『 手で作ったものなどは神ではない 』
使徒言行録19章23~40節
現在私が住む山形市中心部は、歴史的に神社・仏閣が非常に多い町です。山形市の資料館において、400年前の山形城下町の地図を見る機会がありましたが、その当時からすでに山形城の周りにある寺院の数の多さに大変驚きました。江戸時代初期の山形城の城下町には71ヵ所もの寺院が存在したということです。改めて、地図を見ながら山形の歴史を実感しておりました。しかし、これはどこの日本の地方においても同じような状況だろうと思います。日本のあちこちにいわゆる神とされるものが多く祭られているわけです。各地で開催されるお祭りも宗教的意味合いがルーツとなっている場合がほとんどです。
そういう意味では我々人間は、文化の中からでも神を造り出してしまう存在であるといえます。神ではないものを神とすること、これも、人間社会の文化の中で成されるものですし、あろうことか、私が神だという人間までもが誕生してしまうわけです。私たちは、自分で意識することなく、日本という自分が生まれ育った社会とか文化に、決定的な影響を受けています。 それは自分が意識してもいなくとも、すでにそういった文化・風習・伝統といった言葉の中で、当たり前のように育まれて、自然と私たちには、それらのものが染みついているということなのです。
今朝、与えられている聖書のみことばは、日本のように、大変偶像の多かった町、エフェソの町でおきた騒動が書き記されています。エフェソには、当時その規模の大きさ故に、世界七不思議(ピラミッドなどと同じ)の一つに数えられていた、アルテミスの神殿がありました。世界の七不思議の一つに数えられるほど大きな神殿には、全アジア州はもとより、各地からの参拝者が絶えることがなかったそうです。ですから、エフェソの町は、大きな港町であり、アジア州の都であると同時に、このアルテミス神殿の町という側面も持っていたのです。
パウロはこの偶像があふれるエフェソの町でも、十字架と復活のイエス・キリストの福音を、真の神について告げ知らせたのです。私たちは、手で造ったものではない、人間が都合よくつくりあげたものではない、真の神を信じるものたちです。主イエス・キリストの福音は、この国においても、この現代社会においても、力を発揮し、影響を与え、正義と平和を打ち立てていく力となることができる、そう堅く信じて共に歩んでまいりましょう。
日本バプテスト連盟
山形キリスト教会 宮田祐亮牧師
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