2024年9月18日水曜日

2024.9.1 本日の宣教

 『試練と誘惑を見分けて生きる 』          

                                                        ヤコブの手紙 1章 12~18節

これまでの学びを通して、ヤコブは「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい!」と勧めていました。試練こそ、神が神の子どもを鍛える方法であり、その試練を通して忍耐を養う道となるからです。そして、今日の箇所でヤコブは「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」と教えます。「幸いです」という言葉は、主イエスの山上の説教で語られた言葉を思い起こさせます。

以前にも分かち合いましたが、「試練」(ギリシャ語: ペイラスモス)には二つの意味があります。①試練(外側からやってくる攻撃)、②誘惑(内側からやって来る攻撃)の二つです。神は時として、外側からやってくる試練を通してキリスト者の信仰をテストされます。ですから、私たちは試練を耐え忍ばなければなりません。この試練とは、苦難や迫害などの「外側から来る試練」を指します。ヤコブの手紙をはじめとする聖書の中では、そのような試練を耐え忍んだ勝利者は「命の冠」、すなわち永遠の命を得ることを約束しています(黙示録2:10)。
続いてヤコブは、内側から来る試練である「誘惑」について語ります。特に、自分自身の欲望に引かれ、唆されて誘惑に陥ることについて語ります。これは内的試練である誘惑(temptation)を指します。ユダヤ教の伝統の中には、諸悪の根源を「欲望」と見る考え方があり、ヤコブもそれを踏まえて語っているのです。多くの場合、人々は自分の誤りのために苦しみに陥っても、その責任を神に負わせようとする傾向があります。これは初代教会当時から見られた誤りです。そのような間違った考えに対して、ヤコブは「神は悪の誘惑を受ける方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないお方です」と断言します。なぜなら、神の性質がそれを許さないからです。神は悪とは無関係であり、悪を経験したことのない方です。それゆえ、人を誘惑することもありません。人自らが誤って誘惑に陥ったのに、それを神によるものだと言うのは誤りです。ヤコブはここで、「欲望と罪と死」の関係を生命体の誕生と成長過程にたとえています。「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます(15節)。」その通り、欲望を放置しておくと、罪を犯すようになり、罪を繰り返し犯すと、死に至ります。 
最後にヤコブは、父なる神は真理の言葉をもって私たちをお生みになったことを伝えます。これは生ける御言葉による新生(創造)を意味します。私たちが霊的に新生したのは、父なる神によるものです。「御心のままに」とは、私たちが新生できたのは父なる神が熱心に願われた結果であることを示します。私たちは、自分の努力によって救われるのではなく、神がしてくださったことによって救われるのです。
さらにヤコブは、私たちを新生させてくださったのは、私たちを「初穂」にするためであると教えます。ここで「初穂」とは、人間が神の特別な愛を受けている存在すなわち、「初穂」とは、尊い存在、栄光ある存在を意味します。…日本人への伝道や家族伝道において、神が私たちを「初穂」として生んでくださったことを覚えましょう。そして、「初穂」があるということは、それに続く収穫があることも覚えましょう。ハレルヤ!


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