『試練の中で響き渡る讃美 』
詩編 22編1~6節
詩人は苦しみと絶望の叫びから詩を始めています。詩人ダビデにとって、神は日々の助けであり、常に信頼を置いてきた存在でした。しかし今、彼は「なぜわたしをお見捨てになるのですか?」と叫ばなければならないほどの状況に追い込まれていることが分かります。
とりわけ2節の「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」の言葉は、十字架の上で叫ばれた主イエスの嘆きの言葉として知られています。つまり、キリスト自身が人類の罪を背負い、父なる神から見捨てられたかのような深い孤独と絶望の中に置かれていたのです。その時に主イエスが叫ばれた言葉です。
私たちも信仰生活の中で試練が重なり、祈りが届かず、神が沈黙されているように感じるとき、心が揺れ動いてしまいます。そのとき私たちは神に叫ぶのです。そして試練の中での私たちの叫びに、主イエスは共感され、共に泣いてくださることを覚えましょう。それから、叫びそのものが神への信頼の表れであり、信仰者の持つ「希望のしるし」であることを忘れてはなりません。
続けて詩人は、神の過去の働きを思い起こし、神の民に対する守りと救いの歴史を振り返ります。嘆きの叫び声をあげていた詩人は、「だが、あなたは、聖所にいましイスラエルの賛美を受ける方」(4節)と告白し、イスラエルの先祖たちがどのようにして神に信頼し、救いを得たかを思い出しています。ここで「だが」とは、苦しみの中で「しかし、それでも」と信仰を告白する心の姿勢を指しています。この一言に、信仰者の揺るぎない確信が表れているのです。たとえ現実が神から見捨てられたかのように見えても、愛なる神は決して揺るがず、私たちの賛美を受けてくださるお方(他の訳では「賛美の中に住まわれる方」)であることを告白できるのです。
私たちは、耐えられない試練の中で孤独や絶望を感じるとき、自分の経験や感情だけに囚われがちです。しかし、詩人は、神がどのようにして過去にその民を救い、導いてこられたかを振り返り、神の変わらない愛を思い起こします。これが信仰者の持つ強さです。状況がどれほど困難であっても、神の真実なお姿は変わらず、依り頼んで、裏切られたことはない事実に目を向けるべきだと教えているのです。
神の家族の皆さん、試練は私たちを圧迫し、神を疑わせようとします。しかし、試練を通して私たちは、神の偉大な御業をより深く経験する機会を得るのです。試練の中でこそ、私たちの賛美はより強く、より美しく響き渡ることができます。何も問題がないときに歌う賛美も美しいですが、涙と共にささげられる賛美には特別な力があり、それは神に喜ばれるものです。
次週はチャペルコンサートが執り行われます。特に今年のチャペルコンサートは、元日に発生した能登半島地震と先日起きた豪雨による災害支援を目的としたチャリティーコンサートとなります。ぜひチャペルコンサートを通して、試練の中で歌われる賛美を受けてくださる神をほめたたえ、その賛美を用いて試練の中にいる人々を力づけ、希望の光を照らしてくださる神に感謝を献げたいと願います。ハレルヤ!
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