2020年1月27日月曜日

2020.1.26 本日の宣教

『 一隅を照らす 』 (マタイによる福音書51416)

「一隅を照らす(照一隅)」、昨年128日凶弾に撃たれ天に召された中村哲氏は、講演会や記者会見などで自身の活動を説明する際にこの言葉をよく使っておられました。
中村さんは以下の様に述べています。「どこでもいいから深い所へはいれ。我々は、つい色々な情報にあふれておってあれもある、これもある。それぞれに大事ですけれど、つい浅く広く表面的に流れやすいという中で1つの事をじっと追いかけて、真実を見極める。そこから何か『真理』が見えてくる。世界中を照らす事は出来ない。 ・・自分が今いる場所で最善を尽くすことが、隣人や、世界を良くすることに通じるというもの。」
『照一隅』は、天台宗を開いた最澄の教えが出典とされています。マタイによる福音書5 16節のみ言葉に通じます。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである。」
中村哲さんはその若き日、福岡の西南学院中学校在学中に聖書を通してイエス・キリストに出会い、香住ケ丘バプテスト教会においてバプテスマを受け、クリスチャンとしての歩みを始められました。九州大学医学部卒業後病院勤務を経て1983年に日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)からパキスタンのペシャワールに派遣され、ハンセン病の患者の治療をされました。その時にアフガン難民の治療をされ、ペシャワール会を福岡YMCAに立ち上げます。2000年にアフガニスタンで大規模な干ばつがあり、井戸を掘り農業用灌漑用水を各地につくります。2001年にはアメリカのアフガニスタン侵攻後も現地での診療と井戸を掘り続け、1600本という井戸と灌漑用水を現地人と一緒に作ったそうです。
中村さんの行動と言葉は強烈です。宗教・宗派も国・部族間の違いをも超えて、「戦争などしている場合ではない。このまま干ばつが続くと敵味方関係なく多くの命が犠牲になる。今必要なのは水である。命をつなぎ、健康を守る綺麗な水が必要である。」イエス・キリストに従い、アフガニスタンの「一隅」で世の光として歩んだ中村哲さんの生き様は、小さな光ではなく、私にはあまりにもまぶしいです。小さな光でも『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。』(マタイによる福音書2540節)とイエス様に言っていただける人生を歩みたいです。
                                S.S.兄

2020.1.26 小さな泉の恵み




「想いが先走って」

去年の9月には、自分は、変わりたいと想いがあって、バプテスマを受けたいと決心していました。その思いだけが先走っていたのか?自分では早く教会の皆さんの群れに加わりたいとの焦りなのか?自分一人で空回りしていたと思います。
先週の日曜礼拝後から、バプテスマ式のための学びが始まりました。しかし、最初の段階からつまずいてしまったのです。信仰の土台となる福音のことについて、一年以上通して学び自分の口で告白したはずなのに、何も思い出せなく、自分が信じていることが何であるかも分からないことに気づかされたのです。今まで何のために、教会へ通っているんだ?と自分を責めるようになりました。
昨年の暮れから様々な出来事に覆われ、心が暗くなり、その結果、体調不良になり、精神的にも悪い方向へと行ってしまっていました。そして、今年最初の小さな泉の村をきっかけに、徐々にではあるが皆さんと交わることができ、前に進められる元気をいただきました。
まだまだ、自分の信仰は弱く、バプテスマを受けるまで、時間はかかると思いますが、焦らずに福音の確信に触れていきたいと思います。

                         Y.H.兄

2020年1月22日水曜日

2020.1.19 牧師室便り

~ 被造物たちの呻きを聞く ~

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」(ローマの信徒への手紙822

 世界の被造物が呻いています。地球温暖化という人間社会の欲望がもたらした自然の変化による災害が世界各地で如実に表れています。とりわけオーストラリアで昨年9月から5ヶ月間も続いている森林火災が猛威を振るい広範囲に被害が及んでいます。オーストラリアはコアラ、カンガルー、ウォンバットなど珍しい動物の天国で知られていますが、そのような動物たちも含め約10億匹が死んだそうです。何も知らず、死んでいく動物たちを思うと心が痛みます。

先日、教会の花壇に咲いているコスモスの花を撮りました。夏から秋にかけて咲くはずのコスモスが、真冬である一月中旬になっているのに咲いていますし、新たな花を咲かせるためのつぼみもできていました。造られたものとしての従順と最善に感動しながらも、被造物の生態が狂ってしまっている現在を目の当たりにするような気がして悲しくなりました。とっくに花は枯れ、切り取られ、花壇は雪の山になるはずなのに、雪は見えず、季節を忘れさせるような世界です。すべては地球温暖化がもたらした風景…。もしかしたら、雪国から雨国に呼ばれてしまう日が訪れるかもしれません。

人間が罪を犯した日から、被造物の呻きは消えていません。むしろ日に日に増している状況です。聖書は、被造物が切に待ち望んでいることこそ、神の子たちの現れ(ローマ819)であることを教えています。神の家族の皆さん、世界のすべての人が福音を聞き、神の子として生まれ変わることを、父なる神も、被造物も切に待ち望んでいることを心に覚えつつ、伝道に励んでいきましょう。時は満ちています。・・・シャローム!

2020.1.19 本日の宣教

わたしは主を愛する 』  (詩編11612、Ⅰヨハネの手紙4910)

詩人は、「わたしは主を愛する」という主への愛の告白をもって始めます。ここで「愛する」と訳されたアーハヴは、「選びの愛」の意味で、主にイスラエルが神の民として無条件的に選ばれた神の選びの愛を表す言葉です。ですから、多くの場合、神が神の民に愛を語られるときに使われますが、この詩編では珍しく人の方から神に向けられて告白されています。

詩人は、その神への愛の理由について早速証しします。「主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。」と。まさに詩人は、死の危険に落とされたような苦難と悲しみにありました。しかし、愛する主が、詩人の嘆き祈る声を聞いてくださった。ただ一度のことでなく、生涯にかけて絶えずそうであったことを歌っているのです。

神の愛は永遠の昔から今まで、まったく変わっていません。しかも、神との交わりは生き生きと体験するものであって、その交わりの中心にあるのが、苦難の中でささげる祈りでした。神は神の子どもたちのすべての祈りを聞かれ、いつでもその祈りに憐れみと恵みをもって応えてくださる愛なるお方。神は、祈り手を喜んで受け入れ、祝福に満たし、恵みで満たしてくださいます。本日の詩人は、その神の愛と恵みに応えて神を愛し、神に祈り求めることを決心します。それが、詩人の生涯において、ただ神だけを愛し仕え、神にだけ祈るという誓いとして表れているのです。

そうです。詩人の神への愛は、神が彼を先に愛されたことに対する応答として湧き上がっていることが分かります。すなわち、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネの手紙410というヨハネの言葉こそ、私たちが神を愛せざるを得ない理由となるのです。詩編116編の詩人は人生を通じて何度も神の一方的な愛を受けていましたし、その愛に対して、彼にできる愛をもって神に応答しているのです。
 2020年を始めるこの時、あなたは神に「私はあなたを愛します」と告白していますか。その愛はどのような形として現れるでしょうか。愛する神の家族の皆さん、私たちが主にどのように愛されているのかを知ってこそ、主を愛することができることを覚えましょう。また、主にどのように愛されているのかを知るなら、隣人をどのように愛するのかを知ることもできるはずです。私たちが手にしている聖書は、「神の私たちへの愛の物語」であると同時に、「私からの神への愛の物語」であることも忘れてはなりません。いつも神の愛を求め続ける者から、私たちの愛を求めておられる神を愛する者へと変えられればいかに幸いなことでしょうか。今年、私たちのすべてが神への愛の証しであり、愛の讃歌となりますように・・・。ハレルヤ!

2020.1.19 小さな泉の恵み



~純真な信頼~

「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカ18:17)

私は受洗以来、新改訳、口語訳を中心に聖書を学んできました。こちらへ来て初めて新共同訳をじっくり読むようになり、言葉の違いから新鮮な発見をするようになりました。例えば、このルカ18:1517の、子供達がイエスに触れて頂くために連れて来られる場面もそのひとつです。新改訳、口語訳では、子供達を幼子(おさなご)と訳していますが、新共同訳では乳飲み子と訳しています。
長年、幼子という言葉からここで登場する子供達を37歳とイメージしてきた私は、乳飲み子という言葉に軽い衝撃を覚えました。幼子と乳飲み子では、保護者への依存度がまるで違うからです。幼子は危なっかしいながらも自らの足で歩き、たどたどしくとも自らの言葉を発します。しかし乳飲み子は、食事も排泄も入浴も意思の伝達も移動も、全て保護者に委ねなければ生きていけない存在です。そんな、生活の全領域を委ねるほどの純真な信頼を、神様に対して持てる人こそが、神の国に入ることができるとイエスは教えておられます。神の国は、そのような者たちのものだと。翻って自分の信仰生活を振り返ってみますと、いかに神様に対して部分的にしか心を開いてこなかったかということがよく分かります。
全てをご存知の神様に対して、自らの弱さ醜さを隠そうとするとは、何と愚かなことでしょう。乳飲み子を呼び寄せ、祝福を与え、神の国へと導いてくださる神様。今回この箇所を読み直すことで、私はもっともっとたくさんのことを神様にお話ししても良いのだと、心から実感することが出来ました。感謝いたします。アーメン。
                                            A.T.姉

2020年1月13日月曜日

2020.1.12. 牧師室便り

~ 世界平和のために祈ろう ~

 アメリカによるドローン攻撃でイランの指導者が殺されました。それに対する報復としてイラクにあるアメリカ基地が爆撃されたとのニュースが流れました。IS問題が決着つくと思いきや、世界は再び戦火に包まれようとしています。何をもって弁明しようとしても、他の国を攻撃し、人を殺すことはあってはならない罪であることに変わりはありません。中東における緊張関係はいつまで続くでしょうか。

 エルサレムの平和を歌っていた聖書の詩人の言葉は、ただエルサレムだけの平和を歌ったわけではありません。聖書に記されている「平和」(シャローム)は、神の造られた世界全体が神の支配のもとに置かれ、互いが愛されているものとして生きる状態を指します。神の造られたもののうち、ただイスラエル民族、白人、アメリカといったものが選ばれたわけでも、そのものだけが尊いわけでもないのです。

しかし人は常に自分と他人との関係において違った価値を置き、絶えず分離し、差別しようとする習性をもっています。だからでしょう。人は弱いもので、“やられたらやり返す、歯には歯、目には目”といった価値観に捕らわれて生きています。その結果が殺し合いや破滅に結び付くことを知っていながらも、その瞬間の怒りや憤りを抑えることができず、感情が動くまま爆発させてしまうのです。そのような自己中心の怒りと憤りが世界の終末を早める大きな原因となるのです。

2020年が始まったこの時、私たちは平和を作り出す者としての使命を確かめましょう。主イエスが十字架の上で真の平和と和解を成し遂げられたことを心掛けつつ、十字架の赦しと和解の福音を広めるこの一年としていきましょう。大げさのように思う方がいるかもしれませんが、世界平和のために祈ることは神がキリスト者に望んでおられる最も緊急性のある主題であることを覚えつつ、平和のメッセージを発信し続けましょう。シャローム! 

2020.1.12. 本日の宣教

人は何によって生きるか 』 (マタイによる福音書62534)

今日の聖書箇所は、山上の説教と言われる聖書の中で最も有名で大切にされている内容です。イエス様は、当時の人々の価値観、つまり「人は何によって生きるか」を、山上の説教を通して示しています。

主イエスは、本日の御言葉を通して6回も「思い悩むな」と命じられます。ここでの「思い悩む」とは、今日でないことに心を奪われ、右往左往する心の状態を表します。まさしく人は、人生を通じて思い煩う日々を過ごします。とりわけ食べること、飲むこと、着ること、つまり、生きることへの不安と心配がその中心を占め、思い煩ってしまうのです。そのような弱い私たちに向かって主イエスは「思い煩うことをやめなさい!」と命じられているのです。私たちが思い煩わなくていい理由こそ、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だから」です。そこで、主イエスは生き方の提案として、「空の鳥と野の花」を挙げられます。そして、「よく見なさい。…注意してみなさい」と勧められます。ここで「見る」とは、じっと観察することです。「空の鳥たちも、野の花も、創造者なる神の御手の中で守られ養われていることを自分の目をもって確かめ、揺らぐことなく信じなさい」という教えなのです。

そこで私たちに必要とされることこそ、“まず、「神の国と神の義」を求めて生きることだ!”と示しておられる。神の国とは、死んでいく国のことではなく、「神が統治される国、神が主導権を握っておられる生活と領域」、つまり、「神が生きておられ、神が導かれ支配される時間と空間」を信仰の中に迎え入れることです。そしてそれを心から、また日々の生活から信じ求めて生きることです。

それでは、神の国を求めるということはどのようなことでしょうか。それこそ、神の愛に生きることです。神が罪人を救うため人間の体をもって生まれたこと、また、十字架に示される神の命をかけた愛を日々いただき、その愛に感動し、その愛に根を下ろし、その愛に自分のすべての生活を置くことです。その愛が自分のすべてを支配するようにゆだねて生きることです。・・・その神の愛の影響力が私たちを捕らえ、その影響力が私たちの周りへと、富山の町と日本の国、そして世界へと拡がっていくことです。そのために私たちは召し出され、用いられるのです。聖書は、永遠に変わることのない神の愛、また命をかけて愛し続ける神の私たち人への壮大なる愛の物語です。
 2020年の歩みを始めようとする神の家族に向けて、愛なる主イエスは「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(34節)と勧められます。明日のことは私たちの時間でなく、神の御手にある時間のことです。私たちが生きる時間は「今」と「今日」しかありません。その「今」、「今日」という時間を「何によって生きるか」心掛けながら歩みたいものです。ハレルヤ!

2020.1.12. 小さな泉の恵み


神さまにおねがい
いつも
毎日与えてくださるから
それが贈り物であることを
わたしは
忘れてしまいます
わたしは
自分が持っている
大切なものを
たいしたものと思わず
わたしは
大切なものなど
持っていないと
考えてしまいます
わたしは生きています
毎日、たくさんの人のなかで
時を過ごして
いそがしく生きています
だけど思います
わたしはひとりで孤独です
なにがこれを
埋め合わせてくれますか
わたしに
信仰をわからせてください
イエスさまが
わたしとともにいてくださると
言われたことは本当だと
目には見えなくても
わからせてください
そして今
わたしが
この地上に置かれている意味を
わからせてください
愛しています

                A.M.姉    

                   
                              

2020.1.5. 牧師室便り

~ オアシスとなる教会  ~

 「主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。
あなたは潤された園、水の涸れない泉となる 。(イザヤ58:11)」

2020年元旦礼拝、多くの方の出席で恵まれたひと時を過ごしました。その中でも、しばらく交わることができなかったディアスポラの神の家族が年末感謝礼拝と元旦礼拝に集われたことは何よりの喜びでした。岡山から、大阪から、名古屋から、東京から、韓国から…。ただ実家が富山だからというのではなく、小泉町教会の礼拝を慕い求め集われた皆さんでした。皆さんの喜びと感動、涙を目の当たりにしながら、一つのことが心に示されました。“小泉町教会はその名前通り、この世の荒野を旅する人々、疲れている人々に小さな泉、オアシスとなる教会になるのだ”と…。

神の家族の皆さん、われら小泉町教会がこの世の荒野の旅に疲れ、さ迷う人々のために潤された園、水の枯れない小さな泉が湧き出るオアシスとなれば、それはいかに素晴らしいことでしょうか。救いを求めて訪ねてくる求道者はもちろん、長い間信仰共同体から離れ荒野の旅を続けている兄弟姉妹、また、日本国内や世界各地に散らされて生活するディアスポラ(散らされた神の民)の神の家族が、いつでも命の水を求めて帰ってきて、憩いを得るオアシスとなれば・・・、とりわけ伝道開始60周年を迎え、今までの小泉町教会を振り返りつつ、これから目指すべきビジョンと働きを御言葉と祈りの中からいただかなければなりません。生きておられる神は、この一年、いかなる恵みを注がれることでしょうか。期待しつつ、主に喜ばれる礼拝共同体として、信仰による一致をもって歩みましょう。シャローム!

2020.1.5. 本日の宣教

『星と輝く人、星と輝く教会 』 (イザヤ6014、ダニエル123)

新年、明けましておめでとうございます!!! 主イエス・キリストの恵みと祝福が2020年の歩みを始める神の家族お一人お一人とご家族の上に豊かに注がれますように…。

本日、私たちは新しい一年を始めようとするところで、預言者ダニエルの姿に目を向け、御声に耳を傾けたいと思います。ダニエルは、幼い頃、愛する祖国南ユダから敵国のバビロンに捕虜として連れられて行かれ、バビロン王に仕えることになります。10代の少年がバビロン帝国という、当時の世界の覇者であった国に捕虜として連れ去られる。そこで新しく与えられた名前が、ベルテシャツァルでした。10代の少年にしては、当然のごとく、ユダヤ人の名前も、ユダヤ人としてのアイデンティティも忘れてしまってもおかしくない状況だったと思います。しかし、彼は、幼いながらも、神からいただいたダニエルという名前も、また、神の民としてのアイデンティティとプライドも忘れることはありませんでした。

ダニエルに関する有名な物語として、燃え盛る炉に投げ込まれても、獅子の洞窟に投げ込まれても神を裏切ることはしなかった、むしろ命懸けで信仰を貫いたところ、生きておられる神がダニエルを守られたことが聖書に記されています。そのようなダニエルを、神はバビロン帝国だけでなく、その後のペルシア帝国においても、輝く星として用いてくださいます。異国の地、異国の神々の世界において神の民として生きるということは、大変なことだったでしょう。しかもその異国の地の人々に、憧れの存在として善き影響力を与えるということは奇跡に近いことだったと思われます。

神の家族の皆さん、ダニエルの活動していたバビロン帝国、続くペルシア帝国は、異国の地、偶像崇拝に満ちた世界でした。周りに神を知っている人はいない、一人寂しく信仰を貫いていた時代だったでしょう。これはまさに、12000万の日本人口の中、しかも八百万の神々を信じる風土の中、1%にも至らない私たちクリスチャンの状況に当てはまるのではないでしょうか。しかし神は、実に暗闇が深まる地、どこを見ても光の見えない暗闇のただ中、ダニエルに素晴らしいビジョンを語られます。「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く」(ダニエル12:3)…「目覚めた人々」を星と輝かせてくださるというビジョンでした。「目覚めた人」とは、“思慮深い人、注意深く分別のある人”を指します。すなわち、自分の生きている時代と歴史にしっかり立ち、見極める知恵を得ている人が星のように輝くことになる。その「星と輝く人」を通して暗闇の中にいる多くの人を、救いの方へと導かれると神は約束してくださいました。その通り、ダニエルは常に時代と歴史のただ中で目覚め、多くの人を救いへと導く働き人となったのです。
 今私たちの生きている世界は暗闇です。自然災害、戦争、不義と不法といった暗闇に覆われています。しかし、星は、暗闇の中にあってこそ、もっと輝きますし、星は自分の置かれた場所を離れず、暗闇の現実に悩む多くの人を救いへと導くのです。このような人を、神は「星と輝く人」と呼ばれるのです。ハレルヤ!

2020.1.5. 小さな泉の恵み


~私とあなた~
 宗教哲学者のマルティン・ブーバーは、著書『我と汝』で、現代人の人間関係を三つに分類しました。
一つ目は「これとこれの関係」です。この関係は、互いを物のように利用して捨ててしまいます。
二つ目は「私とそれの関係」です。この関係は、相手が自分を物のように利用しても、自分は相手を最後まで人格的に接するときに成立します。
三つ目は「私とあなたの関係です。これは、互いに人格的に接し合う関係です。
ブーバーは、ここで重要なことを付け加えています。「私とあなたが互いを人格的に信頼しても、その関係はいつでも壊れ得るという緊張感がある。これが人間の弱さである。そのため、『私とあなた』の間には、いつでも関係をつなげ、仲立ちをする存在が必要である。」…ブーバーはその存在を「永遠のあなた」と紹介し、それはイエス・キリストであると言っています。親子や夫婦、友人の関係をキリストを通して見る時、またキリストにあって共にひざまずくとき、赦し合い愛し合う完全な関係を築くことができるのです。                 
                    ~週報係~

2019.12.29 牧師室便り

~ 光の子としてアーメンを生きる ~

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソ58

聖書はキリスト者を光の子と呼びます。光こそキリスト者のアイデンティティーであるからです。しかし、キリスト者を取り囲む世界は暗闇なのが現実です。暗闇の世界は光の子たちを倒し暗闇に閉じ込めようとします。光と暗闇は一緒に存在することはできず、光の力が増す時に暗闇は力を失うからです。聖書の中に光と暗闇の戦いが頂点に達した時こそが、イエス・キリストの誕生物語とゴルゴタの丘の十字架と復活の時として記されています。その光と暗闇の熾烈な戦いはやがて主イエスが再び来られ、サタンと暗闇の世界を裁かれる時に終わりを告げることになるでしょう。

光の子であるキリスト者は、主イエスの再臨の日を待ち望みつつ、常に暗闇との緊張した戦いの中を生きる存在なのです。しかし、暗闇との戦いに、決して押しつぶされてはなりません。絶えず、主イエス・キリストの十字架の愛と光に自分自身の罪や弱さを引き出し、癒していただき、新しい人を身に着けることです。そして聖霊との親しい交わりと力強い助けにゆだねることです。

そして、光の子として生活の全領域に及んで、主イエスの光を照らし続けることです。暗闇の世界において光の子として歩むためには、「いつも、あらゆることにおいて」、主イエスに喜ばれることが何であるかを見分ける生活習慣を身につけることでしょう。すなわち、いつ、どんな場面に置かれても、「主イエスだったらどうされただろうか」と忘れず問いかけることであって、その時示される御心に「アーメン」と応答する必要があるのです。

一年の最後の主の日を迎える神の家族の皆さんは、「アーメンの生活」を実践していますか。主イエスのチャレンジに、まず、心からアーメンと答え、体をもってアーメンの生活を歩むことです。私たちが光の子であれば、口だけのアーメンにとどまってはならず、アーメンという応答を口から心へ、心から生活へと広げていく時、暗闇の中にいる人々を光の方へと導くことができるのです。
“神の家族の皆さん、2019年の一年間、祝福の源としての歩みに感謝します”

2019.12.29 本日の宣教

『祝福の源となる人の祈り 』 (詩編13058)

2019年、一年間の歩みを祝福し守ってくださった父なる神を賛美いたします。また、神の家族同士による執り成し、愛と支え合いをありがとうございます。

    ラインホールド・ニーバーの祈り
神よ、
私に変えることのできないものは、
それを素直に受け入れるような心の平和を!
変えることのできるものは、
それを変える勇気を!
そして変えられるものと変えられないものとを、
見分ける知恵を!
この私にお与えください。

一日一日を大切に生き
一瞬一瞬を楽しみ
困難を平和への道として受け入れ
この罪深い世界を
私が求めるようにではなく
主がその現実を受け止められたように
受け止めさせてください

もし私が主のみ旨にゆだねるなら
主はすべてのことを
良きにしたもうことを
信じつつ
私がこの世でそれなりに
幸せに暮らし、
来るべき世においては
永遠に主と共に
最高に幸せな者となることができますように
アーメン      

2019年の一年、52週間の歩みを振り返ると、この祈りの内容に立たされた経験があるでしょう。自分の力で変えることのできないものの前で変えて見せようと力んだり、イライラしていたこと、また変えることのできるものなのに勇気がなくあきらめてしまったことなど…。
ぜひ、一年間の歩みを導き守られた父なる神に感謝し、新たな一年の知恵を祈り求めましょう。ハレルヤ!

2019.12.29 小さな泉の恵み


どうも高齢になると体調が悪くなるといろいろのことを思う時がある。
 ここ二,三年は起伏の多い年である。今年も電光花火のように歳月が流れもう一年は終わりますが、その間悲しいことや嬉しいことが交々のことが多くあり、なおさら早く過ぎたような感じがします。
 自分のことを言えば、11月の中ばより、軽いセキ・のどの痛み、身体のだるさがありそれが大したことがないだろうと思っていたらだんだん重くなりそれが長い間発病しなかった坐骨神経痛が併発して歩くのも苦痛、セキと微熱・神経痛に襲われ、神様は大変な試練を与えてくださいました。家で静かにしていていよいよ私にも神様がお迎えが近いのだと考え、もう教会の皆様には会えないのかと淋しい思いをしておりました。
 過日の聖日体調が少し良くなったので、出席。久しぶりに皆様の顔をみていると自然に体が良好になり。普段と変わりなく体調良好。   
感謝しております。今年は令和になっての最初のクリスマスも無事に終了。今年もあとわずか。
 昔の人はいいました。
 これは神様からもらった生命を素直に頂いていくもの。私もそういう言葉で自然体に進みたいと思います。
                         A.M.姉

2019.12.22 牧師室便り

~キリストと食事会を!~

 ウォーレン・バフェットという世界一の投資家で金持ちである人のことをご存知でしょうか。彼は今から20年前の2000年のある日、“自分と二人だけで昼食会ができる権利をオークションにかけたい!”という驚くべき企画をしました。第一回目の昼食会に落札された人が出したお金はなんと3百万円であったそうです。神の家族の内に一回の食事に300万円の代金を払って食事できる人はいるでしょうか。・・・興味深いことに、2000年から毎年行われたその昼食会は今年で20回を迎えることになりましたが、年々その落札価格が上がっていき、今年ウォーレン・バフェットさんとの昼食会の落札価格が日本の円で約5億円にまで上ったそうです。本当に驚きです。

 一般人は普段、百万円というお金も手にすることさえ難しいのに、ささやかな食事とウォーレン・バフェットとの3時間ほどの時間を共に過ごす、たった一度の昼食会のために5億円を払ってまで、ウォーレン・バフェットという人と交わりたいという選択をする人もすごいと思いますよね。そこで、さらに驚くべきことは、過去20年間、バフェットと昼食をする権利を得た人々のうち、誰一人自分が出した昼食会のお金を惜しまなかったということでした。本当に驚きの連続です。ちなみに落札されたお金は全額、慈善団体に寄付されるそうです。 

本日、ウォーレン・バフェットさんとは比べられないほどの金持ちで、最高の知恵と力をもっている方が皆さんに会いたい!と望んでおられます。その方こそ、天地万物を創造され、あなたと私を救うために命まで捨ててくださり、永遠の命をプレゼントとして与えてくださるイエス・キリストです。クリスマスは命のパンとして私たちのうちにやってこられたイエス・キリストを迎え入れる時です。そして、主イエスに会うために必要なものは、金や銀ではありません。素晴らしい名声でも、地位でも、知識でもありません。主イエスが求められるのは、ただ貧しく悔いる心、また、その方に会いたいという飢え渇く謙遜な心です。それだけでいいのです。神の家族の皆さんは主イエスの食事会への招きに応答できますか。

2019.12.22 本日の宣教

『 主に喜ばれる贈り物を献げましょう 』マタイによる福音書2911)

あなたがイエス様のお誕生のプレゼントをするのであれば、どのようなものを献げられるでしょうか。宇宙万物を造られ、すべてを所有された方にどのような贈り物がふさわしいでしょうか。恐らく、これといった贈り物を選ぶことは大変難しいことでしょう。しかし、そのような困った中で、一つヒントをくれる人たちがいます。その人たちこそ、東方の博士たちです。彼らは黄金と乳香、没薬という当時の宝物を捧げましたが、私たちは目に見えるこれらの宝物ではなく、目には見えませんが、彼らのうちに素晴らしい贈り物が隠れていたことを探して見たいと思います。

まず、博士たちに隠れていた贈り物として「希望」がありました。星を追い求めていた博士たちは旅の途中、どれほど多くの藤に直面したことでしょうか。しかし彼らは決して最初に抱いた「世界の王に会って礼拝したい」という「希望」を捨てることはありませんでした。この「希望」が幼子イエス様に出会わせてくれたのです。もし、あなたの人生においても真っ暗な夜に襲われた時、あなたは何を仰ぐでしょうか。真っ暗闇に目を向けましょうか、輝く星を仰ぐでしょうか。真っ暗な「絶望」でしょうか、暗闇の中で輝く「希望」でしょうか。神は私たちの人生の旅においても時々、2000年前の東方の博士たちにされたように、輝く希望の星を現すために、暗闇を用いられることを覚えましょう。光は暗闇の中でだけその光を輝かせるからです。彼らが携えていた希望を主イエスは喜ばれたことでしょう。

次に、彼らに隠れていた贈り物として「時間」がありました。聖書学者たちによると、東方の博士たちはペルシア王国、現在のイランから星を追いかけて来たと言われています。すなわち、太陽のあるうちは休息を取りながら、夜だけ旅を続けるしかありませんでした。そのため12年ほどの時間がかかったと言われているのです。その長い旅の中で、時には病気にかかったり、強盗に襲われたり、体力的な問題、経済的問題など、紆余曲折があったに違いありません。考えてみましょう。もし皆さんが一年以上も、安定していた家、安定していた生活を離れ、山を越え、川を越え、荒野で迷うことを想像して見てください。そうです。クリスマスこそ、待ち望む人に出会ってくださる神の御心が示された時です。皆さんは、皆さんの大切な時間を神との交わりのために献げていますか。
最後に、東方の博士たちに隠れていた贈り物は「礼拝」でした。東方の博士たちは身分からしても、また彼らが持ってきた宝物にしても、博士という知識の面にしても、間違いなく経済的に富んでいて、社会的な名声や影響力をもっていたに違いありません。しかし彼らは、ベツレヘムの暗く狭い、また動物たちのフンの匂いで充満していた汚い馬小屋に入ることを躊躇しません。そして彼らは、みすぼらしい若い夫婦と生まれたばかりの赤ちゃんを目の当たりにした時、「ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。」(2:11)…そうです。東方の博士たちは、幼子イエスの前にひれ伏し礼拝をささげたのです。真心から献げる礼拝を通して、私たちは最も近くで神の御姿をはっきりと見ることができますし、私たちと共におられるインマヌエルのイエスの臨在に包まれることになり、私たちに出会わせてくださる神の熱心に触れることになるのです。ハレルヤ!

2019.12.22 小さな泉の恵み


~不安な時間~
週報の係をしていて、埋まっていない欄があるのはとても不安です。とりわけ小さな泉の恵みや奉仕表も空欄になっている時の、私の不安な思いを書かせていただきます。
実は先日、礼拝を欠席したので、11月分「リビングライフ」を受け取っていませんでした。いつでも教会に寄って取ってくるわ。と、思っていましたが、今日は…明日は…と、日がすぎて、「ま、いいや」と、結論付けてしまいましたが、なんだか寂しくて不安だったんです。
ほんの少しの時間をなまけて、何日も冊子に触れないこともたくさんあったのに。持っているだけで、安心しているなんて、私は、なんという勝手なんだ…
讃美歌「FOOT PRINT」を口ずさんで、涙がじわっと出ています。

♪あなたは何も恐れなくてよい わたしが共にいるから♪ 
キャッ!ごめんなさい。
週報係