2023年8月27日日曜日

2023.8.27 牧師室便り

 ~ この世の資格と神の国の資格を考える ~

先週の火曜日、外国籍の人が日本での生活をするための最も大切な2つの資格を更新することができました。まず、外国人として日本で滞在するためになくてはならない「在留カード」、もう一つは、「運転免許証」の有効期限が迫ってきたためでした。

 今年で日本に来て28年目を迎え、55歳の自分の人生の半分以上を日本で暮らしています。今までもらっていた「宗教」という在留資格から「技術・人文知識・国際業務」という資格に変更され、新たに3年間のビザを取得することができました。もちろん3年後には再び新たにビザ申請をしなければなりませんが、毎回ビザ更新の許可を得る度に素直に嬉しくなります。

 そして運転免許証のことですが、前回はゴールド免許を取得したことで、有効期限までの5年間は保険代の割引などの特典を受けてきました。しかし、ゴールド免許取得後の一か月のうちに、たった一回のスピード違反があり、それが原因でゴールド免許からブルー免許に降格となりました。その結果、以前受けていた特典は失われてしまいました。個人的には、かなり厳しい規則であると感じますが、それでも人の安全を守るためにはなくてはならない規則であると考えています。

 神の家族の皆さん、もし神の国に行くためにこれほど厳しい基準が設けられ、一度の過ちですべての資格が無効になるような罰があるとしたら、私たちの信仰生活は毎日恐れおののくものとなり、生活の平安も失われてしまうでしょう。

「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。(エフェソ1:13)」

だからこそ、一度押された救いの証印は決して消されないという聖霊による約束はいかに素晴らしいことでしょうか。シャローム!




2023.8.27 本日の宣教

 『共に働き、共に喜ぶ』   

                                                                        (コへレトの言葉4章9~10節)

私は7月30日(日)に礼拝を欠席しました。大変愚かなことですが、地元の自治会長からの要請でバーベキュー会を開いていました。「コロナが感染症5類になった今年こそ念願の班のバーベキュー会をやろう。坂上、班長で委員のお前が企画をしてくれ。開催日は、行事の合間の7月30日(日)にして欲しい。」当初は断っていたのですが、自治会長のあまりの熱意と今回を逃すと来年以降はもっと難しくなると思い請けざるを得ませんでした。やるなら中途半端なことは出来ません。直ちにチラシを作成し準備を始めました。材料発注や買い出しをし、会場設営資材はわかば農園で借りました。しかし問題は連日猛暑日が続く中いかに日陰を設けるかということでした。礼拝を休むことの後ろめたい気持ちを抱えながらも主に願うと知恵が与えられました。わかば農園で使っている厚手の遮光シートを電柱や柱にロープで吊るすのです。それならテントを張るより遥かに容易に一人ででも設営可能です。出来るだけ多くの住民、特に夏休み中の子供たちに参加してもらい思い出にして欲しいと考えました。当日、11時開始を目指して8時に会場設営を始めました。一人で一時間ほど予定していました。ほどなく同じ班のK君と3人の友人たちがやって来て「坂上さん、声をかけてよ!いくらでも手伝うのに。」「ごめん。みんなに迷惑をかけたくなくて!」彼らは20年以上前に自治会全体を巻き込んだイベントを一緒に作ったメンバーです。彼らの申し出に大きく感動すると同時に一方的なもてなしを受けるよりは同じ目標を目指し何かを成し遂げることの喜びのほうが遥かに大きいことを彼らから教えられました。それは主が私たちに宣教、伝道させてくださることに通じるものがあります。

~イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28:18~20)~

「人は独りでいるのは良くない。」(創世記2:18)「わたしを強めて下さる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピの信徒への手紙4:13)善き羊飼い主イエスがおられるので、孤独とは無縁です。すべての働きに主の助けの手が添えられていることに感謝いたします。主の栄光がとこしえにありますように。

                              坂上幸男執事


2023.8.20 牧師室便り

 ~ 神の国が成就されるところ ~

本日、皆さんに紹介する映画は、「インビクタス~負けざる者たち」というタイトルの実話を基にした映画です。

この映画は、アパルトヘイト(人種隔離と差別政策)が撤廃され、マンデラが大統領に就任して間もない時期(1994~1995年)の出来事を描いています。  

まだまだ白人による黒人への人種差別と経済格差の傷が深かった南アフリカ共和国で、初のラグビーワールドカップが開催されることになります。

マンデラ大統領は、白人が好きであって白人を象徴するようなラグビーを通して、人種や民族が一つになることを望みました。そのため、ラグビー代表のキャプテンのピエナールと協力し、優勝を目指して奮闘する姿が描かれている感動作です。

この映画の中で最も感動を与えるのは、マンデラ大統領と白人のキャプテンの間に出来上がっていたビジョンとそれに向けての二人の信頼、そしてあきらめない勇気と献身であると言えましょう。

人類の歴史が始まって以来、人種差別やナショナリズムによる戦争と暴力、強者による弱者へのいじめは絶えず繰り広げられていたことを知っています。また、日本の国も強者の側に立ち、同じ過ちを犯した負い目をもっています。

本日は平和礼拝。神の国を求め、神の国を実現していくキリスト者として、イエス・キリストの十字架による平和と和解を祈りつつ、私たちにできる小さなことを実践に移していきたいと願います。シャローム!

「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。(エフェソ2:17)」




2023.8.20 本日の宣教

 『 シャローム!シャローム!』   

                                                                        (ヨハネによる福音書14章27節)

平和という言葉は、ヘブライ語ではシャローム、ギリシャ語ではエイレーネと言います。「シャローム」のもともとの意味は、「満ち溢れいっぱいになった状態」または、「欠けのない完全な状態」を指します。「シャローム」という言葉はイスラエルでの一般的なあいさつでありますが、それ以上の深い意味ももっています。それは、壊れた人間関係が赦しと和解を通して修復された時の状態を指し、また、敵対していた国同士がただ戦いをやめることにとどまらず、お互いの国の利益のために協力することを意味します。さらに、隣の家に損害をもたらした場合、その損害を弁償し関係を回復することを指します。…したがって、この「シャローム」こそが、世界の国々や人々が築いていくべきことでしたが、互いが持つ欲望や利己心などによって実現されなかったのです。しかし、聖書は平和の君、平和の王イエス・キリストが、崩れてしまっていた神と人、人と人との関係を修復し、すべての過ちを正してくださり、永遠の「シャローム」が成就されることを教えています。

本日の御言葉で主イエスは「わたしは、平和をあなたがたに残し、 わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネ14:27)」と言われます。

主イエスがいよいよ公生涯を終え、弟子たちを離れるという告別説教をなさる場面です。弟子たちは慕い続けてきた主イエスがこの世を離れ天に帰られるという話を聞いたため、心を騒がせ、不安に覆われていました。そのような弟子たちに向けて主イエスは「世が与える平安」と、「イエスご自身が与える平安」は異なることを語られます。

当時の世の平和こそ、パックス・ロマーナ(ローマ帝国による平和)、すなわち、世が与えるのは政治的な平和、武力による平和、お金や権力による平和を指しています。そこには真の平和はありません。むしろ権力を失うことへの恐れ、お金を失くす恐れ、戦争に負けてしまう恐れと心配のために真の平安を見出すことはできません。しかし、主イエスが与える平和はこの世の平和とは異なり、ご自身の命をかけた十字架の贖いによって失われていた神との関係が回復され、その関係の回復からもたらされる平和、また十字架の赦しによる人と人との間の関係回復による平和、さらに聖霊が主イエスを受け入れた人の内側に住まわれることによって与えられる揺ぎのない平和を生きることができる、これこそ主イエスが与えてくださる究極の平和なのです。この平和は私たちの目に見える状況が変わっても決して影響を受けることはありません。

そうです。真の平和こそ、私たちの生活、人間関係、国と国との関係、自然界において損なわれたすべての関係を修復し完全なものにすることです。そして、聖書はその平和が実現したところを神の国だと教えます。今私たちが生きている世界はどうでしょうか。差別、暴力、争い、貧困などの不条理が満ちている世界ではないでしょうか。ぜひ、聖書が教える神の国を追い求めつつ、シャロームを実現していきましょう。ハレルヤ!


2023.8.13 牧師室便り

  ~ 地球沸騰化の時代を迎えて ~

 真夏日が続く中、私たちの耳に聞こえたのが「熱中症警戒アラート」という言葉です。連日35℃を超え、少し動くだけでもう汗でシャワーを浴びるような日々ですね。先週、夏の休暇で東京と長野に行って驚いたことは、今年の富山の暑さに“比べるものなし!”とも言えるような厳しい暑さでした。

 先日、国連の事務総長は、今の世界に向けて「もう地球温暖化は終わり、地球沸騰化の時代が来た(Era of global boiling has arrived)」と言いましたね。その通り、世界が沸騰していることがテレビに映っています。砂漠で育つサボテンが枯れてしまったり、南極と北極の氷河や雪が溶けてしまい、日に日に小さくなってしまったり、世界各地で山火事や、熱中症による死亡者が急激に増えている現状。…いつまでこの厳しい暑さが続くでしょうか。

願わくは、神の子どもたちに一時も目を逸らすことのない神が、神の家族お一人おひとりを守り、恵みを賜りますように・・・。

 世界の平和のために執り成すべき8月を過ごしている私たちです。昔であれば、“戦争を無くしていくことこそ平和だ!”ということで、銃など人を殺す武器による戦争というイメージが一般的でしたが、今は武器によって人を殺す戦争だけでなく、経済戦争、食糧戦争、水戦争、技術戦争、さらに気候変動が世界的紛争を起こすということが言われています。

 このような時代だからこそ、主イエスが言われた「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5:9)の御言葉の意味と御心についてより広く、より深く黙想し実践へと進むことが求められていることでしょう。

 世界各地に住む神の子どもたちの平和を実現する働きが豊かな実を結ぶように祈りつつ、まず私たちから平和実現の一歩を踏み出しましょう。シャローム!

 




2023.8.13 本日の宣教

『 光の子として歩む 』   

                                                                 (エフェソの信徒への手紙5章8~10節)

使徒パウロがエフェソの信徒への手紙を書いていた当時は、強いことが美徳であって、勝利する者が正義とされていた時代でした。だから、人々は、手段を選ばずに勝つことを優先していき、その勝者にはあらゆる快楽が与えられていました。そのため、勝利をもたらしてくれる神々を求め、あらゆる偶像崇拝が行われていました。当時の偶像礼拝には必ず不品行な儀式が伴っていましたし、道徳的堕落が蔓延していました。まさしく「闇」が支配する世界であったのです。

そこでパウロは、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(5:8)と勧めます。この部分には、キリスト者の過去と現在とが比較されています。暗闇こそ、悪しきサタンを指し、光はイエス・キリストを指しています。すなわち、以前には暗闇の支配下にいたが、今は、主イエスの血潮の贖いにより主に結ばれ、神の子とされたキリスト者のアイデンティティーを確かなものとしたので、神の子らしく歩むようにと勧めます。主イエスが「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。(ヨハネ8:12)」と言われた通りです。

続けてパウロは、「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。―― 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」(5:9~10)と光の子にふさわしい実を結ぶべきであると命じます。その実とは、「善意、正義、真実」です。しかしこの三つの実こそ、父なる神が持っておられる性質ではないでしょうか。私たち光の子たちが主イエスにつながっているのであれば、聖霊はこれらの実を結ばせてくださるでしょう。「主に喜ばれる」とは、「主に受け入れられる価値のある」とも訳することができます。これはすべてのキリスト者の人生の基準になるものです。ここで「吟味しなさい」は「見分けなさい」という意味で、キリスト者は常に「どうすれば主に喜ばれることができるのか」という聖なる悩みを抱きつつ歩むことが求められています。この姿勢は使徒パウロが常に心がけていた生き方でもありました。ローマ12:2の言葉、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」も同じ場所に立って勧めていることが分かります。

今日も主イエスは光の子たちを通して暗闇の世界を照らそうとするビジョンを抱いておられます。神の家族お一人おひとりが光の子としてのプライドを吟味しつつ主に喜ばれる実を大切に結びますように…。ハレルヤ!


2023.8.6 牧師室便り

 ~  帰るべき母教会をもつ幸い ~

本日は夏の休暇をいただいて東京に来ています。2001年から牧師として6年間仕えていた蓮根バプテスト教会の礼拝に久しぶりに出席します。日本における母教会として、長い間わが家のために執り成してくださった高木康俊先生と蓮根教会の皆さん、また誠志会病院の皆さんに心から感謝します。先日、蓮根教会の設立者であり、誠志会病院の院長として長年に渡りご奉仕された岡田信良先生が召天されるということもあったため、主にある感謝と祝福のメッセージを伝えて来たいと願っております。

 先日知りましたが、韓国にも日本と全く同じ「便りの無いのは良い便り」というコトワザがあります。振り返ると富山に来て17年も経っているのに、あまり便りを寄せてないことに気づきます。同様に、蓮根教会の皆さんも便りのないことを良い便りと受け止めてくださったのだろうと思います。

 連日、熱中症警戒アラートが続く中ですが、牧師家族の旅の安全と祝福のためにお祈りくださいね。

 また、富山小泉町キリスト教会においては、山形の地から宮田祐亮師ご一家が同じく夏の休暇で教会に滞在することになります。宮田師ご一家にとって小泉町教会は母教会であり、いつ帰ってきても温かく迎え入れてくれる神の家族がいることは大きな恵みでしょう。

2014年に福岡の西南学院神学部に送り出した時から、福岡の野方教会、そして現在の山形教会と働きの場所が変わっても、母教会は変わることはありませんし、宮田師ご一家への愛の執り成しにも変わりはないでしょう。願わくは、小泉町教会での短い滞在であるとは思いますが、ご一家にとって大きな慰めと恵み、力をもらうひと時でありますように…。
 帰るべき母教会と神の家族をもっている人は、いかに幸いでしょうか。宮田先生とご一家を心から愛し、歓迎します。シャローム!



2023.8.6 本日の宣教

 『 不安と恐れと葛藤 』   

                                                                  (ヘブライ人への手紙11章23~29節)

 皆さんは、クリスチャンとして生きる自分自身と向き合うとき、どのような「感情」をお持ちでしょうか。クリスチャンだからと言ってすべての事柄が順調で人生バラ色かと言えば、そうではありませんよね。そこには神様を信じているのに、何かが気がかりで落ち着かない「不安」があり、何か自分に予期せぬ悪いことが起こるのではないかという「恐れ」があり、また心の中に、神様が喜ばれることとは相反する動機や欲求からくる「葛藤」もあるのではないでしょうか。本当に信仰生活を守ることは厳しいことです。しかしこれらのことは、私たちだけに限ったことではなく、聖書に登用する人物たちもまた同じです。今日は、モーセという1人の人物からそのことを考えてみたいと思います。

モーセは、旧約聖書中最も信仰の厚い人物として考えられています。神さまからの特別な使命を受けて、イスラエルの民を約束の地に導いていった偉大な指導者であり、リーダーです。しかし、出エジプト記の冒頭を見ると、モーセが神さまからの使命をひたすら拒もうとする場面が描かれています。あの手この手を尽くし、様々な理由を並び立てて、「私はできません。」と、神様の召しを拒もうとする、臆病なモーセの姿がここにあります。海を割り、民たちをエジプトから逃がし、神と顔と顔を合わせて語り合い、十戒をはじめとする律法の書を与えられた、あの偉大な指導者の姿はどこにも見られません。これらすべての素晴らしいわざが、こんなにも臆病な人物によってなされたことを覚えておきたいと思います。彼を不安にさせているものは、臆病にさせているものは、彼だけが持っている特別なものではないということに気付かされます。それは私たち多くのクリスチャンのうちにも自然とあるものでもあるのです。

今、皆さんの不安、恐れ、葛藤は何でしょうか。聖書の人物の中で最も偉大な指導者と呼ばれる、あのモーセでさえも不安を抱えて歩みました。それでも、信仰によって時にかなった助けが与えられました。ですから、私たちも何を恐れようと、どんな状態であろうと、どんな境遇にいようと、目に見えない方を見るようにして、信仰の歩みを続けていきたいと思います。

                                                                        宮田祐亮(山形キリスト教会牧師)


2023年8月2日水曜日

2023.7.30 牧師室便り

  ~ みんなでやれば楽しい! ~

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。(詩編133:1)」

 先週の礼拝後、瀬戸姉の指導のもと、兄弟会の6人のメンバーが一丸となって靴棚の修理作業に取り掛かりました。今から27年前、教会を改築した際に、教会の玄関に合わせて作られたものでしたので、時の流れと共に色褪せ、ボロボロになっていたため、“いつか修理しなきゃ!”と思っていたところ、ようやく実行に移すことができました。

 気温が36℃にまで上がる暑さの中、ちょうど牧師館の方に日陰ができていたので、そこに運び、まずは汚くなっていた部分を綺麗に掃除し、ペンキ塗りの作業の下準備を行い、その後早速ペンキ作業に入りました。恐らく一人で行ったとすれば、丸一日はかかったでしょう。しかし、兄弟会の皆さんはおやじギャグで雰囲気を盛り上げながらそれぞれ役割分担をして作業を進めました。

でも、半端ではない暑さだったので、少し体を動かしただけでもすぐに汗が流れましたが、それでも皆さんは楽しく作業に加わってくださいました。最初は、半日くらいはかかると思っていた作業でしたが、みんなの協力によってなんと2時間程度で終了することができました。時々ペンキが顔や服に飛んできて汚れてしまいましたが、みんなの笑顔は変わりませんでしたね。やっぱり、“何でもみんなでやれば楽しい!”  👞👠 ♥

コロナ後、例年行っていたことを一つ一つ復活させながら、新しいことを起こそうとしている近頃ですが、やはり神の家族みんなが力を合わせてやることに意味があることを再三教えられています。そのために主イエスは教会を立てられ、コイノニアを命じられたのでしょう。

神の家族の皆さん、礼拝も諸集会も諸行事もすべて、みんなが加わることで楽しさが増していくことを心がけながら、主に喜ばれる教会共同体を作り上げていきましょう。シャローム!     




2023.7.30 本日の宣教(交換講壇)

 『 喜び、祈り、感謝 』      

                     テサロニケの信徒への手紙一 5:16~18

テサロニケの信徒への手紙はパウロがユダヤ人の迫害に会いながら信仰を守り続けるテサロニケの人たちに宛てた手紙です。5:1からはイエス様の再臨について書かれています、いつ再臨されるかわからない、それは思いがけない時にやってくるのです。その時は盗人が夜中に来るように、妊婦に産みの苦しみがやって来るようにと突然やって来る事を例えて語られています。テサロニケの信徒を励まし、イエス様の再来まで清く正しく生活しなさいと語っています。

みなさはいつも喜んでいますか?絶えず祈っていますか?どんなことにも感謝していますか?

「砂の上の足跡」と言う詩があります、イエス様はいつも私たちと共に歩み、辛い時には私たちを背負って歩んでくれているのです、いつも共にいてくださいます。

「いつも喜び。絶えず祈り。どんなことにも感謝する。」そんな信仰生活をどうすれば送れるかが大切のことです。

私たちは既に永遠の命を頂いています、そして今も日々生かされています。「いつも喜んでいなさい」日々の生活の中で喜びを見つけるようにという事だと思います。喜びは状況や感情に左右されないように、私たちが内なる喜びを持つことが大切だと思わされます。信仰を通じて神とのつながりを深め、神様の愛と祝福を感じること、今、こうして生かされている事、何より永遠の命をすでに頂いている事です。この事を忘れずにいれば私たちは喜びを見出すことができます。

また、日々の生活においても小さな喜びは沢山あるはずです。

次に、「絶えず祈りなさい」祈りは私たちが神様と繋がる大切な手段です。祈りは私たちの心を静め、導きを求めることで、辛い時にも力を与えてくれます。私たちが困難な状況に直面しているときこそ、祈りを通して神様の恵みを受けることができます。祈りは私たちが苦難に耐える力を与え、希望と勇気を与えてくれます。執り成しの祈りも大切です、困難の中にある方や病の方、働きを覚えて祈る事は大切です。自分は一人では無い、祈られていることで他者との繋がり00を大切に出来ます。

そして、「何事にも感謝しなさい」感謝の心を持つことは、私たちの信仰生活において大切な事です。感謝は神様の恵みと祝福に目を向けることが出来ます。困難な時期に感謝することは難しいです。今、困難の時にある方もいるかもしれませんが今日こうして礼拝に集っている事が感謝です、大きな事ばかりでなく小さな事にも多くの感謝があります。感謝の心を持つことで、私たちは隣人に目を向ける事ができます。

繰り返しになりますが小さな喜びを見つける事で祈り、感謝が与えられます。喜び、祈り、感謝をしてないと天国に入れないと言う事ではありません、私たちは既に永遠の命を頂いているので天国に入る事が出来ます、

この世を生きている今をより充実した日々を過ごすためにこの事が語られています。困難な状況においても喜びや祈り、感謝の心を持ち続けることは決して容易ではありませんが、信仰を通じて神とのつながりを深め、周囲のサポートを受けながら、感謝と喜びの心を持って前進しましょう。                                                               

                        河原 猛兄(金沢キリスト教会)


2023.7.30 小さな泉の恵み

 毎年同じようなこと言っているが、暑い、暑いと口癖のように言っている。

暑さはいつまで続くのかと繰り返しながら、私たちは言っているが、一年は毎年の繰り返しである。繰り返しの日々、誰でも知っていることである。これは神様が決めたことである赤道を中心にして南北に分け成就に地球の回転で考えたものである。

私事、昨年から右足が痛し、接骨院に通院。本来ならば整形外科に行かねばならないが近くに外科の医院がないため、接骨院の方で治療。治療合間に世間話をしながらの電気治療をしています。老人になり農作業の仕事が無理なのか、なかなか回復しません。どうも老人になると、物忘れするしこまったものだと嘆いています。でも人間は誰も必ず迎える道だと思っております。

私もあとしばらく教会の兄弟姉妹の方々のお世話になり余生を送りたいと祈っております。よろしくお願いします。

                         A.M.姉

2023.7.23 牧師室便り

  ~ 若者は幻を見ている? ~

本日は正基兄が証しをします。一年半ぶりの富山で、親としても楽しみです。…生まれた時から牧師の息子として成長し、青年になった今も牧師の子どもという状況は変わっていません。ある面、小・中・高の時にはずっとそのことが重荷だったかもしれませんね。そういうことを考えると、親元を離れて過ごせた一年半という期間は正基兄にとっては自由と解放の時とも言えるでしょう。

 親として感謝していることは、息子が神の御言葉を愛し、日々御言葉に真剣であるということです。教会生活を中心に、大学では日本のKGK(キリスト者学生会)に当たるIVF(韓国キリスト者学生会)というサークルで聖書を学びながらキリスト者としての霊的成長と将来へのビジョンを育んでいることは大きな恵みです。

 これから正基兄がどのような道を進むかについては彼と神様との交わりの中で決められることだと思いますし、その前に、まず韓国の軍隊に入隊しなければならないので、親としてできることは、良き相談役として、また執り成しの祈りをもって支えることでしょう。

近頃の日本の若者もそうですが、韓国の若者も、厳しい現実と将来への不安のせいなのか、生きることへの楽しさや活気、また、希望を追い求めるような姿をなかなか見ることができないように感じます。聖書の御言葉には、「若者は幻を見、神の国のために用いられる」と記されていますが、現代の若者たちは背負っている重荷のゆえに幻どころか、小さな夢さえも描くことができないような状況ではないでしょうか。

世界の歴史を振り返ると、若者たちは常に世界を変える力となっていましたし、新しいことを起こす存在として現れていたことを思い起こします。

願わくは、すべてを新たにされる聖霊が若者たちの上に幻を与え、神の国の働き人として立ててくださいますように。そのために、小泉町教会に連なる若者たちも各自の場において幻を見て、神の働き人として手を挙げることができるように願っています。シャローム!





2023.7.23 本日の宣教

  『 十字架を愛して 』  

                                                                   ガラテヤの信徒への手紙2:19~21

本日は証し礼拝です。小泉町教会は10年ほど前から毎月4週目の礼拝を証し礼拝として献げています。昔から、宣教は牧師の役割であって、牧師だけが講壇で神の御言葉を宣べ伝えるべきだというふうに思われてきました。もちろん、牧師になるための神学校を出て、聖書解釈をはじめとするあらゆる学びの過程を修了した者を招聘する教会としては、牧師だけに宣教を任せることは当然のことかもしれません。

最初の弟子たちは主イエスからの訓練を受けていたし、主イエスから使徒としての権威が与えられたので、彼らを別格として扱うことは当然かもしれません。しかし、初代教会から始まった教会史において、特に私たちバプテスト教会の場合はどうだったでしょうか。多くの場合、聖霊の臨在を体験した信徒たちによる宣教と証しによって成長してきた教会であったことも事実です。そのため、私は生き生きとしている教会であるならば、信徒一人ひとりが日々の御言葉の黙想を通して得た恵みを、また、聖霊に満たされて体験する様々な出来事などを自然に証しし合う共同体であるべきだと思っているのです。

聖書が語る「証し」とは、キリスト者一人ひとりが、それぞれ固有の主イエスとの出会いや救いの体験、日々の生活における神からの恵みや導き、聖霊の臨在と御言葉から得た悟りや喜び、感動などを、周りの人々に伝えて神様に栄光を帰することを指します。つまり、いかに小さな出来事であっても、その中から神の恵みを見出し、具体的な神の働きと導きを人々に紹介することが証しなのです。

ここで確かめるべきことは、「キリスト者の証しの内容」です。使徒パウロは本日の御言葉を通して、「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラテヤ2:20)」と告白しています。したがって、キリスト者の証しの最も大切な内容は、「わたしを愛し、わたしのために十字架で身を献げられた神の子に対する信仰によるもの」であることを常に確かめ、十字架を意識し、それに感動し、その十字架を愛し、誇りながら生きることです。また、さらに、十字架の主イエスが復活の主として今も共に歩まれ、どんな時でもどんな問題でも恵みと勝利に変えてくださることを信じることです。

願わくは、神の家族お一人おひとりが主イエスの十字架を愛して、その十字架に感動し、どんな試練や苦しみの中でも共に歩まれる主イエスとの交わりを持ち、その十字架の愛を証しする中で「物語が生まれる教会」となれるなら、それはいかに幸いなことでしょうか。さらに、証しが活発に分かち合われる中で信徒宣教者が育てられる小泉町教会となりますように…。ハレルヤ!


2023.7.23 小さな泉の恵み

 ~ファミリーキャンプの思い出~

 愛する小泉町教会のみなさん!4年ぶりのファミリーキャンプいかがでしたか?本稿を書いている時点では、富山のお天気予報はまずまずのようで、恵みに満ちた時になるように期待してお祈りしています。

 わたしも2015年〜2019年参加しました。最後の年はまだ大井教会に転会したばかりだったので、大井の朝の礼拝に出てから富山に直行、瀬戸さんと登喜雄さんが富山駅まで車で迎えに来てくださいました。夜、眠れた記憶は一度もありません。自動販売機のあるラウンジみたいなところでノートPCを開き、徹夜で仕事したのではなく、寝れないヒマつぶしに仕事してました。はかどりました。いつも驚嘆したのは、早朝のある時間になるとセミが一斉に鳴き出すことでした。明るくなったので開いていたガラス戸から外に出て散歩して、戻ってきたらその戸が閉まっていて、朝早すぎて締め出されたかと思ってしばらく座っていたら、別の方向から戻ってきた水上さんがフツーに戸を開けて中に入ったので助かったという思い出もあります。

 それでも二日目眠くて元気がなくなるということはなく、いつぞやの閔先生の聖書講座、ホワイトボードに何も見ないで年表をガガガと書きながら創世記から黙示録まで一貫した神の国と神のヘッセードを語ってくださった約二時間は心ワクワク眼は爛々の思い出です。またゼヒいつか、参加させていただきたく願っています。

                            S.M.姉