2024年12月27日金曜日

2024.12.22 牧師室便り

   「あなたが求める金は?」

「日本漢字能力検定協会」が今年の世相を表す漢字として選んだのが「金」でした。

「金」が選ばれた理由として、パリオリンピックで多くの金メダルを獲得したことや、大谷翔平選手が3回目のMVPを受賞するなど、値千「金」の活躍を表す「金(きん)」が挙げられています。その一方で、政治の裏金問題や金目当ての闇バイト強盗事件、止まらない物価高騰など、陰を映し出す「金(かね)」の側面も指摘されています。

善し悪しにかかわらず、「金」は今だけでなく、人類の歴史の中で最も影響を与え続けてきたものです。特に聖書における「金」は、神の祝福としての富や、「純金のような信仰」という純粋さと尊さを象徴しています。しかし、その反面、「金」は偶像崇拝や貪欲の象徴としても描かれています。すなわち、「金」を正しく用いるならば神の栄光を表しますが、「金」に捕らわれ依存することは罪とされ、信仰を妨げる危険性が警告されています。新約聖書では、富や財産を象徴する言葉として「マンモン(Mammon)」が使われています。特に主イエスの教えにおいて、「マンモン」は神に仕えることと対立することとして描かれ、人間の欲望や物質的執着を指しています。後には「お金の神」として人々を虜にしてしまう悪しき存在とも見なされるようになりました。

「金」は良いものです。「金」がなければ不便になり、心細さを感じます。一方で、「金」があることで安心し、贅沢を楽しむこともできます。わが教会においても、「金」は宣教の働きにおいて重要なものです。ただし、忘れてはならないのは、「金」は私たちの所有物であり、道具に過ぎないということです。「金」が崇拝の対象となり、すべてのものの上に立つようになれば、私たちの生活は悲劇に変わってしまいます。

あなたの「金」の使い方はいかがでしょうか。主イエスが喜ばれる「金」の用い方を求めていきましょう。シャローム!




2024.12.24 本日の宣教

  『星から目を離さない 』

                                                    マタイによる福音書2章9~10節

メリークリスマス!!!クリスマスには、いくつか代表的な物語があります。たとえば、天使ガブリエルによるマリアへの受胎告知、宿屋がなく馬小屋の飼い葉桶で生まれたイエス様の誕生物語、野原で羊の群れを見守っていた羊飼いたちへ天使たちが告げた救い主誕生の知らせ、そして本日の聖書箇所である「東方の博士たちが救い主の星を見つけ、星の導きによってイエス様の誕生を祝い、贈り物を捧げる物語」などです。

本日、私たちに与えられた御言葉には、「東方からの占星術の博士たち」が登場します。当時の「占星術」とは現代の「天文学」のことで、天体の運行を読みとり、時にはその結果が全世界において政治的、社会的に大きな影響を与えることもある最先端の科学でもありました。

本日の御言葉には、私たちが信仰の歩みを進める上での大切な教えと身につけるべき姿勢が示されています。それは、「星から目を離さない」ということです。

博士たちが旅を始めたきっかけは星そのものでした。彼らの目の前に現れた星は天文学的な現象としても興味深いものでしたが、彼らはそれを単なる物理的な現象ではなく、神からのメッセージとして受け取りました。ここに博士たちから学ぶべき姿勢を見ることができます。彼らは星を見つけた瞬間だけでなく、それを見続けました。旅の途中にはさまざまな困難があったことでしょう。異国の地を旅する不安、ヘロデ王とのやり取りの緊張、そして星が見えなくなる時もあったかもしれません。それでも彼らは旅をやめませんでした。いよいよ、星が幼子イエスのいる場所で止まるのを見て、非常に喜んだと聖書は記します。この瞬間、彼らの旅の目的が達成されたのです。重要なのは、彼らが単に 星を見て喜んだのではなく、その星が導いた先にイエスがいたということです。私たちの人生にも、神が与えてくださる「星」、すなわち導きがあります。しかし、それを見つけるには信仰の目が必要です。例えば、何気ない日常の出来事や、人との出会い、聖書の言葉が突然心に響く瞬間。それらはすべて、神からの星かもしれません。しかし、忙しい生活の中でその輝きに気づかず見逃してしまうことが多いのです。博士たちのように、神が与えてくださる導きを敏感に受け取る心を持ちたいものです。

私たちも、神が与えてくださる星を追い求めるとき、その目的地が何であるかを理解しておく必要があります。それは、イエス・キリストとの出会いです。仕事や家庭、教会での奉仕など、人生のさまざまなところで私たちは星の導きを求めますが、その最終的なゴールは常にキリストとの親しい交わりであるべきです。

博士たちの喜びは、星に出会った喜びではなく、イエスに出会った喜びでした。私たちの信仰生活でも、真の喜びはキリストを中心とした生活の中にあります。

願わくは、博士たちが星を見て旅を続けたように、私たちも神が与えてくださる星を見続ける者でありたいと思います。その星が必ずイエス・キリストへと導いてくれることを信じて、困難があっても目を離さずに進みましょう。ハレルヤ!

         

2024.12.22 小さな泉の恵み

 ~30年前のメリークリスマス~

今から30年前のクリスマス礼拝の日、小雪の舞う寒い朝に、娘の友人とそのお母さんに誘われ、当時中学生だった娘と小学生だった息子と共に、私は初めて富山小泉町キリスト教会の門をくぐりました。私のクリスマス礼拝参加の第一歩です。

その日の寒さとは対照的にドアの向こうの皆さんは、寒さを吹き飛ばすほどの笑顔で私たちを暖かく招き入れて下さいました。そして私は、初めての教会のクリスマス礼拝の間、讃美歌が流れる中で、なにかわからない感情で涙があふれるのを止めることができず、泣き続けていました。本当に不思議な体験でした。

その後の愛燦会、祝会では以前の古いけれど温かみのある食堂や礼拝堂で楽しいひと時を過ごすことができ、旧姓高橋真理子さんの進行で皆さんが笑顔でゲームなどをしておられたのを昨日のことのように思い出します。

実は私たちを小泉町教会へ連れてきて下さった友人のお母さんは、クリスチャンではなく、そのご主人がクリスチャンで、本多先生と同郷だったこともあり、教会を離れていたご主人をよく訪ねておられとのことでした。その小さな光の連鎖が私たちを教会に導き、そして今、兄弟姉妹と共に30回目のクリスマス礼拝を迎えようとています。 主よ感謝します。  

ハレルヤ! メリークリスマス!      

                             S.Y.姉

2024年12月15日日曜日

2024.12.15 牧師室便り

   「あなたの信仰を表しなさい 」

クリスマスシーズンを迎え、今年は小さな泉のカフェや市民クリスマスの担当教会としての役割、そして恒例のクリスマス諸行事の準備が重なり、例年より忙しさが増しています。そのような中、小泉町教会の宝物であるお年寄りの皆さんが体調を崩し、病の中で苦しい時を過ごされていることに心を痛めつつ、主の助けを祈りながら日々を過ごしています。

特に心を悩ませているのは、長年礼拝を最優先にして歩んできたA姉が、家族の反対により教会に来られない状況です。姉妹は、体調の優れない日が続き、外出もできなくなったため、ここ半年以上礼拝に出席できていません。教会が迎えに行くという申し出もご家族が拒まれ、A姉は寂しい思いの中で心身ともに衰弱している状況です。

一方で、重い病のT姉は家族から信仰の理解を得ており、特に礼拝を大切にしていることを家族が知っているため、積極的に「教会へ行ってきなさい」と背中を押されている日々です。特に先週、T姉が緊急入院された際も、ご家族が「教会の牧師が面会できるように」と病院に願い出てくださり、訪問が実現しました。面会では、T姉が笑顔で迎え入れ、感謝の祈りのひとときを共にすることができました。

信仰が家族に理解されることは日本社会では難しい課題です。実に、主イエスへの信仰や礼拝生活が家族の無理解によって途切れることほど悲しいことはありません。信仰を共有できる家族のいる人はいかに幸いなことでしょう。

このクリスマスの季節、暗闇に光として来られた主イエスを覚えつつ、皆さんの信仰を家族に伝えましょう。礼拝が皆さんにとって命であり、礼拝生活が生きがいであること、そして「私は神に愛され、天の御国への確信がある」という信仰を表しましょう。また、人生の最後にはキリスト教式の葬儀を希望していることを家族に伝えることも大切です。

愛する神の家族の皆さん、皆さんの証を通して神は確かに働いてくださいます。このクリスマスの季節に、信仰が家族や大切な人々への証となり、神の栄光がさらに豊かに現れることを心から願っています。シャローム!



2024.12.15 本日の宣教

   『光が勝つ』

                                                           ヨハネによる福音書1章5節

 「クリスマスの喜び」  詩:作者不詳

夜空に星が輝き渡る

静かな夜、救い主が生まれる。

羊飼いは耳を澄ませ

天使の歌声に心踊る。


「神には栄光、地には平和、 

人には御心の喜び。」

光は闇を裂き

希望は新しい朝をもたらす。


ベツレヘムの小さな町に

永遠の愛が宿りたもう。

救い主イエス、私たちのために

生まれた夜に感謝しよう。


心を開き、彼を迎え

愛と平和を世界に伝えよう。

クリスマスは新たな始まり、

恵みと希望の時となる。


「光が勝つ」と聞いたとき、何を思い浮かべるでしょうか?朝日の輝きや暗闇の中で灯る小さな光を想像するかもしれません。この言葉は、クリスマスの出来事を象徴するメッセージでもあります。神が人としてこの世に来られ、暗闇の中に輝く光となってくださったのです。

ヨハネの福音書1:5には、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(やみはこれに打ち勝たなかった。~新改訳)」とあります。この言葉が示すのは、イエス・キリストという光はどんな暗闇にも圧倒されることなく、勝利をもたらすという真理です。

私たちの世界は、暗闇に例えられる多くの問題を抱えています。絶えない戦争や災害、病、差別、貧困といった現実は、私たちの心に重くのしかかります。このような暗闇の中で、人々は希望を見失いがちです。

しかし、聖書の物語は暗闇だけで終わりはしません。暗闇は、依然として存在しますが、それを超える力、つまり「光」があるのです。その光こそイエス・キリストです。

「光は暗闇の中で輝いている」という御言葉は、私たちに大きな希望を与えます。イエス様は、ただ単に光として存在するだけではなく、暗闇の中で「輝く」光です。輝くとは、動的であり、暗闇に影響を与え続け、やがては勝利を与えることを意味します。

クリスマスこそ、この光が人となって来られたことを祝う時です。主イエスは、私たちの罪という暗闇を打ち破るために来られ、十字架と復活を通してその勝利を完成されたのです。願わくは、この光に満たされて歩む幸いな日々でありますように。ハレルヤ!


2024.12.15 小さな泉の恵み

 -私たちの教会の「伝道開始60周年記念誌」を読んで-

なかでも目を引いたのが、29頁にある白黒の写真でした。現地に会堂を建築したのが1961年なので、おそらく1960年代のものと思われます。当時は、周りはいちめん田んぼでした。その一枚には、水鳥?が、たくさん舞い降りてエサを食べている様子も把握できます。

レイチェル・カーソンが農薬問題を背景に『沈黙の春』を出版したのは1962年ですが、日本でもこの60年代から異変が起きてきたのです。50年代までは、まだうるさい位の多様な生き物であふれた豊かな春だったようです。きれいな山や海を持つ富山県人は環境問題にうといと言われていますが、私もそう思っていました。しかし、砺波平野のある農民は、70年代の土地基盤整備により、フナ、メダカ、コイが全部いなくなり、大変なショックだった。「自分にとっては、それらは友達だった」といいます。そこから水と生物多様性を改善する農法を何とか考えたいとなり、実際、彼は世界的に通用している有機農法を開発した一人の立役者となりました。70歳に近くなった私でさえその豊かな春の記憶は薄くなっていますが、子供たち世代には何とか残したいと日々考えています。

                         S.T.兄

2024.12.8 牧師室便り

  「 平和の主を待ち望む 」

先週の火曜日の夜中、驚くべき知らせが届きました。隣国であり、私の祖国でもある韓国で非常戒厳令が発表されたということでした。そのニュースを見た瞬間、恐れ、興奮、そして怒りが込み上げてきました。

韓国は長い間、軍部独裁が続き、軍人や邪悪な権力者による非常戒厳令の下で、多くの市民が犠牲になったことを思い出します。その悲劇の歴史が再び訪れるのではないかという思いに、胸が締め付けられるようでした。

今回の非常戒厳令は、大統領とその家族の腐敗を隠すために始まったものでした。国会や一般市民を弾圧し、彼らの血で自分たちの罪悪を覆い隠そうとする狙いがあったのです。世界の多くの国でも、同じように権力者たちが自らの欲望や腐敗を隠し守るために多くの国民を犠牲にしてきた歴史を知っています。今から45年前の「光州事件」(光州民主化運動)も、まさに非常戒厳令によって数千人が犠牲になりました。

実は、クリスマスの時にも同じような悲劇が起きていたことを聖書は記しています。当時のヘロデ王は、自らの権力を安泰にするため、救い主であり真の王の誕生を知らせた東方の博士たちの言葉を聞き、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺してしまいました。この悲劇は、神の御子が人の姿を取ってこの世に来られた究極の謙遜と犠牲の象徴である出来事と重なります。救い主を待ち望むアドベントの時期に、このような悲劇が起こることに、胸が痛む思いです。
このクリスマスの季節、世界中のキリスト者たちと世界の権力者たちが、王の王、主の主であられるイエス・キリストの謙遜、犠牲、そして愛の御姿にひれ伏し、真の平和を実現していくことを祈りつつ…。シャローム!

2024.12.8 本日の宣教

 『おめでとう マリア』

                                                       ルカによる福音書 1章26~38節

 アドヴェント第二週の主の日を迎えました。「アドヴェント」とは「到来」を意味します。救い主が来られることを待ち望む「時」、私たちにとっては、御子イエス様の降誕・クリスマスを待ち望む備えをする時であると承知しています。聖書の出来事に思いを巡らしながら、主の導きを求めつつクリスマスの日を迎えましょう。

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカ1:26)

天使ガブリエルが、ナザレの町に住むおとめマリアに<受胎告知>をする時の挨拶の言葉です。「おめでとう、マリア。」という言葉のラテン語訳が「アヴェ・マリア」です。本来は「こんにちはマリア」という挨拶の言葉だそうですが、そこには単なる挨拶では終わらない、他の挨拶とは違うのだと言う意味合いを込めて、「おめでとう」という訳語を多くの翻訳者があてているのです。

 突然の天使の来訪とその言葉にマリアは戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込みました。天使は「あなたは神から恵みをいただいた」と重ねて告げます。「恵まれた方」とは何だろう。「恵み」とは何だろう。30節の直訳は「あなたは神のかたわらで恵みを発見している」(田川建三訳)となるそうです。神の恵みとは見ようとしなければ見えないものであると言うことができるのでしょう。「神の子の母となる」という事は、マリアにとって「恵み」と言えるものだったでしょうか。「おめでとう」と言われるものだったでしょうか。ヨセフと婚約中の身であったマリアにとっ て、これは当時の律法の基準から言えば、死にも値するもの、一生負わねばならない重荷であると分かっていました。ヨセフは何と言うでしょう。ナザレの町の人々はどんな目で自分を見るでしょう。どんなに弁明しても誰が分かってくれるでしょう。様々な心配事が一気にマリアを襲ったでしょう。そしてマリアは「ノー」と言うことも出来ました。

 マリアは苦渋の決断をします。「神に出来ないことは何一つ無い。」と宣言する天使の言葉を受け入れ、「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように。」と。マリアにとって「苦難の人生」の始まりであったかもしれません。けれどこの「イエス(はい)」が、「神我らと共におられる」インマヌエルという出来事を現してくれることとなったのです。

 わたしたちもまた、「何故?」と言う出来事に出会っていきます。けれど、迷いの中で、苦渋の中で、理解してもらうことは難しいと思われる中で、恐る恐る「はい」とうなずくときに、「神に出来ないことは何一つない」キリストが共に歩んで下さる人生を進んでゆくことが出来るのです。「おめでとう」と語りかけて下さる「恵み」のうちに、クリスマスを待ちましょう。

                           金沢教会員  田 口 淳 子


2024.12.8 小さな泉の恵み

 ~名古屋から~

皆さん、こんにちは。

私の弟は小さい頃から将棋が好きで、棋力があります。将棋をしようと弟から言われてもどうせ負けるからと避けてきました。それが2020年に藤井聡太棋士が初めてタイトルを獲得した戦いをライブで観たのをきっかけに、藤井聡太ファンになり、観るだけではなく自分も指してみたいと思うようになりました。今は簡単な詰将棋を2問解くのが日課になっています。弟とも将棋の話ができるようになりました。将棋好きになったことが、神様の働きに役に立てたらいいなと思っています。

                             E.N.兄

2024.12.1 牧師室便り

  「 新しい御業を期待しましょう 」

夏の時期から教会の花壇を美しく飾ってくれたマリーゴールドが、いよいよその役目を終え、花壇から姿を消すことになりました。そして、新たに花壇には冬を越しながら花を咲かせるビオラやパンジーを植えることになります。その前に、花壇の土を整え、栄養を与える作業を行う予定です。今年は酒井夫妻からいろいろと知恵をいただきながら、花壇や牧師館の周りの畑を新たに整えることに取り組んでいます。

ちょうど同じ時期にチューリップとヒヤシンスの球根を土の中に深く植える作業も行います。冬の間、土の中でどのように成長しているのかを目にすることはできませんが、来年の春頃になると、厳しい冬を越した球根から新しい芽が出て、美しいチューリップとヒヤシンスの花を見ることを楽しみにしています。

私たち小泉町教会も同様に、季節ごとに与えられた務めを果たし終えながら、常に新しいことに取り組みます。時にはビオラのように、最初から美しい花を楽しむこともありますが、多くの場合は、何も見えません。しかし、私たちの神は、時にかなって新しいことを起こされます。時には、私たちが準備し計画していたことが美しく花を咲かせる時もあれば、何も見えず、ただ不安の中で、全てを神様に委ねるしかない時もあります。そのような時こそ、神の御業を期待し、信仰を持って進むしかありません。

 今日からアドベントに入ります。アドベントは、暗闇の中に真の光としてお生まれになるイエス・キリストを待ち望む時です。何も見えない真っ暗闇であっても、信仰の目を持って過ごす時こそアドベントなのです。願わくは、アドベントの4週間、人知を超えた大いなる恵みを、神の家族お一人おひとりが味わいますように…。シャローム!



2024.12.1 本日の宣教

 『言、命、光なる主 』

                                                   ヨハネによる福音書 1章1~5節

本日からアドベント(待降節)が始まります。救い主の誕生を待ち望みつつ、互いに心に灯りを灯しましょう。

ヨハネによる福音書は、マタイやルカのように主イエスの誕生物語を羊飼いや天使の訪れなどを用いて描きません。代わりに、ヨハネは天地創造の始まりにまで遡り、壮大な視点からイエスを「言」「命」「光」として紹介します。

1. 「言」として来られたイエス

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(1~3節)」

ヨハネによる福音書の冒頭のこの言葉は、聖書の始まりである創世記の冒頭の言葉「初めに、神は天地を創造された」と同じく、「初めに」という言葉で始まっています。これらの個所を見ますと、ヨハネによる福音書の記者は、「創世記」の天地創造に先立って、その天地創造が、「神の言」によって始まったことを告げようとしていることが分かります。さらに、ヨハネは「初めにあった言」こそ、「神の独り子」イエス・キリスト御自身であることを明らかにしています。すなわち、ヨハネは福音書の最初で「言」(ロゴス)という表現を通して、イエス・キリストが神と共に天地創造を成し遂げられた「言」として存在され、そのイエス・キリストこそ、神の御子であったことを記しているのです。そして、今も神は、生ける「言」によって、新しい創造の業を成しておられることを私たちは知っています。 2. 「命」として来られたイエス

ヨハネは続けて、「言のうちに命があった」と語ります(4節)。「命」という言葉は、ヨハネによる福音書には「36回」も登場しており、それほどヨハネは「命」を大切に伝えたかったことが分かります。すなわち、この「命」は、ただ肉体を生かすものではなく、霊的な命、すなわち永遠の命を意味します。罪によって死んでいた私たちに、イエスは命をもたらしてくださいました。この命は、イエスを信じる者すべてに与えられる約束の命です。クリスマスは、その命の贈り物を感謝して受け取る日なのです。

3. 「光」として来られたイエス

「その命は人の光であった。光は暗闇の中に輝いている。」(4-5節)

主イエスは、暗闇の中に輝く光として来られました。暗闇は、罪と死、絶望を象徴します。しかし、主イエスが来られたことで、その暗闇は打ち破られ、希望の光が差し込みました。

クリスマスの星が輝き、羊飼いたちや占星術学者たちがその光に導かれたように、主イエスという光は今もすべての人を神の御もとへ導いています。この光は、私たちの罪を照らし出し、悔い改めに導く光であると同時に、絶望の中にいる人々を慰め、希望を与える光でもあります。願わくは、今年のクリスマスを通して「言、命、光」なる主イエスとの深い交わりが与えられますように…。ハレルヤ!


2024.12.1 小さな泉の恵み

 12月の放送で約5年半66回続いた富山シティFM SDGsカフェ〜七色と十色の店長としての番組ナビゲーターを降板することになりました。

  今回は、東日本大震災発生後すぐに宮古市を訪問し、YMCA宮古ボランティアセンターを開設・運営された盛岡YMCA総主事の濱塚有史さんと柳田公民館で活動を開始した閔丙俊先生との対談となりました。

特に、被災された方々の心のケアについてお話ししていただきました。 閔丙俊先生にギターの弾き語りで3曲歌っていただきました。 ぜひ、お聞きください。 番組は、6回再放送されます。

以下の時間帯で富山シティエフエムのWEBサイト【ネットでラジオ】にアクセスすれば、世界のどこからでもスマホで聴くことができます。

12月4日・11日(水)14時~15時   

  5日・12日(木)18時-19時   

  8日・15日(日)11時-12時   

 富山シティエフエム https://city-fm.co.jp/

                                                        島田 茂


2024.11.24 牧師室便り

  「アーメンを叫ぼう」

クリスマスの季節がやってきました。街にはイルミネーションが広がり、スーパーや商店街にはクリスマスの商品が並べられています。また、教会ではクリスマスを良き伝道の機会とし、さまざまな準備を進めています。

「富山市民クリスマス」では、毎年恒例の「メサイア」を歌います。小泉町教会からは6名の兄弟姉妹が参加し、イエス・キリストのご降誕を賛美をもって祝うことになります。

メサイアのフィナーレは「アーメン・コーラス」です。この曲は、「アーメン」という言葉だけで構成されています。そのため、4つのパートが、「アーメン」という言葉に合わせて、それぞれのメロディを調和させて歌うことになりますが、合わせるのは至難の業です。しかし、最後に全員が声をそろえて「アーメン」と賛美し、メサイアを締めくくるときには、言葉では表現しきれない感動と歓喜を味わうことになります。

ご存じのように、「アーメン」は「信じます」「まことにそうです」「その通りになりますように」などの意味を持つ、信仰告白の言葉です。ぜひ、聖歌隊の賛美の声とその賛美を聞く聴衆たちが「アーメン・コーラス」で一つになりますように…。

以前、私が東京にいた頃、末期がんを患っていた一人の姉妹との交わりを思い出します。彼女の病室に入ると、肉体が腐敗していくような悪臭で満ちていました。本当に、一瞬でもそこにいることが耐え難いほどの厳しい臭いでした。おそらく彼女自身も、死が近いことを感じていたでしょう。それでも彼女は、牧師である私の祈りの言葉に「アーメン、アーメン」と声を上げて応答していました。まさに、パウロが語ったように、彼女の「外なる人」は日々衰えていき、やがて滅びてしまいます。しかし、彼女の「内なる人」は日々新たにされ、やがて永遠の神の御国で栄光に輝く姿に復活するという約束を信じていたのです。その信仰の告白として、希望を込めて「アーメン」と応答してくれたのでしょう。

クリスマスを迎える私たちに、主イエスは「あなたはアーメンをもって私を迎えられるか。アーメンをもって、あなたのすべてを委ねられるか」と問いかけておられるでしょう。皆さんの生活がアーメンで満ち溢れますように…。シャローム!



2024.11.24 本日の宣教

 『沖に漕ぎ出しなさい』

                                                    ルカによる福音書 5章1~11節

イエスが最初の使徒4人を召命するこの箇所は、マタイとマルコの福音書では、ほとんど同じ内容の記述になっています。マタイは4章18~22節、マルコは1章16~20節とそれぞれ5節で記述されています。この二つの福音書では、イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられるときに、ペテロと呼ばれるシモンと兄弟のアンデレが網を打っているのをご覧になって「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。さらに、少し進んでゼベタイの子、ヤコブと兄弟のヨハネが、船の中で網の手入れをしているのをご覧になり、彼らを呼んで、この二人も父と雇い人たちを舟に残してイエスの後について行ったとあります。この個所の記事だけでは、まだ弟子のいないイエスがガリラヤ湖畔を歩いて行って、出会った漁師の4人に「人間をとる漁師にしよう」と語り、漁師たちはイエスの言葉に従って弟子になったという内容で唐突感があります。学問のない漁師たちがなぜイエスの「わたしについて来なさい」という言葉に「すぐに網を捨てて従った」のだろうかという疑問が残ります。

ヨハネによる福音書1章36~42節では、アンデレはもともとバプテスマのヨハネの弟子であったことが分かります。彼は、ヨハネがイエスのことを「見よ、神の子羊だ」と言っていたのを他の弟子と聞いていました。そして、ヨハネがヘロデに捕らえられてから、イエスに他の弟子と従っていったのです。

アンデレは、自分の兄弟シモン・ペテロに「わたしたちは メシアに出会った」とイエスのことを伝え、シモンをイエスのところに連れて行きました。そこでイエスはシモンを見つめて「あなたはヨハネの子シモンであるが、『ケファ』(「岩」という意味)と呼ぶことにする」と記述されています。『ケファ』はアラム語で、ギリシャ語では、ペテロと訳されます。「人間をとる漁師にしよう」というマタイ・マルコ福音書の記述は、唐突に思われますが、同じ記事をヨハネの福音書を読み、ルカの福音書の記述を読むとよくわかります。

イエスは、ケネサレト(ガリラヤ)湖畔で群衆がイエスの言葉を聞こうと押し寄せて来たため、すでに知っていた二人の漁師が漁を終えて岸に上がるのを見かけて、シモンの舟に乗せてもらいました。岸から少し離れたところまで漕がせて、腰を下ろして落ち着いて岸にいる群衆に神の言葉を語ったのです。

もちろんシモンもアンデレも、そして、岸で網を洗っていたヤコブと兄弟のヨハネも、イエスの語る言葉を聞いていたのです。話し終えて、一晩中漁をしたが何も取れなかったシモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われたのです。その言葉に従ったシモンは、おびただしい魚をとることになるのです。

 これまでの生活を捨てて、イエスの言葉に従い、「沖に漕ぎ出す」ことは、どのようなことを私たちに伝えているのでしょうか?


                                                          島田 茂


2024.11.24 小さな泉の恵み

 ~岡山から~

「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。・・・これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。」(レビ19:9-10)

先月、稲刈りを終え、ようやくゆったりと過ごせる時間を持てるようになりました。

稲刈りでは、田圃の隅まで刈り尽くし、落ち穂はくまなく拾い集めました。聖書の御言葉に反する行為ですね。貧しい人々が拾いに来てくれるのであれば、残しておくのですが、置いておいても腐らせるだけなので、拾い集めるしかありません。

時代が変わったと言えばそれまでなのですが、田舎で暮らし、農作業に従事するようになって思うのは、日々の糧を得るために汗を流し、そして収穫を与えてくださる神様に感謝することこそ、人間の暮らしの原点だということです。

収穫した米の一部は天日で干して美味しくいただいていますが、全ての米を稲架掛け(はざかけ)するのは大変なので、大半は農協に出荷して機械乾燥してもらうことになります。米不足が話題になったりしていましたが、いったん農協に出荷してしまうと、どこに行き、誰が食べているのか全くわかりません。無駄にされることなく、必要としている方の口に入りますように・・と祈っています。

稲刈りや田植えを多くの人と一緒にできないものだろうかと思います。大変なところを助けてもらいながら、収穫の喜びを共に分かち合えたら素敵です。

実現するには多くの課題がありますが、「落穂を拾い集めてはならない」と語られる神様ですから、きっと神様は導いてくださると信じて、祈っています。                

                            K.K.姉

2024.11.17 牧師室便り

 ~旅人への贈り物を~

先週のある夜、ある女性から電話がありました。「フードバンクから紹介を受けてお電話していますが、少し食料をもらえないでしょうか」とのことでした。少し戸惑いながらも事情をうかがい、「では、翌日の午後にお会いしましょう」と約束をして電話を切りました。翌日、渡せるだけの食料を集め、約束の時間にその女性を待っていましたが、時間が来ても現れませんでした。何があったのでしょうか。その日以来、その方のことが気がかりで、心が落ち着きませんでした。「何か事情があって教会を訪れることができなかったのでしょうか。」…さまざまな考えが頭をよぎります。

聖書はいつも隣人に対する責任について語りかけています。「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。(コヘレト11:1)」「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。(マタイ14:16)」私たちは裕福ではありませんが、「持っているものを快く分け与えなさい」という神の声に応えたいと願っています。

冬が近づき、日に日に寒さが増す中、路上生活をしている方々、自然災害に苦しんでいる方々、戦争の中で泣き叫ぶ子どもたちや、傷を負った人々のことが思い浮かびます。

最近数名の方が教会を訪ねてこられたことや、これから厳しい冬が訪れることを考えながら、しばらくの間、忘れていた「旅人たちへの贈り物」を再び集めたいと思います。無理に準備する必要はありませんが、少しでも分かち合える食品があれば、ぜひ教会にお持ちください。私たちが集めた小さな贈り物が、周囲の苦しい人々に温かな神の愛の福音を伝える道具となることを信じています。「主よ、助けたまえ、憐みたまえ!」 

シャローム!



2024.11.17 本日の宣教

 『上からの知恵に生きよう』

                                                      ヤコブの手紙 3章 13~18節

本日の御言葉でヤコブは、「知恵があるものは誰か」という問いかけから話を進めます。それから知恵には「地上の知恵」と「上からの知恵」があって、その違いについて語っています。

ここでの「知恵」は、実生活において正しいことと正しくないことを見分ける識別力と関係があり、「分別」はある物事に対する理解力と関係しています。すなわち、知恵と分別力を持つ者は、その知恵にふさわしい柔和な行いと立派な生き方によってそれを示さなければなりません。それは単なる言葉や知識にとどまらず、「立派な行い」によって証されるべきものであり、その行いは「知恵にふさわしい柔和な行い」となる必要があります。したがって、知恵のある人は高慢ではなく、柔和な態度でその知恵を表すべきです。

ヤコブはまず「地に属する知恵」、つまりこの世の知恵について述べています。それは肉に属し、悪霊に属する知恵であり、神の霊を欠いたものです。そのため罪と欲に満ち、常に妬みや利己心に動かされ、混乱やあらゆる悪い行いが起こり、憎しみや恨み、争い、呪いが生じます。特に終末の時代には、この地に属する知恵が著しく現れ、戦争や分裂、争いが最高潮に達することでしょう。

次にヤコブは「上からの知恵」の特質を紹介します。この知恵はまず「純真」であると述べられており、ここでいう純真とは、神に対する純粋な信仰を指します。更に、「温和で、優しく、従順なもの、憐れみと良い実に満ち、 偏見はなく、偽善的でもない」と教えるのです。これは神から与えられる知恵に基づく行動や心の態度であり、人間の力や努力で得られるものではなく、むしろ神に頼り、聖霊に満たされることで心が変えられ、自然に表れてくるものです。特に知恵が「偏見がなく、偽善がない」ものであることは、神の国の民としてキリストの愛をこの世に示す上で重要です。これは神と人の前で常に透明であり、ありのままの姿で接することを意味しています。

最後にヤコブは、主イエスの山上の説教を思わせる言葉で話を結んでいます(マタイ5:9)。ここで「平和を実現する人」とは、紛争がある所に調和と平和をもたらし、すべての人々と共に平和を保つことに力を尽くし、平和を実現する人のことを指します。

ヤコブが教える「上からの知恵」は、約束された神の国を見上げながら日々を生きる者として、他者にどのように接し、神の御心に従って生きるかを示しています。

願わくは私たちが上からの知恵を日々の生活に生かし、周囲の人々に神の愛と平和、真の希望をもたらすことができますように。そのため、地上的な知恵に流されることなく、常に神の御心に従い、上からの知恵に生きることを心がけたいものです。ハレルヤ!

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(コリントの手紙二4:18)」


2024.11.17 小さな泉の恵み

 近頃わたしが推してるアーティストは、「昨日よりも今日、少しでもいい人間であろうとか、少しでも優しい人であろうとか、努力、一応しながら僕は生きてます。」って言う。

「いい人間」と聞いて、なぜか、【イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」(マルコ10:18)】という御言葉が頭に浮かんだ。イエスさまが「善い」者でないなら、いい人間って、何だ?···。

善い者である神。そして、イエスさまは道であり、真理であり、命であり、イエスさまを通ってわたしたちは父なる神のもとに行く。イエスさまを信じ、示された「互いに愛し合う」という新しい掟に従い、聖霊を受け、共に歩む。イエスさまが愛してくださったように「互いに愛し合う」、それが、いい人間である、ってことなのかなと思う。

                         S.M.姉

2024.11.10 牧師室便り

  ~アメリカ大統領のために祈る~

ドナルド・トランプ氏がアメリカの大統領に返り咲きました。その結果、全世界に多くの議論が引き起こされています。特に、前回「アメリカファースト」を掲げつつ、差別や分裂を引き起こしてきたトランプ氏が、再び大統領の職務に就くため、不安と期待が交差している状況です。

何より、今回の大統領選挙でトランプ氏が語っていた「24時間以内にロシアとウクライナの戦争を終わらせる」という約束の実現を求めたいと思います。また、イスラエルとパレスチナの戦争についても、早く平和への道が開かれることを願っています。もちろん、世界は戦争だけでなく、経済問題や気候変動、食糧問題、エネルギー問題、移民問題など、多くの課題を抱えていますが、何よりも人の命が奪われる戦争を一日でも早く終わらせることが重要です。

さらに、トランプ氏にはクリスチャン大統領として、かつてリンカーン大統領がホワイトハウスを祈りの場としたように、神の御前に進み出、聖書の教えを基に神の御心を求めてほしいと願っています。どんなことに対しても「イエス様だったらどうされるだろうか」と問いかけつつ、御言葉に耳を傾ける大統領であってほしいものです。やがて任期の終わりには、世界平和と神の国のために素晴らしい働きを成し遂げたと評価されることを望んでいます。

神の家族の皆さん、日本に住む私たちとアメリカの大統領との関係は遠いように感じられるかもしれませんが、アメリカは世界一の強大国であり、日本の政治や経済、社会に多大な影響を与えています。私たちはそのことを忘れずに、執り成し続けなければなりません。主よ、助けたまえ。シャローム!



2024.11.10 本日の宣教

『讃美か、呪いか』

                                          ヤコブの手紙 3章 1~12節

本日の聖書箇所では、私たちの「舌」、つまり私たちの口から発する言葉がいかに大きな力を持っているかについて警告が語られています。ヤコブは、私たちが舌をどのように用いるかによって、神と隣人に対する姿勢がはっきりと現れると教えています。

日々使う「言葉」は実に重要です。適切な言葉を使えば、誰かを励まし、生かすことができますが、一方で間違った言葉を使えば、誰かを傷つけ、時には大きな害をもたらすことさえあります。まさに「人は言葉一つで生きたり、死んだりする」のです。キリスト者として、私たちは命を生かす言葉を語る者であるべきであり、むやみに人を傷つける言葉を避けなければなりません。

ヤコブ3章5節には、「舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。…どんなに小さな火でも大きな森を燃やしてしまう。舌は火です」と、舌についての警告が書かれています。その通り、私たちの舌は体の中では小さい部分ですが、その影響力は計り知れません。火が小さな火花から始まって大きな森を焼き尽くすように、私たちの舌も一瞬で人の心や関係を破壊する力を持っています。たった一言の批判や侮辱が人を深く傷つけることもあれば、逆に励ましや感謝の言葉が人を支え、立ち上がらせることもあるのです。

続いてヤコブは、「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです(9節)」と述 べています。賛美の言葉とは神の愛と恵みに満たされた感謝の言葉や喜びの言葉であり、呪いの言葉とは不平や不満、批判、非難など、神の愛と恵みを知らない罪から出てくる言葉を指します。「泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか」というヤコブの問いかけは、キリスト者が同じ口で神を賛美し、同時に人を呪うことの矛盾を鋭く戒めています。

神の愛と恵みを体験しているキリスト者が口から出す言葉は愛に満ちたものであるべきです。しかし、もし心が神の愛から離れ、憎しみや妬み、怒りに支配されているなら、口から出る言葉もまたそのようなものになってしまいます。まさに、私たちの言葉は信仰と心の状態を映し出す鏡なのです。

詩篇141篇3節に「主よ、私の口に見張りを置き、唇の扉を守ってください」という祈りがあります。このように、私たちも日々神に助けを求め、自分の言葉が神と隣人にふさわしいものであるように心がけましょう。私たちの口から出る言葉が神の栄光を表す賛美となり、隣人を祝福し、支え、命をもたらすものであるように努めましょう。ハレルヤ!



2024.11.10 小さな泉の恵み

 ~楽しい聖書の学びを振り返って~

私は火曜日の聖書の学びに2014年4月より参加して11年目になります。参加した当時は創世記からではなく、預言書のダニエル書から始まり、マラキ書まで1年間学び、その後、新・旧約、中間時代を少し学んだ後、2015年5月より3年半に亘り、ローマの信徒への手紙から始まる13通のパウロの書簡について学び、引き続き2018年11月より2024年6月まで5年半の長きに亘りヘブライ人への手紙から始まる7通の公同書簡について学びました。現在は最も難解な書と言われる聖書最後の書であるヨハネの黙示録を学び始めたところです。なにしろヨハネの黙示録は黙示文学の代表的な作品であり、聖書の中で唯一全編が黙示的な形式で書かれてありますので、本文を学ぶ前に先ず予備知識として黙示文学の特徴や黙示録の書かれた執筆時代とその背景、執筆事情などについて学びました。これからは本文について、ゆっくり教えて頂きながら聖書理解を深めて行きたいと思っております。

いつもながら閔先生の詳細な説明文はわかりやすく、昔から今も私の宝物となっています。その宝物を主日礼拝前の教会学校の学びにも活用させて頂いており、感謝です。最後になりますが、この火曜日の聖書の学びに一人でも多くの方が参加されますようにお願いします。

                             I.H.兄