2024年11月5日火曜日

2024.11.3 牧師室便り

 ~ 小さな泉のカフェの感動 ~

先週木曜日、二回目の「小さな泉のカフェ」が神の恵みのうちに終わりました。小泉町教会から9名、I教会から2名、計11名のボランティアが参加し、特に体調が万全でない中でも力を尽くしてくださった方々に感謝します。

朝8時半に教会を出発しましたが、道中で通行止めや道に迷う場面もありましたが、無事に柳田公民館に到着し、地元のお弁当を昼食にいただきながら役割を確認し、下準備を開始しました。ちょうど同じ時にテレビでは大谷選手のドジャースがワールドシリーズで優勝したニュース流れ、公民館の方々や住民の皆さんと共に喜びました。

カフェの開始は3時でしたが、多くの方が早めに来られたため、祈りと共に2時50分からオープンしました。住民の皆さんが私たちの訪問を心待ちにしてくださっていた喜びを身をもって感じながら、活動を始めました。始まって20分ほどで、神の家族の皆さんが作ってくださったパウンドケーキ、シフォンケーキ、スイートポテト、プリンはすぐに完売され、その後はメインのチヂミとチャプチェ、飲み物を提供しました。住民の皆さんから「おいしい」「嬉しい」「待ってました」と温かい言葉をいただきながら、ボランティアたちも慰めと励ましを感じました。始まってから約30分後、島田兄による楽しい挨拶とオープニングの歌があり、日本の歌謡曲や誕生日のお祝い、その後、皆さんへのプレゼントとして賛美歌をも披露し、喜びの拍手に包まれました。1時間が経つ頃にはほとんどの住民がおいでになり、地域新聞の記者も取材に来られました。そして最後のお客さんとして若い夫婦と3人の子どもが訪れ、心温まるひと時を過ごしました。

5時過ぎに職員の皆さんと集合写真を撮り、次回11月28日の再会を約束し帰路につきました。帰りの途中、サービスエリアで美味しく夕食を食べ教会に到着し解散しました。疲れた中でも献身的に奉仕してくださった参加者の皆さん、また執り成しの祈りと支えてくださった神の家族に感謝します。キリストの癒しと慰めが豊かに注がれますように・・。災害に見舞われた方々や地域の皆さんに、私たち小泉町教会の小さな群れが小さな慰めを届けられたことを感謝し、すべてを備えられ導かれ祝福された神を賛美します。シャローム!



2024.11.3 本日の宣教

  『神の友と呼ばれたい』

                                                        ヤコブの手紙 2章 18~26節

信仰と行いの一致は、神の子どもたちへの父なる神の御心です。ヤコブは2章で「行いのない信仰は宗教的偽善であり、信仰がないからこそ愛の行いができないのだ」と強調しています。つまり、ある人の言葉と行いが一致しなければ、人々はその人の言葉ではなく、行いによってその人物を判断するようになります。

ヤコブは、信仰と行いが一致していた例として、アブラハムとラハブの二人を挙げています。特に、アブラハムが神に義とされるために息子イサクを献げた出来事が取り上げられます。100歳の時に奇跡的に与えられた息子イサクをいけにえとして献げるようにと神に命じられたアブラハムは、創造主であり復活の神への絶対的な信頼をもって、この試練に立ち向かいました。

その時のアブラハムの信仰についてヤコブは次のように記しています。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです(23節)。…聖書の中で「神の友」と呼ばれた人はアブラハムだけです。それほど彼は神との親密な関係を持っていました。「神の友」とは、単に神を信じる者を指すのではなく、神を深く信頼し、神の御心を理解し、その御心に従順に具体的な行いをもって応える者を指します。アブラハムが示した信仰は、まさに神に対する従順と献身によって完成されたものでした。そうです。信仰とは、頭の中の思いや感情にとどまるものではなく、具体的な行動によって示されるべきものです。

最後にヤコブは、「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。(26節)」と強調します。信仰とその信仰に基づく行いは、決して切り離せるものではありません。

「神の友と呼ばれたい」と願う私たちにとって、信仰は心の中にあるだけでなく、その信仰がどのような行いに結びついているかが重要です。アブラハムやラハブのように、神への信仰を具体的な行動で示すとき、神は私たちを喜び、「友」と呼んでくださるでしょう。

愛する神の家族の皆さん、私たちも日々の歩みの中で、神の愛と信仰を行動に表しましょう。苦しみの中にある隣人を愛し、困難に直面しても信仰の決断と行いをもって神に従うとき、私たちは神の友としての親しい関係を築くことができます。

願わくは、お一人おひとりが神の友と呼ばれる人となり、神と隣人に喜ばれる信仰者としての歩みを続ける日々でありますように…。

ハレルヤ! 

                




2024.11.3 小さな泉の恵み

 ~食料高騰(食料危機)に備える~

米国、ハリケーン「ミルトン」の破壊的な風、大雨、高潮に備え、フロリダ州の肥料工場は10月9日に閉鎖されました。その工場では米国のリン酸肥料輸出全体の約40%、肥料輸出全体の27%がその地域から輸出されています。今後のリン酸塩市場はさらに逼迫するでしょう。リン酸は植物の生育にとって欠かせないものであり、根の生育を良くしたり、開花・結実を良くする必須肥料です。それが不足してくるということは、今後肥料が高騰し、野菜やその他の食料が高騰してくることを意味しています。今年は暑さのせいで野菜が育たず、高騰していますが、来年もさらに高騰することが予想されます。「結局芋を食べるのかあ。」と思いきや、芋の生産も上手くいかなくなるかもしれません。

そこでお勧めなのが家庭菜園です。人口を養うのにベースとなる慣行農法ではどうしても大量生産・大量供給するために化学肥料が必要となります。しかし、家庭菜園ならば、化学肥料を使わずとも野菜を作ることができます。米ぬかにはリン酸が多く含まれていますし、他の栄養素も含まれています。是非とも米ぬかと微生物の力を借りて、病気に負けない元気野菜を作って健康な体作りに取り組んでいきませんか。始めは作りやすい物からでよいです。それから少しずつ自信を付けて、次第に自給率を高めていくことが食料高騰時代を生き抜く知恵ではないでしょうか。

                       S.H.姉

2024.10.27 牧師室便り

  ~ キリストの体に加わる恵み ~

本日の礼拝では、Sご夫妻の入会式が行われます。昨年12月から教会に通い始め、まもなく1年を迎えようとされています。この1年間、S夫妻を通して多くの恵みをいただけたことを、心から感謝します。

S夫妻はご存知のとおり、それぞれ大学で学生たちを教えておられました。それからリタイア後、S兄は有機農業の普及に力を注いでこられています。その中で何より嬉しかったことは、ご夫妻が毎週の礼拝に欠かさず出席されていることと、神の家族の皆さんとも良い交わりを深めてこられたことでした。そしていよいよお二人は、富山小泉町キリスト教会のキリストの体の一部分として、神の家族の群れに加わりたいとの思いを与えられ、今日の入会式を迎えることになったのです。

「教会の約束」の中の「教会は人によって成ったものではなく、神によって成ったものと信じる」という言葉のとおり、私たちの教会は神の御手によって成り立っていることを告白します。これまでも確認してきたように、出会いは神の御業です。まさしくS夫妻が私たちの教会に導かれたこと、ご夫妻に入会の思いが与えられたこと、そして神の家族がご夫妻を喜んで迎え入れるようになったことは、すべて聖霊の働きによる恵みです。

今までもそうでしたが、これからの小泉町教会は、キリストの健康な体を築き上げるため、体の各部分となる神の家族一人ひとりが、それぞれに与えられた固有の賜物をできる限り生かしながら歩んでいくことを願っています。それぞれの賜物が教会の働きの中で十分に用いられることで、神の栄光が現れ、キリストの健康な体が築き上げられることを祈ります。

どうか小泉町教会の群れを通して、S夫妻が幸いな信仰生活を与えられ、またご夫妻を通して教会全体が祝福を受けることができますように…。互いに最善を尽くして支え合っていきましょう。シャローム!



2024.10.27 本日の宣教

 『 あきらめず叩こう 』

                                                   マタイによる福音書7章7~8節

主イエスは、神に祈ることを教えるために「求めなさい」「探しなさい」「たたきなさい」という三つのことを勧めておられます。特にこれらの動詞は命令形の現在進行時制であるため、本来の意味は「求め続けなさい」「探し続けなさい」「叩き続けなさい」となります。つまり、主イエスの勧めに従って忍耐をもって祈り続けるなら、「与えられる」「見つかる」「開かれる」という神の応答が保証されているのです。これは、神の子どもたちの祈りに対する父なる神の確かな約束です。

私たちは時に、「神は本当に私たちの祈りを聞いておられるのか?」と疑ってしまうことがあります。しかし、神は常に私たちの祈りを聞き、最善の答えを用意してくださいます。そして、神の時に、私たちの想像を超える祝福として応えられることになります。そこで大切なことが「あきらめず」に、求め、探し、たたくことなのです。

特に、本日の御言葉が示そうとしているのは、「祈りを聞いてくださる神への信頼」です。主イエスは、父なる神への信頼をもって祈り続ける姿勢を、神の子どもたちに求めておられます。したがって、祈りが叶うかどうか以上に、すべてをご存じであり、すべてを聞いておられ、良しとされる時に応答してくださる神に対して信頼をもって粘り強く祈り続けること自体が、キリスト者の信仰の成長につながるのです。

先週の2024年チャペルコンサートでは、本当に大きな恵みと喜びに包まれました。特に感謝したのは、しばらく神の家族の交わりから離れていた方々が再び礼拝に集まり、喜びの涙をもって互いを確認し合えたことでしょう。

この出来事を通して、私たちは改めて、教会から離れている他の方々のことを思い起こし、彼らが戻ってくることへの期待が一層強まったことでしょう。
主イエスはいろいろなたとえ話を語られる中で、常に強調されていた姿勢がありました。それこそ、一人を救うために「決してあきらめられない」姿でした。
良き羊飼いのたとえ話では、一匹の羊が群れから離れてさまよっていたことを、そのまま放っておくことはしません。羊飼いは山の隅々まで探し回り、危険や試練を乗り越えて見つけ出します。そして、とうとうその失われた羊を見つけたときには、肩に背負って帰り、喜びのあまり周りの人々を招いて祝宴を開きます。また、ルカによる福音書14章23節では、「無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と命じておられます。この言葉には、神が失われた人々に向ける熱情の愛が込められており、そのために私たちを遣わそうとしておられるのです。
愛する神の家族の皆さん、もしかすると、私たちは神に対して祈る時も、また大切な人への福音伝道においても「あきらめる」ことに慣れてしまってはいないでしょうか。失われた者を探し出して喜ぶことこそ、私たちの父なる神の御心です。そして、それこそ私たちが備えるべき姿勢でもあります。そうです、あきらめずに叩き続けることが大切なのです。
ハレルヤ!


2024.10.27 小さな泉の恵み

 日曜の夜、妻に、「えーん😭 教会でまたある方に『あなたは面倒くさい!』って言われたよーっ。何とかしてよ、ドラえもん。」「『しょうがないなぁ、のび太くん。』って誰が ドラえもんや。言うてもしずかちゃんやろ!普通は、面倒くさい本人に『面倒くさい』とは言わないもんだけど、その人は正しい。あなたは確かに面倒くさい。(妻)」 「そうなの?」 「まぁ、それだから『あなた』って言うか、面倒くさく無いあなたは、あなたじゃな い。あなたを扱えるのは私しかいないか ら、教会では大人しくしていれば。(妻)」 「でもそれだと自分じゃ無くなるんでしょ?」「あっ、いいこと思いついた(妻)」「何か良い道具が有るの?」「だからドラえもんじゃないって😠。名前を『免独斎(めんどくさい)』に改名するの。今度『面倒くさい』って言われても、『はーい』って返事しとかれ。(妻) 」「へぇー。なんか剣豪みたいな名前だね。」

旧約聖書のホセア書の1章では、預言者ホセアの子供にイズレエル(イスラエルの滅亡の意)、ロ・ルハマ(あわれまれない者)、ロ・アンミ(私の民では無い)という名前が付けられます。  背きの民を嘆き、裁きと断絶が示された極めて切ない話です。信仰の深まらない私に下さる名前はやはり「メン・ドクサイ」だろうか?

 「あなたは、あなたの神に立ち返り、誠実と公正を守り、絶えずあなたの神を待ち望め。(ホセア書12:6)」

                         S.Y.兄

2024.10.20 牧師室便り

 ~ 心の貧しい者は幸い ~

 聖書には、貧しいやもめと金持ちの献金の場面が描かれています。やもめは200円ほどのわずかな金額を献げ、隣の金持ちは多くの金貨を献げました。これを見た主イエスは弟子たちに「どちらが多く献げたのか」と問いかけます。弟子たちは当然、金持ちを選びましたが、主イエスは「金持ちは有り余る中から献げたが、やもめは乏しい中からすべてを献げた」と教えられます。神は額の大小よりも、感謝と愛の心からの献げものを喜ばれるのです。人はうわべを見ますが、神は人の心を見ておられることを覚えましょう。

小泉町教会は小さく弱い群れです。それでも、「もらうより与える方が幸いである」という御言葉を与えられ、苦しむ人々に助けの手を差し伸べるように命じられました。その御心に従い、約9年前から「路上生活者の自立を助けなさい」というビジョンが与えられ、「小さな泉の村」を立ち上げ、毎月一度、弁当や食品などを提供する活動を始め、今に至っています。また、今年の元日に発生した能登半島地震の際も、神から「被災地の人々を助け、慰めなさい」との使命が与えられ、能登町の小さな村との出会いが与えられ、支援活動を始めました。本日も被災地支援のためのチャリティーコンサートを開催する運びとなりました。

最近、不思議な出来事がありました。それは、教会の玄関前の聖句が書かれた壁の上に、毎日少しずつ硬貨が置かれるようになったのです。最初は置き忘れかと思いましたが、何日も続いたため、掲示板の支援活動の案内に心を動かされた方が、自分の持っている小さなものを献げられたのかもしれません。

神が求められる献げものは、心の貧しさを持ちつつ、人に見せるための大げさではなく、感謝と喜びをもって、周りの最も小さな人に神の愛の手を差し伸べることです。持っている小さなものを喜んで献げる人を、神は喜ばれるのです。

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイによる福音書25章40節)」

シャローム!



2024.10.20 本日の宣教

 『 嘆きから喜びの歌が 』

                                                       詩篇30篇12~13節

~You  raise me up~

悲しみに沈むとき 苦しみに悩むとき

私は立ち止まり待つ 主が来てくださるのを

You raise me up 険しい山も

You raise me up 嵐の日も

あなたがそばにいるから わたしは強くなれる


渇いて命尽きても 心が休めなくても

あなたが満たしてくれた 永遠の喜び見る

You raise me up 険しい山も

You raise me up 嵐の日も

あなたがそばにいるから わたしは強くなれる


主が支えてくださると わたしは強くなれる

主がわたしに力を  与えてくださるから

You raise me up 越えて行ける


人生において、嘆きは誰にとっても避けられない現実です。思い通りにいかない状況、大切な人との別れ、病気や災害、心が折れそうな時――私たちは日々、多くの苦しみを経験します。

しかし、嘆きの現実を受け入れるだけで終わらないのが、聖書の教えです。詩篇30篇12節では、嘆きを踊りに、悲しみを喜びへと変える神の力を告げています。このような変化は、単なる気持ちの切り替えではなく、神との関わりを通して実現するものです。

「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え」とあるように、愛なる神は悲しみをそのままに置かず、そこに希望と新しい働きを始められます。 「荒布」は、死の悲しみや悔い改めを象徴する衣ですが、神はそれを取り除き、喜びの衣をまとわせてくださいます。この変化は私たちの力ではなく、神の恵みと介入によって実現します。

愛なる神は、今悲しみや苦しみに悩む人々、嵐のような試練に心が折れそうになっている人々に近づいてくださり、彼らを支え、立ち上がらせてくださると約束されています。

神の家族の皆さん、今、試練の中で涙を流している能登半島の災害地の方々の上に、主の愛の御手が置かれ、人知を超えた慰めと助け、勇気と希望で満たしてくださるよう祈りましょう。そして、私たちが出かけて行き、神の愛と御心を届けましょう。ハレルヤ!




2024.10.20 小さな泉の恵み

 ~ 岡山の地から ~

先日、岡山神召教会に新大阪第一アッセンブリー教会の西海馨師を招き、礼拝説教が行われました。「兄弟たちが一つになってともに生きることは(詩編133:1)」は、今切に求められていることです。

例えとしてイスラエルとガザ、ロシアとウクライナ、ミャンマーの内戦が挙げられていましたが、元々は仲良く暮らしていたのに今はお互い非難しあい戦争が続いています。翻って私にも弟がいますが、体が不調ということで農作業や親の介護等で分担できず困っています。仲良くともに生きるということは簡単ではないと思っています。ところで、ウクライナは穀倉地帯で人口が増えれば優良な土地の奪い合いが戦争の一要因になっています。

現在、日本ではほとんど輸入依存しているパン小麦のみならず米までも高騰しています。米は昨年の不作であるとかインバウンドの影響とか言われていますがこれは国が減反政策を続けていることも関係しています。気候変動により高温障害や干害等で米生産環境は厳しく、一方で戦争により肥料等の資材価格は高騰し、生産者にとって二重苦です。とはいえ、日本は島国ですので、戦争により食料輸入が止まれば大変です。弟の関係も含めて一日も早く平和な世の中になるよう祈りながら、食料生産に貢献していきたいと思っています。

                             K.K.兄

2024.10.13 牧師室便り

   ~ クリスチャン首相を迎えて ~

新たに首相に選ばれた石破茂氏は、敬虔なクリスチャンとしても知られています。彼は鳥取教会で18歳の時にバプテスマを受け、東京に移った際には、世田谷の伝道所で日曜学校の教師を務めていたこともあり、現在も鳥取教会の会員として信仰生活を続けているといいます。また、彼の母方の家系は四代続くクリスチャンで、曾祖父の金森氏は熊本バンドのメンバーとして活動していたそうです。

石破首相は公に自分がクリスチャンであることを表明し、今年の日本国家祈祷会では、「議員になろうが大臣になろうが、人間というものは神の前では塵芥のような存在であり、できることは『罪人の私をお赦しください』ということと『御心ならば御用のためにお用いください』ということしか、結局のところ祈ることしかできないのではないかなと、日々思っているところです」と語ったそうですね。

しかし、彼は常にキリスト教の教えと政治活動の間で葛藤しており、その苦悩を隠すことなく、そうした中で神の声に耳を傾け続けているとも述べています。さらに、「同じ信仰を持つクリスチャンからの批判が一番辛いことだ」とも告白しています。

私はこの混沌とした時代において、彼がクリスチャンとして新しく首相に選ばれたことに、神の御心があると信じています。日本の人口の中でクリスチャンが1%にも満たない中で、一人のクリスチャンが日本の首相となったのです。まさしく厳しい世界情勢や危機的な状況の中で、彼がどのような政策を打ち出し、どのような決断を下し、どのようにして平和な国へと日本を導いていけるか注目しています。

もちろん、様々な場面で妥協を強いられることもあるでしょうし、私たちを失望させるようなこともあるかもしれません。しかし、石破首相が常に神の御心に従い、神の国と神の義をまず優先して求めることができるよう、知恵と力が与えられるよう、神の家族も共に祈りをもって支え、主の助けと導きを求めたいと願っています。

シャローム!



2024.10.13 本日の宣教

 『試練の中で響き渡る讃美  』          

                                                       詩編 22編1~6節

詩人は苦しみと絶望の叫びから詩を始めています。詩人ダビデにとって、神は日々の助けであり、常に信頼を置いてきた存在でした。しかし今、彼は「なぜわたしをお見捨てになるのですか?」と叫ばなければならないほどの状況に追い込まれていることが分かります。

とりわけ2節の「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」の言葉は、十字架の上で叫ばれた主イエスの嘆きの言葉として知られています。つまり、キリスト自身が人類の罪を背負い、父なる神から見捨てられたかのような深い孤独と絶望の中に置かれていたのです。その時に主イエスが叫ばれた言葉です。

私たちも信仰生活の中で試練が重なり、祈りが届かず、神が沈黙されているように感じるとき、心が揺れ動いてしまいます。そのとき私たちは神に叫ぶのです。そして試練の中での私たちの叫びに、主イエスは共感され、共に泣いてくださることを覚えましょう。それから、叫びそのものが神への信頼の表れであり、信仰者の持つ「希望のしるし」であることを忘れてはなりません。

続けて詩人は、神の過去の働きを思い起こし、神の民に対する守りと救いの歴史を振り返ります。嘆きの叫び声をあげていた詩人は、「だが、あなたは、聖所にいましイスラエルの賛美を受ける方」(4節)と告白し、イスラエルの先祖たちがどのようにして神に信頼し、救いを得たかを思い出しています。ここで「だが」とは、苦しみの中で「しかし、それでも」と信仰を告白する心の姿勢を指しています。この一言に、信仰者の揺るぎない確信が表れているのです。たとえ現実が神から見捨てられたかのように見えても、愛なる神は決して揺るがず、私たちの賛美を受けてくださるお方(他の訳では「賛美の中に住まわれる方」)であることを告白できるのです。

私たちは、耐えられない試練の中で孤独や絶望を感じるとき、自分の経験や感情だけに囚われがちです。しかし、詩人は、神がどのようにして過去にその民を救い、導いてこられたかを振り返り、神の変わらない愛を思い起こします。これが信仰者の持つ強さです。状況がどれほど困難であっても、神の真実なお姿は変わらず、依り頼んで、裏切られたことはない事実に目を向けるべきだと教えているのです。

神の家族の皆さん、試練は私たちを圧迫し、神を疑わせようとします。しかし、試練を通して私たちは、神の偉大な御業をより深く経験する機会を得るのです。試練の中でこそ、私たちの賛美はより強く、より美しく響き渡ることができます。何も問題がないときに歌う賛美も美しいですが、涙と共にささげられる賛美には特別な力があり、それは神に喜ばれるものです。

次週はチャペルコンサートが執り行われます。特に今年のチャペルコンサートは、元日に発生した能登半島地震と先日起きた豪雨による災害支援を目的としたチャリティーコンサートとなります。ぜひチャペルコンサートを通して、試練の中で歌われる賛美を受けてくださる神をほめたたえ、その賛美を用いて試練の中にいる人々を力づけ、希望の光を照らしてくださる神に感謝を献げたいと願います。ハレルヤ!




2024.10.13 小さな泉の恵み

 狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、生命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。  (ルカ13-24)

私は、体調が整わず、最近、礼拝に行くこともできていません。

たまに、祈祷会にzoomで参加するだけです。

うなされて寝ていると、リビングライフを開く余裕も無くて辛いです。

たまに、体調が回復したら、聖書を開いて、みことばに触れると、明るい落ち着いた気持ちになれます。

人それぞれ、皆さん違う苦労を背負うと思いますが、感謝する喜びを持てることは、何よりの恵みで、生きている介を感じます。

喜びは、狭き門を通ることにあるように思います。  

                        S.N.姉

2024.10.6 牧師室便り

  ~ 主に知られる恵みを ~

先週の水曜日、敬愛する富山N教会のI牧師が心筋梗塞で召されたとの知らせが届きました。I先生とは教派も違い、深い交わりを持つことはありませんでしたが、富山市民クリスマスの委員会でお会いするたびに、いつも笑顔で接してくださり、常に熱心に福音伝道に励んでおられた先生でしたので、突然の知らせに驚きと悲しみでしばらく何も手につきませんでした。

木曜日の前夜式、そして翌日の葬儀・告別式では、多くの方々が先生の生涯を偲びました。司式を務められたK教会のK先生のメッセージの中で、I先生は末期の膵臓癌と診断され、しばらく入院生活をされていましたが、病床にあっても伝道集会の準備などに取り組んでおられ、退院されることを信じておられたとのことでした。

I先生の最初の赴任地は能登半島の輪島教会で、そこで結婚し、長男を授かったそうです。そのため、今年の能登半島の地震と豪雨による被害は先生の心を深く痛め、輪島教会の復興に尽力しておられたそうです。葬儀では、先生の遺志により、お花料を輪島教会の復興に用いるようにとの願いが伝えられました。

K先生は詩篇22篇とガラテヤ4章の御言葉を取り上げ、「神は私たちを決して裏切られることのないお方であること、また神が私たちを知っておられること」を語られ、I先生への神の御心を示されました。
私たちも突然の病の宣告や愛する者との突然の別れを経験することがあります。しかし、私たちの神はすべてをご存知であり、決して私たちを裏切ることなく、神の子どもとされた人々への十字架と復活、永遠の命と御国への約束を必ず成し遂げられることを信じ、神の御手にすべてを委ね、与えられた人生を全うしていきたいと願います。
I先生の突然の召天に悲しみの中にあるご遺族やN教会の皆さんの上に、主イエスの慰めと助けが注がれますように祈りましょう。神の家族の皆さんも、先に天に召された愛する神の家族を偲びつつ、天の御国の希望を抱きながら、福音伝道の歩みを続けてまいりましょう。お一人お一人の人生とすべての歩みが神に知られていることを覚え、御手にゆだねつつ祝福された歩みを続けましょう。
シャローム!

2024.10.6 本日の宣教

 『 生きるために 』          

                                                   ヤコブの手紙  2章14~18節

聖書の主題は「愛」です。このことを知らない人はいないでしょう。そして、聖書はその愛について次のように教えています。…イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ22:37~38)

すなわち、愛には「神への愛」と「隣人への愛」があり、その二つの愛が神の御言葉の土台であることが教えられています。ですから、この二つが一つに結び合わされるときにこそ、本当の愛、すなわち聖書が語る愛が完成するのです。

ところが、多くのキリスト者の場合、この愛に関して「神と自分」、つまり「神と私」という一対一の関係にとどまっているように感じられてなりません。神を愛することにとどまり、隣人を愛することにはあまり関心を示さないキリスト者が多いのではないでしょうか。

これについては、ちょうどヤコブの手紙が書かれた時代にも同様の傾向があったことがうかがえます。初代教会でも、個人の救いに関する教えが強調されていました。しかし、聖書は個人の救いとともに、隣人を愛し、社会全体の救いをも大切に語っています。この二つが一つになることによって、私たちは生きたキリスト者として、神に喜ばれる存在となるのです。

本日私たちは、ヤコブの手紙の主題である「行いを伴わない信仰は死んだものである」という信仰の核心について分かち合いたいと願います。

本日の御言葉では、信仰を構成する二つの要素、「言葉」と「行い」を取り上げます。特に、ここでの「言葉」とは口先だけの言葉のことを指しています。二元論的な考え方で、聖書の教えとは一致しません。
ヤコブはさらに進み、信仰と愛の関係について説明します。彼は、主にある信仰の兄弟姉妹に対して善い行いをするように促し、切に助けを求める人々に対して、行いの伴わない言葉を述べる信徒を叱責しています。口先だけで美しい言葉を並べても、愛の行いが伴わない言葉は空しいものであり、助けを求める人にとっては何の役にも立ちません。おそらくヤコブは、マタイ25:31-46の主イエスのたとえ話を土台にして語ったのかもしれません。「『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』(マタイ25:45)」
ここで、ヤコブはこの書簡の主題とも受け取れる言葉を残しています。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(17節)と。
ヤコブは「キリスト者の信仰には、生ける信仰と死んだ信仰がある」ことを教えています。そして、信仰と行いを切り離そうとする人々に警告しています。信仰と行いを分離して考えることはできません。真の信仰は、行いとは別に存在するものではなく、神が喜ばれる行いは真の信仰に基づいて実行されるものです。私たちが生きるために、愛に基づいて行う信仰を心がけましょう。
ハレルヤ!


2024.10.6 小さな泉の恵み

 年々気候温暖化のためか、日本でも気温が40°を超える地域がありました。日本で今年最も暑かったのは、栃木県佐野市で7月29日に41°を記録しました。これまでの最高気温は、埼玉県熊谷市と静岡県浜松市で41.1°だったそうですが、今年は佐野市に負けて市民は悔しがっていました。

同じように世界で一番暗いことで有名な地域があります。ニュージーランドの南島にあるテカポ湖で、世界で最も美しい星空を見ることができる場所として知られています。テカポでは、住民たちが星空を守るために、街灯の明かりをオレンジ色にしたり、光が漏れないようカーテンを閉めたりするなど、さまざまな取り組みを行っているそうです。

9月26日に豪雨災害で再び大きな被害を受けた能登町柳田地区と輪島市をYMCAの支援活動の調査と打ち合わせのために、日本YMCA同盟のスタッフと訪問しました。

 二度の大災害に出会った住民や支援従事者は、心が折れ希望を失いかけています。

私は、支援の宿泊拠点として、輪島市朝市から海岸線を車で10分くらい北上したところにあるねぶた温泉能登の庄という旅館に泊まりました。深夜に駐車場に設置された仮設トイレに行くと、潮騒の聞こえる凛とした夜空は満天の星でした。

豪雨により空は澄み渡り、被災により街灯は減り、暗い中に天の川をくっきりと眺めることができました。「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネによる福音書1:5)

人々は希望を失いかけていますが、輪島塗のように、何度でも再生する希望の町として、輪島市をはじめ能登半島に希望の光が増していくことを祈ります。   

                                  島田 茂兄


2024.9.29 牧師室便り

   ~ あなたの信仰の打率は? ~

今年の秋、MLBの大谷選手がホームランと盗塁の記録を更新し、大記録を打ち立てる姿に毎日が興奮の連続です。まるで別世界から来たかのようなパフォーマンスに拍手を送りたいですね。かつて前人未到の50-50(ホームラン50本、盗塁50回)を期待していましたが、大谷選手はあまりにも簡単にその記録を超え、現在は55-55に向けて、さらに前進し続ける姿に心から感動します。

多くの場合、有名な野球選手でさえ、打率3割を超えれば一流とされますね。大谷選手の打率も3割に達しています。10回打席に立てば3回はヒットを打ち、その中で55本のホームランが生まれているのです。

牧師は毎週の説教において、毎回信徒たちに感動を与えるようなメッセージを伝えたいと望みます。しかし、説教がうまくいかず、失敗したと感じることもあります。牧師たちの会話の中でよく話題になるのが、説教も野球のように10回のうち3回ほど感動を与えることができれば、それはトップクラスではないかということです。これはおそらく、互いに慰め合うための言葉ですが、それほど毎回心に響く説教をするのは難しいものです。それは牧師だけの責任というより、信徒の受け止め方にもよるのではないでしょうか。

それでは、神の家族の皆さんの日常の信仰生活に「打率」をつけるとすれば、皆さんの打率はどれくらいでしょうか?3割、あるいは5割、6割の成績を収めながらも、「すべてにヒットを打たなければ」と自分を低く評価していないでしょうか?私自身、牧師になってから「信徒に喜ばれる説教をしたい」「皆から愛される牧会をしたい」と望んできましたが、これは牧師に限らず、キリスト者の誰もが求めることだと思います。とはいえ、すべての人を満足させるのは容易ではありません。だからこそ、大谷選手を3割の打率で称賛するように、私たちも互いに励まし合うことが大切です。

教会で奉仕をするとき、証しをするとき、あるいは賜物を用いるとき、人々の評価を気にするよりも、まずは神様に喜ばれることを心がけましょう。そうすれば、主イエスは「あなたは素晴らしい」と語りかけてくださるはずです。私たちの小さな奉仕やメッセージが、たった一人にでも届くなら、それこそが最高の喜びではないでしょうか。互いに応援し合い、共に成長していく神の家族でありますように。シャローム!



2024.9.29 小さな泉の恵み

 ~「今」を生きる力をください ~

小泉町で過ごした9月の1ヶ月間、暗唱聖句として、また礼拝説教や聖書の学びにおいて、そして不思議なことに韓国の青年部のオンラインの分かち合いでも、黙示録の御言葉に触れました。

「時が迫っている」。青年同士だと、学校の課題の締め切りやテストが近い人、教会でお祈りや賛美を任された人、もうすぐ軍隊に行く人など、気が気でない状況の人によく冗談のようにかけられる言葉です。緊張感を高めるためなのか、むしろ心を和ませるためなのか、祈られていることを示すためなのか、様々なケースがあると思いますが、やはり力がある言葉だと感じます。

与えられた「時」を生きながら、神様や人々への感謝と愛でいっぱいになったり、自分の無力さと罪に気づき悲しんだり、様々な感情の渦の後に必ず、御言葉への確信と神様への信頼に導かれることに感謝です。初めのごとく今も何時も世々に生きておられる方が、時空を破って迫って来られ、「今」を生きる力をくださいます。この告白をするにふさわしいものでありますように。

多くのみ言葉を読み、語ってきましたが、主はそれを「守る」ものを「幸い」と言われます。「時が迫っている」ことを知るものとしての幸いが、どの場所どの時においても、神の国を生きるものとしてくださいますように。     

                            M.J.兄

2024.9.22 牧師室便り

 ~ 心細くなる時に ~

最近の物価高により、お米や野菜、果物などの食料品を買うことが非常に不安に感じられています。もちろん、ガソリンをはじめとする生活用品のほとんどが値上がりしている状況です。

特に、お米は日本人の食生活に欠かせない大切なものですので、その値段がほぼ2倍に上がっていることに戸惑いを覚えます。周りからは、先日の南海トラフ巨大地震への恐れで買い占めが起こった結果だとか、新米が出回る時期には値段が上がってしまうからだと言われていますが、実際のところどうでしょうか。

その一方で、今年の米の輸出量が史上最高だというニュースを見ながら、「これはどういうこと?」と日本政府の政策に首をかしげる日々です。特に、お米は教会の昼食や小さな泉の村にとって欠かせないものであるため、祈りながら最善を尽くしたいと考えています。

二つの戦争や自然災害が、こうした事態を引き起こした原因でありますが、すべては人間の欲望がもたらした悲劇と言えるでしょう。この悲劇がどこまで影響を及ぼし、いつまで続くのかを予測することは難しい状況です。しかし、だからといって不安に駆られ、心配ばかり抱えるのではなく、愛なる神が「昼は雲の柱、夜は火の柱」で荒野の民を導き養われたように、私たちも神に信頼を置き、「まず神の国と神の義を求めて」歩みたいものです。シャローム!



2024.9.22 本日の宣教

 『御言葉を朗読し、聞き、守る幸い 』          

                              ヨハネの黙示録 1章 3節

「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。」…私たちはこの短い一節を通して、初代教会の信徒たちがどのように神の御言葉に触れていたかを知ることができます。とりわけ、本日の御言葉は、神の言葉が朗読され、その言葉を聞き、そして守り実践することの重要性について、さらにその背後にある「終末の時の緊迫感」について教えています。

特に、本日の御言葉から注目すべきは、「朗読する」「聞く」「守る」という三つの動作です。この三つの動作は、単なる順番に過ぎないのではなく、信仰における御言葉を受け取る信仰者の基本的な姿勢であり、信仰生活の土台を示していると言えるでしょう。

まず、「朗読する人」とは、神の言葉を他者に伝える人を指します。これは、牧師や説教者だけでなく、神の言葉を共有するすべての信徒に当てはまります。私たちは、神の御言葉を他の人々に伝える責任を持っています。これは特定の人々だけに与えられた使命ではなく、すべての救われたキリスト者が担う使命です。神の言葉には力があり、語られた言葉は無駄に終わることなく、必ず新しい変化をもたらすと信じます。したがって、神の言葉を朗読する機会が与えられるとき、私たちは恐れることなく、大胆に、そして忠実にそれを伝えるべきです。

次に「聞く人」です。これは単に耳で聞くだけではなく、心で受け止め、理解しようとする姿勢を含みます。主イエスはしばしば「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われましたが、それは単に言葉を音として聞くだけでなく、心を開き、受け入れ、その言葉が私たちの内面を変えてくださることを許すことを意味しています。まさしく、聖霊によって語られる言葉を聞くことは、信仰生活の核心であり、霊的成長につながるものです。

最後に、「守る人」です。これこそ、御言葉が求める最も重要な要素だと言えるでしょう。神の言葉を守るとは、聞いた言葉を単なる情報として受け取るだけでなく、日常生活で実践することを意味します。主イエスは、聞いても実践しない者を「砂の上に家を建てる愚かな者」と言われ、逆に、神の言葉を守り実践する者を「岩の上に自分の家を建てた賢い人」と言われました(マタイ7:24~27)。その通り、私たちは神の言葉を守り、実践することによって真の幸いを得ることができるのです。

ヨハネは、御言葉を朗読し、聞き、守ることの幸いを迫り来る世の終わりの時と結びつけて語ります。「時が迫っている」とは、終末を生きるキリスト者が備えるべき緊迫感を表しています。願わくは、日々、御言葉との親しい交わりの中で時代をしっかり見極め、主イエスが約束された再臨と神の国の成就を信じて待ち望む、幸いな神の家族でありますように…。ハレルヤ!




2024.9.22 小さな泉の恵み

 9月の始めに主人と2人で小笠原諸島へ行ってきました。

小笠原へは飛行機が無いので、東京から24時間の船旅になります。洋上では電波が届かないため、往復48時間デジタルデトックスができました。こんなに長時間携帯から離れたのは初めてでした。昼間はデッキで360°島も何もない大海原を眺めました。近くに島もないのに、どこからともなく鳥たちがやってきて、船と並んで飛び、たまに海へダイブしてゆきます。野生の力強さを感じました。

夕食を食べた後はデッキで就寝するまで満天の星空を眺め、流れ星を必死に探しながら、この光は何百年まえのものだろうと壮大なスケールに圧倒されました。

デジタルデトックスして大自然の中にいたこの期間中、神様の温かい懐を肌で感じ、果てしない大きな創造の技を見、この世界の美しさに感銘を受けました。

これは神さまにしか絶対に造れない。

                          K.K.姉