。貧しさと富は私たちの信仰を成熟させたり、または失望させたりする道具として用いられることを覚えます。私たちの日常生活の中で私たちを一喜一憂させるお金の問題について、ヤコブは驚くべきことを伝えます。 

「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。(1:9~10)」

これは主イエスの山上の説教の「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(マタイ5:3)」の御言葉とつながっていることが分かります。ヤコブは「貧しい兄弟」に「自分が高められることを誇りに思う」ようにと勧めます。これこそ、この世の価値観ではなく、神の国の価値観によって生きるキリスト者に与えられる逆説的な恵みです。この世において経済的に貧しい境遇にある兄弟は、キリストにあって、キリストのゆえに霊的に富んでいて、神の国をいただいた神の子どもとして高められることが約束されていることを宣言します。そのことを誇りに思いつつ、今を生きることを勧めているのです。

これとは対照的に、この世において富んでいる者に対して、「自分が低くされることを誇りに思う」ようにと勧めます。「低くされること」とは、卑しさを意味します。この卑しさは、神の御前でのへりくだった態度を指します。富んでいる者が自分の低くされることを誇りにする理由は、彼の人生が草花のように滅び去って行くからです。この世における富も、権力も、みな過ぎ去って行くものです。しかし、私たちは多くの場合、神に拠り頼むよりも、富に拠り頼んでしまいます。そこでヤコブは富というものは草花のようにはかないものであって滅び去ってしまうと警告します。ですから、富んでいる人は神の国をいただくためにへりくだり、霊的な貧しさを覚え、自分が低くされることに誇りを持つようにと心がけながら生きなければなりません。

8月は平和を覚える時ですが、今現在も世界各地において戦争が広がっていることに心が痛みます。その戦争の大きな原因となっているのが、「富」の問題であることを忘れてはなりません。人類の歴史において、「富」のゆえに戦争が起き、「富」のゆえにテロが続き、争いが絶えないことを目の当たりにしています。あなたは何を誇りとしていますか。草花のような富ですか。永遠なる神の国の栄光ですか。…ハレルヤ!



2024.8.4 小さな泉の恵み

 ~1ミリのしもべ~

小泉教会の門を叩いてから(実際は大声で名乗ることになりました。恥ずかしいかぎりです)、早8か月が経とうとしています。この間、本当にこの教会に来ることが主の御心なのだろうかと疑問に思うことがしばしばでした。主の御心が知りたい、確信が欲しいと思っていました。その答えは夫にありました。会議等で日々忙しくしていた夫が日曜日の午前を空け、一緒に礼拝を守るようになりました。しかも午後の集会にも出席してくれるようになりました。私は、日曜日は疲れて車の運転が不安でしたが、夫が時間を守り運転してくれるお陰で、楽に遅れることなく一緒に礼拝に出席できるようになりました。感謝です。20数年前、月を友にして毎晩夫の救いの為に祈りました。しかし、なかなか共に礼拝を守り続けることができませんでした。今は小泉教会で共に守っています。これが主の御心だと分かりました。

私達は主のために大きな働きができるような器ではありません。また、主が受けられたような激しい苦しみも負えません。しかし、1ミリのことなら、あるいは「2匹の魚」を捧げる事ならできるでしょう。自分達の手に力がある時には拒まず、隠すことなく主に捧げていきたいと思います。愚直に、臆することなく。小さな事でも覚えていて下さる主に喜ばれるように。小泉教会の上に主の祝福がありますように祈ります。      

                           S.H.姉