2022年7月14日木曜日

2022.7.10 牧師室便り

 ~ガチョウと黄金の卵から~

「主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け、その願いを聞き、彼らの心を確かにし、みなしごと虐げられている人のために裁きをしてくださいます。この地に住む人は、再び脅かされることがないでしょう。(詩編10:17~18)」

近頃の世界の有様を見ながら、イソップ寓話の「ガチョウと黄金の卵」の物語が浮かんできました。

「ある日、ある貧しい農夫の飼っていたガチョウが、黄金の卵を産んだ。それ以降、来る日も来る日もガチョウは、新しい黄金の卵を産み続け、卵を売った農夫はやがて大金持ちになった。ところが、富が増すにつれ欲が出た農夫は、一日一個しか卵を産まないことに我慢できず、きっとガチョウの腹の中には金塊が詰まっているに違いないと考え、ついにガチョウの腹を切り裂くことになる。しかし、腹の中にあるはずの黄金の卵はなく、そのうえ黄金の卵を産んでくれたガチョウまで失ってしまう」という悲しい物語・・・。」

まさしく、欲張り過ぎて一度に大きな利益を得ようとすることで、その利益を生み出す資源まで失ってしまうという悲劇が今、世界規模で起きていると言えましょう。ロシアのウクライナ侵攻、それに伴うアメリカとヨーロッパ諸国の思惑、OPEC(石油輸出国機構)をはじめとする産油国による原油価格の高騰、背後で行われる武器輸出、世界的な食糧危機など…。すべてに人間の欲望とお金が絡んでいて、国や団体、人間の利己主義、弱肉強食といったそれぞれの欲望と資本主義という悪魔の価値観が武器となって神の世界と貧しく弱い人々を苦しめ殺している。それゆえ、平和という黄金の卵を、自由という宝を失っている現実です。ぜひ、神の国の民として目を広げ、神からいただいている世界平和と自由、平等、博愛などの宝物を、一瞬の欲望によって失うことがないように執り成す神の家族であるように…。シャローム!


2022.7.10 本日の宣教

 『 主が望まれる教会④ 』:ティアティラ教会② (ヨハネ黙示録 2:24~29)

   ~今持っているものを固く守れ~                                         

アメリカの有名な霊性神学者であり、作家であるリチャード・フォスター牧師が書いた本の中に「金、セックス、権力」という本があります。彼はその本の中で、人間社会を動かす最も影響力のあるものが三つあると語ります。それが「お金、セックス、権力」というものです。たとえ、ある人が悪人であっても、その人が金持ちであって、性的な魅力があり、権力をもっているのであれば、この世から認められ、崇められることになるということでした。そこで、リチャード・フォスター牧師は、この三つのものが教会の中にも入り込み力を振るっているのが現代のキリスト教会であると言っています。

本日、分かち合うティアティラ教会も、「イゼベル」という、預言者を自称している女を受け入れてしまったがために大きな混乱に陥ることになります(20節)。イゼベルは、旧約聖書でアハブ王の妻として、神の民イスラエルを偶像のバアル崇拝へと導き、神の預言者たちを殺し、ヤハウェ信仰を崩していた女のことです。同じように、ティアティラ教会にも、にせ預言者イゼベルが敬虔な信仰者のふりをしながら入り込み、教会の信徒たちを惑わしていたのです。彼女は、信徒たちを誤りに導き、性的不品行を行わせ、偶像に献げられた物を食べさせていたのです。しかし、ティアティラ教会の信徒たちは彼女のなすがままにさせてしまったのです。確かにティアティラ教会の信徒たちは主イエスから、「行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を認められ、彼らの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることを称賛される(2:19)」ほど、信仰の面においてはますます成長していく姿を見せていた教会でした。

しかし、ティアティラ教会の信徒たちの中には、イゼベルから影響を受けていた人たちがいて、イゼベルの悪事を大目に見て許し、彼らもイゼベルの影響を受けキリスト者としての聖さを失い、信仰の妥協をしてしまうことになります。そこで、主イエスは、イゼベルに悔い改めの機会を与えられますが、彼女は悔い改めを拒み、彼女に従う者らと共に、ますます淫らな行いに走ってしまったことを告発されます。…ここで確かめるべきことがあります。それは、私たちの問題は罪を犯すことより、犯した後の対処が大切であるということでしょう。この世に誰も完全な人はいません。誰でも罪を犯すことがあります。すなわち主イエスは私たちの弱さをよくご存じで、悔い改めの機会を与えられるのです。しかし、イゼベルは神の前に立ち返ることはありませんでした(21節)。そこで待ち受けているのは、裁きです。主イエスは彼らに「ひどい苦しみに遭わせ、一人一人の行いに応じて報われる(22~23節)」と宣言されます。

そして最後に、イゼベルに従わず、信仰の聖さを守っていたティアティラ教会の信徒たちに主イエスが命じられる御言葉、「わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ。(25節)」…。愛する神の家族の皆さん、今私たちが生きている時代は、日に日に世俗的になり、反キリスト教的に変わっています。まさしく神に対して真正面から戦いを挑むような時代ではないでしょうか。このような時代に求められるキリストの教会のあるべき姿こそ、福音の御言葉をしっかり持ち、この世の様々なイゼベルの誘惑から、聖なる者として御言葉を固く守って生きることです。主イエスは、御言葉をしっかり持ち、勝利する者に「明けの明星」をくださると約束してくださいます。ハレルヤ!


2022.7.10 小さな泉の恵み

 今年は梅雨らしい雨もあまり降らず、長い夏のはじまりとなりましたね。

先月から、少しづつですが、聖書の学びや礼拝に参加出来て嬉しく思っています。

毎日のリビングライフのディボーションはなかなかこなせなくて、グループラインで一緒に勉

強しているS姉の感想を読んで勉強している時も多いです。

清い信仰生活を志す時、聖書を開くことは必須なのに、基本中の基本ができてなくて。反省しきりです。

息子が独立して、日日の生活はかえって慌ただしくなり、今に至っています。

時間がなくても祈りの時を持ち心静めるときを作りたいです。

 
                                                                                S.N 姉

2022.7.3 牧師室便り

 ~私たちが恐れないために~

「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。(詩編46:2~4)」

世界が混沌としています。コロナパンデミックという未曾有の災難が終わっていないうちに、ロシアによるウクライナ侵攻から広がりつつある戦争、それに伴う食糧やエネルギー戦争、気候変動による騒ぎが後を絶ちません。私たちの住んでいる富山も毎年訪れるはずの梅雨が消えてしまい、突然の暑さに驚きながら苦しんでいる近頃です。また、世界各地において洪水が発生し、飢饉に覆われ、自然界が崩れてしまっているような混乱に見舞われている状況です。

そんな中、安全資産とされていた日本円の価値が急激に下落し、最低限の生活の基盤である物価も突然高騰していて、周りからは悲鳴が上がっているような状況です。…しかしここで私たちを落胆させていることは、どこを見ても解決の糸口が見つからないということでしょう。戦争がいつまで続くかも分からず、異常気象による自然災害も今より酷くなることが予測されていて、良くなる気配は見えない現在です。

 このような時だからこそ、私たちの目を主イエスの十字架に向け、復活の希望に満たされて生きることです。十字架の上で命を捨てるほどあなたを愛してくださる方がおられ、復活の主として日々、あなたの傍らで共に歩まれ、永遠の御国での交わりの確かな約束をくださる方のゆえに、いついかなる時も恐れることなく、勇気を出しすべてをゆだね楽しく過ごしていきましょう。これこそ、主に喜ばれるキリスト者の生き方です。シャローム!


2022.7.3 本日の宣教

 『 朽ちない神の御言葉 』(ペトロの手紙一 1:23~25)

使徒ペトロの手紙の受取人たちは、ローマのネロ皇帝による迫害を避けて世界各地に離散して(ディアスポラー)仮住まいを余儀なくされていました。その姿は、はるか昔、イスラエルがバビロン帝国に滅ぼされ、さらに捕虜として連れ去られ、異国の地で大変な試練と苦しみの中に置かれていた時を思い出させるものでした。もう希望を見出すことすらできない絶望の状況でありましたが、神は預言者イザヤを通して希望と慰めの御言葉を告げられたのです。…「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。(1:24~25)」…希望の光が消えていく、また人生の目的と方向についても揺れ動いていたイスラエルの民らに、もう一度永遠に変わることのない神の御言葉の約束にすがり、神の御言葉から希望を抱くことを伝えたかったのでしょう。同じように、使徒ペトロも、離散して仮住まいしているディアスポラークリスチャンたちに預言者イザヤが告げていた御言葉を借りて希望を伝えようとしているのです。

すべてが移り変わるこの世界において、この世の人々が頼りにしているすべては朽ちてしまうものだけど、決して変わることなく朽ちることのないものがただ一つ存在するのだと、それこそ、主の御言葉であるのだということを宣言しているのです。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。(1:23)」…まさしく、今私たちが生きている世界は、すべてが変わってしまうもの、朽ちる種からのものであることを目の当たりにしています。どこに私たちの希望を置くべきなのか、何を私たちの生活の土台にして建て直すべきなのか、お金も、健康も、才能も、家族も、国家も、科学も、大自然も、…いつ駄目になり、朽ちてしまうか分からないような不安定な現実が続いている。このような状況において、「決して変わることがないものがある!」と呼びかけるイザヤの言葉は、私の心を揺さぶるような声であるのです。

私たちが今信仰によって生きるべき理由こそ、「決して朽ちることのない神の御言葉の種が、つまり、イエス・キリストを心から信じ受け入れるようになったその時から、私たちは新たに生まれ変わり、決して朽ちない福音の種が、私たちの魂のうちに植えられているのだ」ということにあるのです。そして、その福音の朽ちない種は私たち生活の中において30倍、60倍、100倍の実を結ばせ、永遠の神の国の恵みを今先取りして味わわせてくださっている。だから私たちは、現実の様々な試練に失望することがありませんし、御言葉の上に力強く走り続けられるのです。

神の家族の皆さん、皆さんが本当に神の子どもとして力強く歩もうとするのであれば、決して朽ちることなく変わることのない神の御言葉を皆さんの生活の土台、生活の基準とすることです。そうする内に、変わることのない神の御言葉が皆さんを正しい道へ、また決して揺るがない生活へと導いてくれるでしょう。そうすれば、皆さんがいかに厳しい苦難に直面することがあっても、どんなに大きな問題を前にしていても、世界が崩れ落ちることがあっても、揺れ動かされることはないのです。ハレルヤ!


2022.7.3 小さな泉の恵み

 今年の梅雨は雨が少なく、空梅雨かなあと、しっとりとした雨の火、

緑の木々の風景もいつものだと思い出してみたり。

 私の現在の生活環境の中で、今までにいろいろのことがあり、今は少し心が落ち着かない日々を過ごしております。高齢になったせいかなあ…。時々、讃美歌を唄ってみたり俳句の言葉を思い出してみたりしています。

自分ではボケの初期表情かな・・・。      毎日の日常生活には支障がないのに・・・。社会にも、なんとか適応しているのかな・・・。とも自分で思っております。

 どうも朝起きると自発的に計画が立てられなくなったと思います。どうも同じことを繰り返して、尋ねては息子から注意をうけることもあり、困っております。

 時々山の方へ向かってぼんやりしている時もあり、根気が続かない時もあります。「余生はのんびりと」と思ったが、農作業に追われて、どうもそういうわけには行かない様子。教会に来て兄弟姉妹と交わり脳の老化を刺激して、少しでも元気にしたいと思っております。

 

                             A.M 姉


2022.6.26 牧師室便り

 ~この時のためにこそ~

「この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。(エステル4:14)」

 リビングライフの6月のテキストは「エステル記」でした。興味深いことに、エステル記には「神」という名前や、神への信仰的表現は記されていません。しかし、エステル記を読んでいく内に、聖書のどの書物より、神が、神の時に、隠れていた神の働き人を用いられ、神のご計画を成し遂げていかれることが明らかにされていることを感じられたのではないでしょうか。

特に、モルデカイが語った“この時のためにこそ(4:14)”という言葉には、歴史を動かしておられる神への信仰とその時に備えて生きているキリスト者の歴史認識が示されていると言えましょう。これはまさに、奴隷の身からエジプトの総理大臣になり、イスラエルの民を救ったヨセフの物語のように、“神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、・・・大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、…神です。(創世記45:7~8)”という言葉と同じく、神の摂理のもとで、今という時間が備えられているわけであって、神は、神の御業に加わる神の民(あなたと私)の決断を待っておられ、その一人の人を通して大いなる逆転劇を成し遂げられることが示されているのです。

 本日から来週の7月3日までを、日本バプテスト連盟では、「神学校週間」として守っています。神の国と福音伝道のために献身し、伝道者となっていくために西南学院神学部、東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校で学びを深めている神学生たちと、各神学校を憶えて、祈り、献金を献げる一週間です。時代はますます暗くなり、使命感のある働き人が求められる今日ですが、神学生志望者の数が年々減っており、神学校を支える諸教会の教勢も衰えている現状です。まさしく神は、今の時のために、「このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。(エステル4:16)」と決断したエステルのような一人の真の献身者を捜しておられるでしょう。シャローム!


2022.6.26 本日の宣教

『 かなえられる祈り 』 (マタイ18章19節~20節)   

今日の聖書から示されるテーマは「教会作り」です。そして、教会が一番大切にしなければならないことは「共に祈る」ということです。教会はそこに集う人たちの祈りによって成立すると言えます。

ここには、主イエスの約束と宣言が記されています。主が「アーメン」と力を込めて語る内容は、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」という約束と、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という宣言です。

主は、たった二人が心を一つにする時、天の父は祈りを聞き叶えてくださると言われます。祈りは聞かれる、と言われますが聞かれない事の方が多いかもしれません。ヤコブに言わせれば、「悪い求め方」をするから求めても与えられないとなるのでしょうか。しかし、主イエスは、「どんな願い事」であっても問題ないと言われます。何が問題なのでしょうか。それは「心を一つにする」ということです。私たちの心はいつも別れています。いろいろなことに分けられています。「心配」です。また、「二心」という言葉もあります。二人の人に同時に心を寄せることで、双方にいい顔をしたり、二股をかけるということで、浮気心とも言える。自分自身の心が定まらず、フラフラしていることもあります。集中がありません。

ヨハネ14:13は、わたしの名によって願うことはなんでも叶えてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになると、記しています。

翻訳には表れていないのですが、19節の「わたしの天の父はそれをかなえてくださる」の後に、「なぜならば」という言葉が続いています。祈りが聞かれる理由が示されています。19節は20節の「なぜならば」によって密接に結び付けられています。その理由が「わたしが(あなたがたと共に)そこにいるからだ」と言われます。

原文に忠実に、ぎこちなく翻訳すれば、「二人または三人が、わたしの名前への中へ向かって一緒に集まっているところに、わたしが彼らの真ん中にいるからです」となります。「わたしも」ではなく、「わたしが」いるのです。付け足しではありません。主がわたしの友として、兄弟としてわたしを迎え、わたしの心の思いを知ってくださって、心を一つにしてくださるのです。圧倒的な主のめぐみによって私たちは主の思いを知るのです。そのように、主は私たちを導き、用い、私たちの祈りを成就してくださるのです。

                             田口昭典

                          (金沢キリスト教会引退牧師)


2022.6.26 小さな泉の恵み

  中学の教師が、農家の嫁の悲惨な境遇を語り、都会で自立できるように、しっかり勉強しなさいと言っていました。洗脳された私は、都会に出るために勉強をしました。ところが大学で、スウェーデン人の宣教師に出会い、「田舎を変えることがあなたの使命ですよ」と言われ、卒業後は地元に戻りましたが、転勤族の主人と結婚して、またもや逃げ出してしまいました。

それでも、宣教師の言葉は心に残り、主人の定年後は故郷に戻りました。しかし、主人の母とはうまくいっていません。嫁としてずっと我慢を重ねてきた義母は、それまでのストレスを私にぶつけてくるのでしょうか。私が育てていた綿に除草剤をかけたりします。それで今は他の畑を借りています。

 農村で生まれた女性が外に出て行く一方で、都会から移住してくる人がいます。移住者という備えを神様が与えてくださいました。私より少し若い世代の移住者の人たちと手を取り合って、「田舎を変える」という使命を果たしていけたらと願っています。

 田舎を変えるためには御言葉が必要です。オンライン礼拝が実現したのですから、きっと神様は何かユニークなことを考えておられるでしょう。神様に用いていただける者となれるよう、小泉町教会の礼拝・学びを大切にしたいですし、お祈りに覚えていただけると感謝です。

「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:21)


                              K.K 姉


2022.6.19 牧師室便り

 ~ 祈り、祈られる恵み ~

「あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。(二コリント1:11)」

  先週、全国のバプテスト連盟に連なる諸教会の皆さんから“富山小泉町キリスト教会を覚えて祈りました。”というハガキをいただきました。連盟の協力伝道カレンダーの6月の富山小泉町キリスト教会の祈りの課題をご覧になり祈ってくださった諸教会からの知らせがあったのです。

 また先週の水曜日、北陸地区の福井教会復興のための全国支援・地域協働プロジェクトの申請について理事会の審議が行われ、来年2月の定期総会の議題に上げることが決定されたとの知らせを聞いた福井教会の平良先生より喜びに満ちた報告をいただきました。実際のところ、昨年の総会にも立候補したのですが、コロナ下の厳しい現状を受けて、継続審議になっていましたが、連盟定期総会の議題としてあげられることになりました。これこそ、北陸三教会をはじめ、福井伝道祷援会、連盟の諸教会など、多くの方々の祈りが献げられた結果と言えましょう。これからは、ただひたすら定期総会で承認されることを祈るのみです。

 それから、先週13日(月)には、S姉が足の手術を受けられ、神の家族の執り成しの熱い祈りが献げられました。手術を受けられる時間を共有し、同じ時間に神の家族がそれぞれの生活の場でS姉の手術の成功と主の癒しの働きを祈りました。ヤコブの手紙の「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。(5:16)」という約束の言葉を信じて、主の御手にゆだね信仰に基づく祈りを献げました。そして主は、私たちの祈りに応え、手術を成功させ、順調な回復を与えてくださっています。ハレルヤ!

 「祈り、祈られる恵み」は主にある神の家族の交わりの中でしか味わえないものです。聖霊は、今日も私たちの祈りを通して御業を成していかれます。だから、絶えず主の最善を信じ、主が良しとされる時に、最高の応答が訪れることを信じつつ祈りの生活を続けてまいりましょう。シャローム!


2022.6.19 本日の宣教

 『 愛の上に建てられる教会 』(Ⅰコリントの信徒への手紙12:31~13:8)

愛の章と呼ばれるコリント13章には、不思議なことに神、またイエスという名前が登場しません。しかし、私たちはこの個所を読むことで、神の愛、主イエスの愛がいかに素晴らしいものであるかを感じることができるでしょう。

Ⅰコリントの信徒への手紙13章は、12章の聖霊の賜物についての教えの続きとなっています。使徒パウロは12章の最後の31節で、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」と、「最高の賜物」ではなくて、「最高の道」を教えますと語ってから13章の愛の讃歌に移っているのです。すなわちパウロは、「愛」というものが、12章で記していたいくつもある賜物の一つとしているのでなく、むしろ「愛」は、最高の「道」であるのだと教えています。「道」というのは、そこを通ってこそ目的地に行けるものであります。すなわち、どんなにすばらしい賜物を持っていても、「愛」という道を通らなければ、聖霊が作り上げようとするキリストの体なる教会共同体形成という目的地に着くことはできないのだと訴えているわけです。

それでは、パウロは今まで賜物の話をしながら、何で突然愛を歌っているのでしょうか。その理由として、当時のコリント教会の信徒たちは聖霊の賜物に捕らわれてしまい、その賜物が与えられた意味と目的を忘れてしまっていたからでした。そこでパウロは、キリスト教会が忘れてはいけない賜物と働きの原点、目的こそ「愛」であることを確認させているのです。聖霊の多くの賜物を受けていたコリント教会でしたが、彼らが忘れていること、見逃していることがある。それは、どんな賜物も「愛」という土台の上で用いられる時にのみ意味があるということでした。「異言や預言、深い知識、強い信仰、命を捨てるほどの犠牲・・・」などは聖霊から与えられる素晴らしい賜物ではありますが、「愛がなければ」「無に等しく、何の益もない」と宣言しているのです。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう(13:4~8)」

愛は律法の完成であり、愛がなければ信仰のどんな行いも意味がないことを覚えましょう。聖書はイエス・キリストこそ真の愛であると宣言します。主イエスは馬小屋での誕生の時から生涯を通して、律法を完成され十字架を通して完全な愛を実現されました。また主イエスは「最も大切な戒め」である神と隣人への愛を、十字架の上で命を捨てられることで示されたのです。

そして主イエスはご自身を心から信じ受け入れる者の上に永遠なる愛を注いでくださいます。聖霊は、主イエスの愛を受け、神の子どもとされた人々の内側に宿られ、キリストの愛で満たし、永遠の命を溢れさせてくださるのです。そのように、主イエスを信じ受け入れた神の子どもたちが集う群れが教会です。

今世界は真の愛に飢え渇き、愛を叫び続けています。その愛こそ、イエス・キリストの体なる教会とキリスト者にしか紹介することも、愛を渡すこともできないはずです。いつも主の愛に満たされ、隣人を主の御心をもって愛する時、私たちは永遠なる天国と命をプレゼントすることになるのです。ハレルヤ!


2022.6.19 小さな泉の恵み

 

この1年間は、私にとってとても辛い1年間でした。コロナ自粛ばかりで1日中家で赤ん坊と二人っきり。家にいるんだから家の事をしっかりやらなきゃ!という責任感や、実際にやらなくては回らないことも沢山抱えていて精神的にいっぱいいっぱい。それに加えて抱っこが続き、左半身が痺れて常に痛いという身体的なストレスもありました。それでも抱っこしなくちゃいけない、日中もゆっくりできない、夜も自由に寝られない。

なんだよこれ苦しいよ。真っ暗闇の中にいる気分。そんな苦しい時に、気付けば近くには常に光がありました。Kくん。光の子に育ってほしいと願い、洸という漢字を付けました。…あらまぁ、私っていつも光と一緒だったんだ!と思うと気分が晴れやかになりました。

私たちが困難に思う事があっても、そこには常に主の愛が働いていて、それに気付いた瞬間、夜が一気に朝になったような不思議な感動がありました。それを感じて生きていられるのも教会生活があるからこそ!

主よ、いつも私を主の宮に集わせて下さりありがとうございます。これからも光の道を歩めるように見守って下さい。

                                I.A 姉


2022.6.12 牧師室便り

 ~あなた方の行く道が祝福されるように~

「あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。(詩編121:8)」

 今日は寂しい知らせを伝えることになりました。今月の23日、G兄がインドネシアに帰国されます。今から3年ほど前から小泉町教会の礼拝に集うようになり、2年前には小泉町教会のメンバーとして入会をし、いつも素敵な笑顔で神の家族と共に信仰生活をしてきた兄弟でした。家から教会までの遠い距離を自転車で通っていた兄弟の姿は大きな励みであり喜びでした。しかし、コロナパンデミックによって2年以上の時間、なかなか落ち着かない生活を余儀なくされ、特に、ここ数か月、工事現場で足を怪我してしまったことで、日々の生活も、また教会生活もできなくなったことは大変な苦しみであったと思います。そこで、ビザの満期と共に帰国するG兄に主の癒しと祝福を祈りましょう。兄弟の話によると、今回帰国すると、婚約していた姉妹と結婚式を挙げた後、今年の11月には再び富山に戻ってくるそうなので、みんなで執り成し合いつつ、再会の日を待ちたいと思います。

 また、もう一人、昨年から小泉町教会の礼拝に集っているN姉が来月の7月中旬から仕事のため名古屋に旅立つことになりました。まだ一年も経たない交わりでしたが、毎週の主日礼拝を欠かさず出席し、非対面中心の間も毎週礼拝堂に足を運んで礼拝を献げていた姉妹でした。そして先月からは賛美チームにも加わって奉仕していましたので、突然の別れに深い寂しさを覚えています。実は、今年に入ってインドネシアの彼女のお母様が倒れられ、今も病床での生活をされているそうです。そのこともあって、N姉は介護の仕事の方へと進むことを決め、今回仕事先のある名古屋に引っ越されることになったわけです。

 一年のうち、何度も新しい出会いと別れを経験している小泉町教会ですが、やっぱり別れに関してはなかなか慣れないですね。とりわけ多様な国からの神の家族と共に教会形成に励んでいる小泉町教会の恵みを確かめながら、これからの新しい出会いを楽しみにしたいと願います。シャローム!


2022.6.12 本日の宣教

 『聖霊の導きに従いつつ』(ガラテヤの信徒への手紙5:16~23)

聖書は、誰でもイエス・キリストを信じた瞬間に聖霊を受けることを約束しています(エフェソ1:13、Ⅰコリント6:19~20、ローマ8:9)。また、聖霊がキリスト者の内に宿られ、共に歩まれることの第一の目的として、その人を主イエスに似た者として栄光を現す生活をするようにということがあります(Ⅱコリント3:18)。

キリスト者の人生は、日々、聖霊によって新しくされた霊と、罪に支配されている人間の古い肉の本性との間における争いの連続であると言えましょう。人間の肉の本性は罪に支配されるようになったため、聖霊によって新しく生まれた霊と繰り返し戦い続けるのです。人間の肉の本性が持つ罪は、この世にあっては消えることはないからですね。

ところが、感謝すべきことは、私たちには、私たちの内に住まわれる聖霊がおられることと、その聖霊との日々の交わりの中で聖霊の導きと助けを受け、罪に支配されている肉の本性に打ち勝つことができるということです。だから大切なことは、常に聖霊の導きに従って生きることを生活の中に適用すること、聖霊が望まれることに従い、聖霊が示す方向に向かって進んでいくことを選ぶことにあります。確かなことは、私たちの人間的な頑張りや力では、罪の本性に打ち勝つことができず負けてしまい、自分自身に失望するしかない存在であるという事実です。しかし私たちが、絶えず聖霊に拠り頼み、聖霊の導きに従うなら、私たちの内なる人は、肉の罪の本性に打ち勝つことができ、時に適った実を結ぶことができるのです。

 本日与えられたガラテヤ5:22~23には聖霊との交わりと導きに従って歩む人に結ばれる聖霊の実について紹介しています。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」・・・これらの聖霊の実は、5:19~21の罪に支配されている人間の肉の本性が犯してしまう15つの業に対比させて記しています。聖霊の9つの実は、聖霊がキリスト者の生活の中におられ交わってくださることの結果として与えられるものです。とりわけ「実」(ギ:カルボス)の意味は、聖霊の働きだけでなく、人間の応答と責任までを含んでいて、この二つが合わされることで実を結ぶことができるというわけです。

多くのキリスト者は、バプテスマを受けキリスト者になった時から、直ちにすべてが変わること、また豊かな祝福に与り、幸せな人生が保証されるような期待を抱くでしょう。しかしそのような期待や思いは、錯覚であり不可能なことです。もちろん、その人の本質は罪の奴隷から新生した神の子へと完全な変化をいただくことは確かです。それでも、その人は、依然としてこの世における罪との戦いや誘惑に遭わされることに変わりがないことを忘れてはなりません。そのために、私たちは日々の生活の中で、「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまう(5:24)」ことを心がけながら過ごさなければならないのです。

愛する神の家族の皆さん、父なる神は、神の子どもたちが罪と欲望の肉の本性に打ち勝つために、毎日、聖霊を通して御心を教えてくださいます。また、聖霊が望まれる実を結ばせるために、神のこどもたちが聖霊に満たされ助けと導きをいただくことを望まれるのです。願わくは、神の家族お一人お一人が聖霊の実を豊かに結ぶことを通して神の栄光を現すことになりますように。ハレルヤ!


2022.6.12 小さな泉の恵み

主の御名を賛美致します。

毎月1回小さな泉の村の活動に参加することが私の喜びであり恵みです。

清水姉が、東京から毎月1日の朝9時にサンフォルテに電話で調理室の使用の予約をしてくださっているとの事、本当に感謝です。瀬戸姉と清水姉の働きにより、小さな泉の村の活動が7年間も続いているのですね。コロナ禍での生活がまだまだ続くのでしょうか。

弱い立場の女性や若い方々の働く場所がないことが、貧困者が多くなり未来への希望の持てない世界となっているのですね。

“疲れた者、重荷を負うものは誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう”(マタイによる福音書11章28節)

イエスさまの御言葉に、癒し、励まし、勇気をいただき、小さな泉の村のボランティアさん、教会の方々と共に困難のただ中にいる人々に手を差し伸べて、祈りをもって活動していけますように。

                         N.Z 姉

2022.6.5 牧師室便り

 ~ 親心 ~ 

「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです(ローマの信徒への手紙8:26)」

 先週の火曜日の夜中、韓国の息子から電話がきました。“夜運動のために自転車に乗っていたが、少し暗い所で何かに引っかかって転んでしまってけがをした”ということでした。かなり激しい衝撃があったのか、自転車のタイヤが歪むほどだったそうです。LINEビデオ通話で確認したところ、両手にかなり深い傷ができていて、腰と足を痛めて歩くこともままならない状況でした。時間も夜中だったので、病院には行けず、近くの薬局から薬を買い、応急措置をして朝まで待つことにしました。親としてどうすることもできず、ただ祈りながら夜を過ごすしかありませんでした。夜が明けてから、早速病院で診察を受け、必要な処置をしてもらい、数日経ってからは“だいぶ良くなった”との知らせをもらっています。

 “親心”について考えてみました。私の親は二人とも召天し、世にはいないけれど、息子の言葉を真剣に受け止め励ましてくれていたことが思い浮かびます。できれば親に心配をかけず、と思って過ごしていましたが、どうしても祈ってもらいたいことがある時は電話をかけ、ぜひ祈ってほしいとお願いしていた私でした。もちろん親には心配をかけることではあっても、親の切なる祈りに支えられてきた人生でしたし、親の祈りがいつよりも必要であったので、躊躇することはありませんでした。親の方も最初は心配していたけれども、息子の具体的な問題を知り、祈ることができるのを喜んでいたことを覚えています。だからでしょうか。電話してつぶやきながら祈りの課題を聞いてくれる親がいないことのゆえに心深い所から寂しさを感じる近頃です。

聖霊は私たちのうちにおられ、親のように常に交わってくださるお方。しかも、子どもたちの弱さを良く知っておられ、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるお方です。まさしく親心をもって私たちを助けようとしておられるのです。しかし、私たちは聖霊に助けを求めるどころか、むしろ聖霊の存在を忘れてしまうような日々を過ごしてはいませんか。聖霊は今日も親心をもたれ、神の子どもたちの祈りとつぶやき、交わりを待っておられます。シャローム!


2022.6.5 本日の宣教

 『聖霊の賜物について知ってほしい』(Ⅰコリントの信徒への手紙12:1~11)

聖霊降臨日をおめでとうございます!!!

主イエスは昇天される前に「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい(使徒1:4)」と命じられ、聖霊を贈ってくださることを確かなこととしてくださいました。その約束を信じて、12弟子をはじめ120人の群れが心を合わせて熱心に祈っているうちに、聖霊がその場にいた人々の上に激しい風と炎のような姿で臨まれたことを聖書は記しています。その日がペンテコステ、キリスト教会の誕生日です。

今私たちは聖霊の時代を生きています。教会の上に臨まれた聖霊は主イエスを救い主と信じる人の内に来られ、その人を聖霊の宿られる神殿とされたのです(Ⅰコリント6:19~20)。そして聖霊は神殿となるそれぞれの人に多様な賜物を与え、キリストの健康な体を作り上げようとされるのです。

使徒パウロは本日の御言葉を通して、聖霊によって与えられる賜物について、ぜひ「知ってほしい」と語ります。彼が知ってほしいということには、まず、すべての賜物は聖霊によって与えられたものであることを知りなさいということです。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です(4節)。」…賜物こそ、聖霊からのプレゼントのことです。そのプレゼントは一部の人にだけ与えられているのでなく、救われた人すべてに与えられていることを知らなければなりません。すなわち、誰一人として聖霊の賜物をいただいてない人はいないのです。

次に、一人一人に賜物が与えられているのは、教会共同体全体の益となるためであるということです。これが、賜物が与えられた目的なのです。「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです(7節)。」…しかし人は、賜物についてあたかも自分の能力や頑張り、信仰の強さによって与えられていると誤解し、自分自身を誇り、自分自身の益のために用いようとします。すなわち、全体の益になるはずの賜物が、個人の益とするための道具に変質されてしまうのです。神の家族の皆さんに与えられている賜物は何でしょうか。その賜物は教会共同体の益のために用いられているでしょうか。

さらに、賜物は聖霊の御心のままに、一人ひとりに分け与えられているということです。「これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです(11節)。」聖霊は御心のままに一人一人に分け与えられる。人の願望、能力、努力によって与えられるのでなく、聖霊が一人一人を知っておられるので、御心のままに各自にふさわしい賜物を与えられるのです。だから、他の人の賜物と自分の賜物を比較しようとすることはふさわしいことではありません。

最後に、私たちは自分自身に問いかけなければなりません。「私は聖霊の神殿であって、聖霊が私の内に生きておられるのを日々感じているのか」「私は聖霊の賜物について知っているのか」「私は聖霊の賜物を求めているのか」「預かった聖霊の賜物をどのように用いているのか」などがそれです。今こそ、終末の時、だからこそ聖霊の臨在の下で賜物をいただき、その賜物をキリストの教会と福音伝道のために用いるべきです。初代教会の信徒たちが聖霊を受けることで、恐れることなく福音の証人として歩んだように、神の家族も聖霊に満たされ、各自に与えられた賜物を神の栄光が現れるために用いることができますように…。“主よ、リバイバルを与えたまえ!”ハレルヤ!