2024年9月18日水曜日

2024.9.15 本日の宣教

 『主イエス・キリストを信じながら 』          

                                                          ヤコブの手紙 2章 1~13節

1章の終わりでヤコブは、孤児ややもめに対する世話こそが主に喜ばれる信心であると語り、2章に入ると「教会内の差別の問題」を取り上げます。

「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。(1節)」…ここで私の心に刺さったのが「主イエス・キリストを信じながら」という言葉でした。私たちは主イエス・キリストを信じる者です。そのことこそが、キリスト者の命であり、すべてであると言えます。それなのに、「なぜ、あなた方は主イエス・キリストを信じながら、イエス・キリストの御心に反する生活をしていますか?」と、ヤコブは問いかけているのです。特に、主イエス・キリストを信じながら、主が誰よりも大切に受け入れてくださった貧しい者や弱い者たちを、どうして差別し、彼らを分け隔てしているのかという厳しい告発なのです。
旧約聖書から新約聖書に至るまで一貫して強調されているのは、「人は誰でも神の御手によって造られた尊い存在である」という事実でしょう。また、聖書全体の主題聖句とされるヨハネによる福音書3章16節では、父なる神が独り子イエス・キリストを与えられた理由は、すべての人が滅びることなく、永遠の命を得るためであることが強調されています。すなわち、「世のすべての人が滅びてはならない尊い存在であり、永遠の命を得るべき存在」であるということです。だからこそ、どんな人も、特に貧しい者や弱い者を分け隔てしてはならないのです。ましてや、差別や分け隔てがキリスト教会やキリスト者の間にあってはならないのです。
人間がもつ罪の属性の中で、最も深刻なものの一つが差別です。人類がこの世界に生き始めて以来、差別は絶えず繰り返され、ますます深刻化してきました。人が人を、国が国を、民族が民族を、男性が女性を、白人が有色人種を、主人が奴隷を、地主が小作人を、資本家が労働者を、ある宗教が他の宗教を、健康な人が障がい者を…。例を挙げればきりがありません。そして、知らないうちに私たちも、時には差別する側に立ち、また時には差別される側に立たされてきたのではないでしょうか。それほどまでに、私たちは差別を当然のことのように受け入れながら生きてきたのかもしれません。
そこでヤコブは、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い黄金律の律法を実行しながら、「分け隔て」をしてしまう人の例を挙げます。そして、律法の99%を守っていても、1%の律法を破れば、その人はすべての律法を犯した者となるのだと指摘します。
ヤコブは結論として、すべての律法の行いの基準となる「憐み」を生きるようにと勧めます。「憐み(ギリシャ語:エレオス)」とは、自分のはらわたがちぎれるほど、他人をかわいそうに思い、困っているのを見て世話をし、助けることを意味します。ですから、神から憐みを受けた者が他人に対して厳しい態度を取るなら、神の憐れみは消えてしまい、神の裁きを逃れることはできなくなるのです。裁きに打ち勝つことができる唯一の道は憐みです。私たちの神は、憐み深く、情け深いお方だからです。ハレルヤ!

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