2024年9月18日水曜日

2024.9.8 本日の宣教

   『御言葉を行う人?御言葉を生きる! 』          

                                                        ヤコブの手紙 1章 19~27節

本日の聖書本文には、二つの重要なキーワードが明確に浮かび上がっています。一つ目が「御言葉」、二つ目が「行う」です。つまり、「御言葉を行う人は幸せになる」という手紙の主題に焦点を当てて、内容を広げています。

ヤコブはまず、「聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅くしなさい」と、三つの命令を述べ、キリスト者として「早くすべきこと」と「遅くすべきこと」をわきまえた生活をするように導いています。

初代教会の伝承によると、教会の集まりは多くの場合、個人の家で行われていました。そして、これらの集まりでは、神の言葉が朗読され、聖書の真理について討論が行われていたようです。そこでヤコブは、言葉を聞いたり討論したりする際の正しい態度について指針を示しており、神の御言葉の前でのこれらの姿勢の目的が「神の義を実現する」ことにあると強調しています。あなたは、聞くことと話すことをどのようにわきまえていますか?

続けて、ヤコブは御言葉に対するキリスト者の行動に焦点を当てます。まず「御言葉を受け入れなさい」と勧めます。「心に植え付けられた御言葉」(21節)とは、生まれつきの御言葉ではなく、心の中に入ってきた御言葉、つまり、これまでに聞いてきて心に根付いている言葉を指します。ヤコブは「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」(21節)と教えます。これは、将来に成就する救いの完成を指します。福音を受け入れた人はすでに救われていると同時に、その救いの力と恵みを味わうことができます。御言葉には私たちに救いを与え、生きることへの確信と勇気、御国への希望を与えてくれる力があります。

しかし、御言葉をただ受け入れるだけでは不十分です。ヤコブは「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(22節)と強調します。ここで重要なのは、信仰が行いによって証明されるということです。ヤコブは、神の言葉を聞くだけで行わない者を「鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったかすぐに忘れてしまう人」に例えています。その通り、私たちは神の言葉を聞いて、そこに自分の姿が映し出されますが、すぐにその姿を忘れてしまうのであれば、何の意味もありません。つまり、神の言葉は私たちに自分の罪や弱さを示し、新しくなるようにと導く完全な鏡です。この完全な鏡に日々自分自身を照らし、御言葉を守り行う人は幸せになることを心に刻みましょう。

最後にヤコブは、真の信仰を持つ者がどのように生きるべきかを具体的な例を挙げて示します。それは、みなしごややもめ、つまり社会的に弱い立場にある人々が困っているのを見て世話をし、助けることでした。これこそが、「父である神の御前に清く汚れのない信心」(27節)であると教えます。

神の家族の皆さん、御言葉は聞いて満足するのではなく、聞いた御言葉を実践し生きることにこそ意味があります。私たちこそ、「主の憐れみを生きる群れ」であることを心がけて歩みたいものです。ハレルヤ!




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