『言、命、光なる主 』
ヨハネによる福音書 1章1~5節
本日からアドベント(待降節)が始まります。救い主の誕生を待ち望みつつ、互いに心に灯りを灯しましょう。
ヨハネによる福音書は、マタイやルカのように主イエスの誕生物語を羊飼いや天使の訪れなどを用いて描きません。代わりに、ヨハネは天地創造の始まりにまで遡り、壮大な視点からイエスを「言」「命」「光」として紹介します。
1. 「言」として来られたイエス
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(1~3節)」
ヨハネによる福音書の冒頭のこの言葉は、聖書の始まりである創世記の冒頭の言葉「初めに、神は天地を創造された」と同じく、「初めに」という言葉で始まっています。これらの個所を見ますと、ヨハネによる福音書の記者は、「創世記」の天地創造に先立って、その天地創造が、「神の言」によって始まったことを告げようとしていることが分かります。さらに、ヨハネは「初めにあった言」こそ、「神の独り子」イエス・キリスト御自身であることを明らかにしています。すなわち、ヨハネは福音書の最初で「言」(ロゴス)という表現を通して、イエス・キリストが神と共に天地創造を成し遂げられた「言」として存在され、そのイエス・キリストこそ、神の御子であったことを記しているのです。そして、今も神は、生ける「言」によって、新しい創造の業を成しておられることを私たちは知っています。 2. 「命」として来られたイエス
ヨハネは続けて、「言のうちに命があった」と語ります(4節)。「命」という言葉は、ヨハネによる福音書には「36回」も登場しており、それほどヨハネは「命」を大切に伝えたかったことが分かります。すなわち、この「命」は、ただ肉体を生かすものではなく、霊的な命、すなわち永遠の命を意味します。罪によって死んでいた私たちに、イエスは命をもたらしてくださいました。この命は、イエスを信じる者すべてに与えられる約束の命です。クリスマスは、その命の贈り物を感謝して受け取る日なのです。
3. 「光」として来られたイエス
「その命は人の光であった。光は暗闇の中に輝いている。」(4-5節)
主イエスは、暗闇の中に輝く光として来られました。暗闇は、罪と死、絶望を象徴します。しかし、主イエスが来られたことで、その暗闇は打ち破られ、希望の光が差し込みました。
クリスマスの星が輝き、羊飼いたちや占星術学者たちがその光に導かれたように、主イエスという光は今もすべての人を神の御もとへ導いています。この光は、私たちの罪を照らし出し、悔い改めに導く光であると同時に、絶望の中にいる人々を慰め、希望を与える光でもあります。願わくは、今年のクリスマスを通して「言、命、光」なる主イエスとの深い交わりが与えられますように…。ハレルヤ!
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