2024年11月5日火曜日

2024.10.6 本日の宣教

 『 生きるために 』          

                                                   ヤコブの手紙  2章14~18節

聖書の主題は「愛」です。このことを知らない人はいないでしょう。そして、聖書はその愛について次のように教えています。…イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ22:37~38)

すなわち、愛には「神への愛」と「隣人への愛」があり、その二つの愛が神の御言葉の土台であることが教えられています。ですから、この二つが一つに結び合わされるときにこそ、本当の愛、すなわち聖書が語る愛が完成するのです。

ところが、多くのキリスト者の場合、この愛に関して「神と自分」、つまり「神と私」という一対一の関係にとどまっているように感じられてなりません。神を愛することにとどまり、隣人を愛することにはあまり関心を示さないキリスト者が多いのではないでしょうか。

これについては、ちょうどヤコブの手紙が書かれた時代にも同様の傾向があったことがうかがえます。初代教会でも、個人の救いに関する教えが強調されていました。しかし、聖書は個人の救いとともに、隣人を愛し、社会全体の救いをも大切に語っています。この二つが一つになることによって、私たちは生きたキリスト者として、神に喜ばれる存在となるのです。

本日私たちは、ヤコブの手紙の主題である「行いを伴わない信仰は死んだものである」という信仰の核心について分かち合いたいと願います。

本日の御言葉では、信仰を構成する二つの要素、「言葉」と「行い」を取り上げます。特に、ここでの「言葉」とは口先だけの言葉のことを指しています。二元論的な考え方で、聖書の教えとは一致しません。
ヤコブはさらに進み、信仰と愛の関係について説明します。彼は、主にある信仰の兄弟姉妹に対して善い行いをするように促し、切に助けを求める人々に対して、行いの伴わない言葉を述べる信徒を叱責しています。口先だけで美しい言葉を並べても、愛の行いが伴わない言葉は空しいものであり、助けを求める人にとっては何の役にも立ちません。おそらくヤコブは、マタイ25:31-46の主イエスのたとえ話を土台にして語ったのかもしれません。「『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』(マタイ25:45)」
ここで、ヤコブはこの書簡の主題とも受け取れる言葉を残しています。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(17節)と。
ヤコブは「キリスト者の信仰には、生ける信仰と死んだ信仰がある」ことを教えています。そして、信仰と行いを切り離そうとする人々に警告しています。信仰と行いを分離して考えることはできません。真の信仰は、行いとは別に存在するものではなく、神が喜ばれる行いは真の信仰に基づいて実行されるものです。私たちが生きるために、愛に基づいて行う信仰を心がけましょう。
ハレルヤ!


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