『 光の子として歩む 』
(エフェソの信徒への手紙5章8~10節)
使徒パウロがエフェソの信徒への手紙を書いていた当時は、強いことが美徳であって、勝利する者が正義とされていた時代でした。だから、人々は、手段を選ばずに勝つことを優先していき、その勝者にはあらゆる快楽が与えられていました。そのため、勝利をもたらしてくれる神々を求め、あらゆる偶像崇拝が行われていました。当時の偶像礼拝には必ず不品行な儀式が伴っていましたし、道徳的堕落が蔓延していました。まさしく「闇」が支配する世界であったのです。
そこでパウロは、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(5:8)と勧めます。この部分には、キリスト者の過去と現在とが比較されています。暗闇こそ、悪しきサタンを指し、光はイエス・キリストを指しています。すなわち、以前には暗闇の支配下にいたが、今は、主イエスの血潮の贖いにより主に結ばれ、神の子とされたキリスト者のアイデンティティーを確かなものとしたので、神の子らしく歩むようにと勧めます。主イエスが「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。(ヨハネ8:12)」と言われた通りです。
続けてパウロは、「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。―― 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」(5:9~10)と光の子にふさわしい実を結ぶべきであると命じます。その実とは、「善意、正義、真実」です。しかしこの三つの実こそ、父なる神が持っておられる性質ではないでしょうか。私たち光の子たちが主イエスにつながっているのであれば、聖霊はこれらの実を結ばせてくださるでしょう。「主に喜ばれる」とは、「主に受け入れられる価値のある」とも訳することができます。これはすべてのキリスト者の人生の基準になるものです。ここで「吟味しなさい」は「見分けなさい」という意味で、キリスト者は常に「どうすれば主に喜ばれることができるのか」という聖なる悩みを抱きつつ歩むことが求められています。この姿勢は使徒パウロが常に心がけていた生き方でもありました。ローマ12:2の言葉、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」も同じ場所に立って勧めていることが分かります。
今日も主イエスは光の子たちを通して暗闇の世界を照らそうとするビジョンを抱いておられます。神の家族お一人おひとりが光の子としてのプライドを吟味しつつ主に喜ばれる実を大切に結びますように…。ハレルヤ!
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