『 不安と恐れと葛藤 』
(ヘブライ人への手紙11章23~29節)
皆さんは、クリスチャンとして生きる自分自身と向き合うとき、どのような「感情」をお持ちでしょうか。クリスチャンだからと言ってすべての事柄が順調で人生バラ色かと言えば、そうではありませんよね。そこには神様を信じているのに、何かが気がかりで落ち着かない「不安」があり、何か自分に予期せぬ悪いことが起こるのではないかという「恐れ」があり、また心の中に、神様が喜ばれることとは相反する動機や欲求からくる「葛藤」もあるのではないでしょうか。本当に信仰生活を守ることは厳しいことです。しかしこれらのことは、私たちだけに限ったことではなく、聖書に登用する人物たちもまた同じです。今日は、モーセという1人の人物からそのことを考えてみたいと思います。
モーセは、旧約聖書中最も信仰の厚い人物として考えられています。神さまからの特別な使命を受けて、イスラエルの民を約束の地に導いていった偉大な指導者であり、リーダーです。しかし、出エジプト記の冒頭を見ると、モーセが神さまからの使命をひたすら拒もうとする場面が描かれています。あの手この手を尽くし、様々な理由を並び立てて、「私はできません。」と、神様の召しを拒もうとする、臆病なモーセの姿がここにあります。海を割り、民たちをエジプトから逃がし、神と顔と顔を合わせて語り合い、十戒をはじめとする律法の書を与えられた、あの偉大な指導者の姿はどこにも見られません。これらすべての素晴らしいわざが、こんなにも臆病な人物によってなされたことを覚えておきたいと思います。彼を不安にさせているものは、臆病にさせているものは、彼だけが持っている特別なものではないということに気付かされます。それは私たち多くのクリスチャンのうちにも自然とあるものでもあるのです。
今、皆さんの不安、恐れ、葛藤は何でしょうか。聖書の人物の中で最も偉大な指導者と呼ばれる、あのモーセでさえも不安を抱えて歩みました。それでも、信仰によって時にかなった助けが与えられました。ですから、私たちも何を恐れようと、どんな状態であろうと、どんな境遇にいようと、目に見えない方を見るようにして、信仰の歩みを続けていきたいと思います。
宮田祐亮(山形キリスト教会牧師)
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