2023年8月2日水曜日

2023.7.23 本日の宣教

  『 十字架を愛して 』  

                                                                   ガラテヤの信徒への手紙2:19~21

本日は証し礼拝です。小泉町教会は10年ほど前から毎月4週目の礼拝を証し礼拝として献げています。昔から、宣教は牧師の役割であって、牧師だけが講壇で神の御言葉を宣べ伝えるべきだというふうに思われてきました。もちろん、牧師になるための神学校を出て、聖書解釈をはじめとするあらゆる学びの過程を修了した者を招聘する教会としては、牧師だけに宣教を任せることは当然のことかもしれません。

最初の弟子たちは主イエスからの訓練を受けていたし、主イエスから使徒としての権威が与えられたので、彼らを別格として扱うことは当然かもしれません。しかし、初代教会から始まった教会史において、特に私たちバプテスト教会の場合はどうだったでしょうか。多くの場合、聖霊の臨在を体験した信徒たちによる宣教と証しによって成長してきた教会であったことも事実です。そのため、私は生き生きとしている教会であるならば、信徒一人ひとりが日々の御言葉の黙想を通して得た恵みを、また、聖霊に満たされて体験する様々な出来事などを自然に証しし合う共同体であるべきだと思っているのです。

聖書が語る「証し」とは、キリスト者一人ひとりが、それぞれ固有の主イエスとの出会いや救いの体験、日々の生活における神からの恵みや導き、聖霊の臨在と御言葉から得た悟りや喜び、感動などを、周りの人々に伝えて神様に栄光を帰することを指します。つまり、いかに小さな出来事であっても、その中から神の恵みを見出し、具体的な神の働きと導きを人々に紹介することが証しなのです。

ここで確かめるべきことは、「キリスト者の証しの内容」です。使徒パウロは本日の御言葉を通して、「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラテヤ2:20)」と告白しています。したがって、キリスト者の証しの最も大切な内容は、「わたしを愛し、わたしのために十字架で身を献げられた神の子に対する信仰によるもの」であることを常に確かめ、十字架を意識し、それに感動し、その十字架を愛し、誇りながら生きることです。また、さらに、十字架の主イエスが復活の主として今も共に歩まれ、どんな時でもどんな問題でも恵みと勝利に変えてくださることを信じることです。

願わくは、神の家族お一人おひとりが主イエスの十字架を愛して、その十字架に感動し、どんな試練や苦しみの中でも共に歩まれる主イエスとの交わりを持ち、その十字架の愛を証しする中で「物語が生まれる教会」となれるなら、それはいかに幸いなことでしょうか。さらに、証しが活発に分かち合われる中で信徒宣教者が育てられる小泉町教会となりますように…。ハレルヤ!


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