2026年3月18日水曜日

2026.3.15 牧師室便り

 「中部地方連合総会に寄せて」

今週20日、中部地方連合の定期総会が当教会で開催されます。富山での開催は13年ぶりとなり、東海地区をはじめとする各地の教会の皆さんにとって、富山の地を訪れることは決して容易なことではありません。そんな中、今回は普段より多くの方々が参加され、また、数名の方は2階に宿泊される予定にもなっています。

私たちは迎え入れる教会として、小泉町教会の神の家族としての温かい愛とおもてなしの心をもって、皆さんをお迎えしたいと願っています。

中部地方連合は、太平洋側の豊橋から北陸に至るまで、日本の本州を横断するように広がる地域にあります。そのため、普段はなかなか顔を合わせて交わる機会が十分になく、定期総会や交流会以外では共に集うことが難しい状況にあります。だからこそ、今回の集まりは私たちにとっても特別な恵みの機会です。

これまで中部地方連合の諸教会は、いつも小泉町教会のために執り成し祈り、私たちが困難の中にある時には支えとなってくださいました。また、協力伝道を通して共に主の働きを担ってくださっています。そのような愛と支えに感謝の思いを込めて、心からおもてなしをしたいと願っています。
どうぞ20日の定期総会には、できれば多くの方がこの集まりに加わり、それぞれに任された奉仕に力を合わせてくだされば幸いです。主にある交わり、優しい笑顔、そして親切な触れ合いを通して、中部地方連合の13の教会が主に愛され祝福されている群れであることを、共に味わう時となるように心がけましょう。
皆さん一人ひとりの姿を通して、神様の愛と恵みが豊かに現されますように。 
シャローム。

2026.3.15 本日の宣教

 『イエスの命がこの体に現れるために』

                     二コリントの信徒への手紙4:7~10節

パウロは、キリストを信じて生きるキリスト者の姿を、思いがけない言葉で表しています。「わたしたちはこの宝を土の器に納めている」と。ここで「宝」とは福音のこと、すなわちイエス・キリストによって示された神の栄光を指します。しかしそれを入れている器は、金や銀ではなく、土でできた器だと言われます。

土の器は壊れやすいものです。少し衝撃を受けるとひびが入り、落としてしまえば砕けてしまいます。パウロは、私たちクリスチャンをそのような土の器にたとえています。その通り、私たちは決して強くありません。常に疲れ、悩み、恐れ、失敗し、時には信仰さえ揺らぎます。外から見れば、とても「神の栄光を宿している器」とは思えないほど脆い存在です。

もし私たちが完全で、強く、何一つ揺るがない存在であったなら、人はその力を人間自身のものだと思ってしまうでしょう。しかし私たちが弱い器であるからこそ、そこで働いている力が神のものであるとはっきりと見えてくるのです。ここに神の働き人が備えるべき姿があるのです。・・・とりわけ本日、2026年度の富山小泉町キリスト教会の5名の執事を選ぶことになりますが、その執事に選ばれる皆さんがまず抱くべき御言葉であり、また他の神の家族が心がけるべき御心でもあるでしょう。

そこでパウロは、キリスト者の生き方を「イエスの死を体 にまとって生きること」だと言います。この言葉は、少し不思議な表現に聞こえるかもしれません。しかしこれは、キリストの十字架の道を自分の人生の中で担って生きるという、キリスト者として、しかも献身者として告白できる宣言なのです。

今、私たちはイエス・キリストの受難を覚える受難節を歩んでいますが、イエス様が歩まれた道は十字架の道でした。人々に仕え、愛し、赦し続け、その結果として苦しみを受け、十字架にかけられ、死なれました。しかしその十字架の先に、神は復活の命を備えておられました。イエス様が味わわれたその十字架の死と復活の命の恵みを、パウロ自身も同じくいただいていること、そしてその同じ神の働きが自分たちの人生の中にも現れると信じ、十字架と復活の証人として歩もうと覚悟を新たにしている宣言を、ここで語っているのです。

「イエスの命がこの体に現れるために。」

この言葉は、特別な人への言葉ではありません。弱さを抱えて生きるすべての信仰者に向けられた言葉です。私たちの壊れやすい人生の中にこそ、神の力は働きます。私たちの小さな歩みの中にこそ、キリストの命は現れます。

そのことを信じて、今日もまた、この土の器のままで歩んでいこうではありませんか。

ハレルヤ!


2026.3.15 小さな泉の恵み

 冬は秋田を思い出します。富山よりも寒く、雪が多く、空が暗く。大変な日々を過ごした秋田を思い寂しくなります。

僕は2022年5月に秋田に転勤しました。それは、昔ボランティアをした気仙沼に行くためでもありました。ただ、秋田にいたときは、体が冷たく、何かをする気力が起きず。そんなときに、たまたま平良先生の説教動画を見つけました。平良先生の声を聞くと、福岡での礼拝を思い出します。体の痛みを感じながら、この痛みの意味は何か、被災地のために何かできなかと祈っていたときのことを。僕は慣れない環境・仕事の中で、僕は2023年2月から毎月気仙沼に通いました。

2024年1月に能登半島で地震が起きたときに、僕は能登半島の近くの北陸へ転勤を希望

するか迷いました。転勤すれば今の居場所を失い、被災地へ行っても何もできないかもしれない。被災地へ行きたいという思いは叶えられてもそれ以外のものはすべて失うかもしれない。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16:24-25)。

それでも、ただただ日々の恵みに感謝しつつ神さまを信じて歩んでいきたいです。

                                  N.Y.兄

2026.3.8 牧師室便り

 「戦争とAIを見る預言者的視点 」

現在、世界はアメリカ・イスラエルによる対イラン軍事行動と、それに伴う経済的混乱の中にあります。戦争は尊い命を奪い、世界を滅亡へと導くサタンの道具に他なりません。とりわけ私が危惧しているのは、この戦争においてAI(人工知能)が自ら判断を下し、攻撃を遂行しているという現実です。かつてSF映画『ターミネーター』で描かれた恐ろしい世界が、今や目の前の現実として迫っています。

私たちは今、AIが生活の根底を支える時代を生きています。ChatGPT等の普及により利便性が向上する一方で、人型ロボットの台頭や、単純労働・知識労働がAIに取って代わられるなど、社会構造は激変しつつある現実です。この変革期において、私たちキリスト教会はAIをどう捉え、いかなる世界を築くべきなのでしょうか。

教会の使命は、単なる利便性の追求ではありません。常に預言者的視線を持って時代を見極め、神の御心を世界に指し示すことです。AIという強大な力が「効率」や「破壊」のためにのみ使われるのではなく、「人を救うため」の最善の知恵として用いられるよう、私たちは深い洞察を持ってメッセージを発信し続けなければなりません。
福音伝道の現場においても、AIを福音伝道のためにどう活用すべきかを問い直す必要があります。何よりも優先すべきは「神の御心」であり、人間の尊厳が守られることです。私たちは知恵を尽くし、与えられた技術を神の栄光のために管理する「良き管理人」として、この混迷の時代に希望の光を灯し続けていくべきなのです。シャローム。

2026.3.8 本日の宣教

 『キリストが負ったもの、私たちが受けたもの』  ~これだけは知ってもらいたい③~

                         イザヤ53章3~6節                   聖書の中心的なメッセージは、実は驚くほどシンプルです。それは「交換」の物語です。あなたが負うべきものを、別の誰かが肩代わりし、その代わりとして、あなたが本来持っていなかった最高のものを手渡される。宗教改革者マルティン・ルターは、この驚くべき出来事を指して「偉大なる交換(The Great Exchange)」と呼びました。

古くから教会はこのイザヤ書53章を「苦難の僕(しもべ)」の預言と呼び、十字架につけられたイエス・キリストの姿の中に、その成就を見出してきました。

すなわち、イエス・キリストの十字架は偶然の悲劇ではありませんでした。そこではイザヤが預言していた「わたしたちの」ものが、彼へと移されていたのです。私たちの罪、私たちの背き、私たちの自己中心、神から離れようとする心。それらすべてが、彼(苦難の僕)の上に置かれました。

まさしく、キリストによる「偉大なる交換」が私たちの身に起こったのです。もしこの恵みを確信できずにいるならば、私たちは絶えずサタンの訴えにさらされ、落胆や罪悪感に陥り、新しい人生の喜びを味わうことが難しくなってしまいます。

「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平

和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5)

この御言葉こそ、キリスト教の「偉大なる交換」の核心です。ここには、キリストが受けた悲惨な苦難と、それによって私たちが得た対照的な恵みが並べられています。

釘で打たれ、槍で突かれ、内面まで粉々に砕かれたキリスト。それは、私たちの「背き」と「咎」という重い代価を支払うためでした。また、彼が受けた懲らしめによって、私たちは神との間に「平和(平安)」を取り戻しました。もう神を恐れて逃げる必要はなく、愛される子どもとして神の前に出られるようになったのです。

その中でも、「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」という言葉は不思議です。普通、傷は痛みを呼びますが、キリストの傷だけは「癒やし」を運びます。彼が傷だらけになったのは、私たちの魂の破れを塞ぎ、元通りの健やかな姿に戻すためでした。

愛する神の家族の皆さん。もし、あなたが今「自分は価値がない」「もうやり直せない」と感じているなら、十字架を見上げましょう。神は、あなたを救うために、ご自分の独り子を「軽蔑され、砕かれる」ままにされました。あなたは、神がそれほどの代償を払ってでも手に入れたかった、かけがえのない宝物なのです。

ハレルヤ!


2026.3.8 小さな泉の恵み

私は、能登半島地震が発生した2024年1月中旬にYMCA災害支援の活動地域と宿泊拠点を調査するために、輪島市の旅館あるねぶた温泉能登の庄を訪問し、利用させて頂いてます。 

この旅館の専務はYMCAホテル専門学校の卒業生で、幸い教会の柳田での活動が始まり、翌日に富山での用事がない限り、定期的に訪問することができ、彼の両親である私と同世代の社長ご夫妻の生活や事業再建のために苦闘されている話しを聞かせて頂いています。 

旅館の建物自体の被害は比較的軽微です。ただ、深刻なのはわずかな傾きがあり、いまだに旅館の客室は、電気は通っても、上下水道の配管は遮断されて、大浴場の洗面とトイレ以外は利用できません。 温泉は約1ヶ月後に自噴が戻り、7月末にクラウドファンドで温泉施設を改修することができて、現在は地域や工事関係者の方々の癒しのオアシスになっています。 

輪島では、訪問するたびに様々な方々との不思議な出会いを与えられています。主イエス様に促され、自らの災害支援や関係法人施設の被災経験を活かし、少しでも能登支援地震で困難な中にある人々に寄り添い続けたいと思います。

                            島田 茂


2026.3.1 牧師室便り

 「 受難節、執事選挙を前にして 」

本日は3月第1主日、礼拝の中で主の晩餐式を執り行います。主イエスは、主の晩餐に先立ち、弟子たちの足を洗い、仕える者としての姿勢を示されました。そして「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない(ヨハネ13:14)」と命じられました。十字架の死を目前にした状況にあっても、誰が偉いかと争う弟子たちの姿をご覧になりながら、最も尊い姿とは「仕えること」であると、身をもって教えられたのです。

来る15日、私たちは2026年度の奉仕の先頭に立つ執事を選びます。執事(ディアコノス)とは「仕える者」「奉仕者」を意味し、新約聖書の中では「給仕する者」として用いられました。すなわち、決して階級や権威を示すものではありません。使徒言行録6章に記される最初の執事たちも、常に人々の必要に目を留め、教会の一致を守り、福音宣教が妨げられないよう陰で支える働きに徹していたことを私たちは知っています。

あらためて心に留めたいのは、執事選挙は人気投票ではないということです。能力や活動力、信仰歴の評価でもありません。教会の土台を祈りと愛をもって支える人が立てられるとき、教会は健やかに成長します。ですから、選ばれる人も選ぶ人も、祈りのうちに神の導きを求めましょう。これは単なる人事ではなく、教会の霊的成熟を映す鏡です。受難節を歩みつつ、主のへりくだりに倣い、神の家族お一人お一人が仕える者としての思いを新たにしたいと願います。

シャローム。




2026.3.1 本日の宣教

 『罪の代価となられたキリスト』 ~これだけは知ってもらいたい③~

                   ローマの信徒への手紙 3章23–25節

私たちは、あらゆるものに値段がついている世界に生きています。食料品や日用品を買うとき、できるだけ良いものを安く手に入れたいと願い、得をすれば喜びを感じます。しかし、どんなに安く手に入れた品物であっても、その背後には必ず誰かが負担した「代価」があるという事実を忘れてはなりません。聖書は、私たちの救いという計り知れない恵みにも、尊い「代価」が支払われていると語ります。

聖書は「人は皆、罪を犯した」と宣言します。これは、誰もが神の前に完全ではないという事実を突きつけるものです。その結果、私たちは「神の栄光を受けられなくなった」のです。聖書が言う「罪」とは、単なる失敗ではなく、命の源である神との関係の断絶を意味します。さらに、聖書は「罪が支払う報酬は死です」と教えます。罪には必ず支払わなければならない代価があり、その代価は「死」なのです。それは肉体の終わりだけでなく、神から永遠に引き離される魂の滅びを指します。本来、私たちは皆、死という重すぎる代価を支払わなければならない存在でした。

旧約時代、神は罪の赦しのために「いけにえ」の制度を与えられました。そこには「命をもって命を償う」という原則がありました。しかし、それは来るべき「真のいけにえ」を指し示す「影」にすぎませんでした。

そこで神は、キリスト(油注がれた者であり、真の王・大祭司・預言者である)御子イエスを、私たちの罪を償う供え物として十字架に立てられたのです。ここに福音の核心があります。私たちが支払うべきであった死の代価を、罪のないキリストがすべて背負ってくださいました。聖書は、私たちが「無償で」義とされると教えています。しかし、それは救いに「価値がない」という意味ではありません。私たちが支払う必要がないという意味での無償であり、そこには神の独り子の命という、最も高価な代価が支払われたのです。

私たちは日常のわずかな値引きに心を躍らせますが、決して自分では支払えない「永遠の命」を、神が御子の命という最高の代価をもって買い取ってくださったのです。これほどの恵みがあるでしょうか。それなのに、私たちは罪を軽んじ、この最も高価な恵みを安値にしてはいないでしょうか。

キリストは死から復活し、今も生きておられます。この主を王として迎え、自分の罪を認めてキリストの贖いを信じることが、救いへの道です。受難節にあたり、私たちはもう一度十字架を見上げましょう。そこには、私たちの罪の深さと、それをはるかに超える神の愛の深さがあります。私たちは、神の御子の命をかけてまで救われるべき「高価な存在」とされました。この恵みに感動し続け、感謝と従順をもって主とともに歩んでいきましょう。ハレルヤ!


2026.3.1 小さな泉の恵み

 「一杯の水」

私達がキリストから与えられている第一の戒めは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ」(マタイ22:37)。これと同じくらい大切な戒めが「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22:39)です。つまり隣人を愛することは神を愛することになります。私たちがよく知っている御言葉です。
では私達の隣人とは誰でしょう。家族、兄弟、地域の人、職場の人、同じ趣味を持つサークルの人、教会の人などです。では私達は愛を示しているでしょうか?どうにもならない関係だと諦めていないでしょうか?あるいは、やりたくない、できない、自分の仕事ではない、と殻に閉じこもって可能性に蓋をしていないでしょうか?近しい人が労苦しているのに、心を閉ざし、何もせず、見ぬ振りをしていなでしょうか?そのような時、私達は心から神様を追い出しています。愛の関係はもはや築かれず、良好な関係は崩れ、冷たい壁のそそり立つ関係になっていき、関係修復は難しくなっていきます。神を愛すると言い、聖書を学びながら、隣人を憎む生活をすることになります。たくさんの事や大きな事、お金のかかることをしなくてもよい。ただ、祈り、慰めの言葉や、相手への感謝の言葉を口に出し、「水一杯」を差し出す気持ちをもてば良いのではないでしょうか?福音はそうした心の中から広がっていくのではないでしょうか?
実行性のある信仰を持てるように神様に祈っていかねばと思わせられる日々です。
  
                              S.H.姉

2026.2.22 牧師室便り

 「 主イエスに促されて 」

先週は車の中で過ごす時間が長い一週間でした。金沢に二度、南砺市、そして氷見へと、それぞれ目的は異なりましたが、牧師として赴くべき確かな理由がありました。

私は日々、「イエス様だったらどうされるだろうか」と自らに問い、主の御心を最優先に歩むことを大切にしています。現在、リビングライフでマタイによる福音書を黙想していますが、そこで描かれるイエス様は、人々に深い憐れみを注ぎ、助けを必要としている人のもとへ自ら出向かれました。そのお姿に促され、私もまた「こちらから訪ねなければ御言葉を届けられない方」のもとへ向かいます。

今週は今年初めて能登の被災地を訪ね、主の愛をお伝えしてまいります。先月は伺うことが叶わず、待っておられた方々に寂しい思いをさせてしまったかもしれません。今週こそ神の愛と喜びを届けたいと願っています。

私たちはつい、自分や家族のことで心がいっぱいになりがちです。しかし、少しだけ視野を広げてみれば、私たちの言葉や差し伸べる手を待っている人が必ずいます。「イエス様ならどうされるか」と問いつつ、その問いに応えて歩んでいきたいと願っています。

また、2026年度の小泉町教会の奉仕の先頭に立つ執事を選ぶ執事選挙が告示されました。ぜひ、新しく選ばれる執事の皆さんがイエス様の御心に促され、常に主の御声に応答できるよう備えられますように…。シャローム。




2026.2.22 本日の宣教

 『 み言葉を深く味わうために 』 ~諸集会へのお誘い~

                   ➀詩編119編105章  ②ヘブライ人への手紙二3章16節

私は2000年の8月にバプテスマを受けました。しかしその頃は、まだ現役で忙しい職場におり、さらにその数年後、夫が倒れて重度の障害が残り、病院や施設の行き来が続きました。そのため、教会に行けるのは月に2回ほどで、礼拝に出るのが精一杯でした。

その後、何とか時間を工夫して毎週礼拝に行けるようになりましたが、実は、私はその時 10年以上教会に通いながら聖書をきちんと理解して読むことができませんでした。

本を読むのは子どもの頃から大好きで、海外文学、日本文学など、どんな本でも夢中で読めるのに、聖書は文字をなぞるだけで、内容が心や頭の中に入ってこないのです。

そのため、私は私を信仰に導いてくださった藤木正三先生という方の聖書解説などの本を読み、先生の目を通して聖書を理解していました。そのため自分の目と心でしっかりと読むことができなかったのです。

その数年後、ある時から毎日の祈りの中で、「どうか、自分の眼と心で聖書を読めるようにしてください」と祈っていました。いつまでもそのままではいけないと思ったからです。そして退職を機に火曜日の午前に行っている楽しい聖書の学びと金曜ディボーションにも出るよう なりました。水曜日夜の水曜祈祷会には、それより数年前に夫が倒れた時に、皆さんが何度も心を合わせて執り成し祈って下さったとお聞きした時から参加していました。

それからは、三つの諸集会で、牧師先生が毎回行われる聖書の内容の解説を聞き、み言葉の背景や文脈、言葉の意味を知る中で、少しずつ聖書が自分の中で開かれていきました。

そしてある日、聖書を読んでいると、そのページのある所で急に文字がふっと浮き上がるように見え、その箇所がまるで私に語りかけてくるように感じたのです。それは不思議な体験で、今思うと、ちゃんと読めなかった聖書のみ言葉が神様からのメッセージとして私の元に届いた瞬間だったのだのではと思っています。自分のその時の不思議な感覚と喜びは今でも忘れられません。

その後、諸集会に参加続ける中で、自分の読みと牧師先生の説明が少しずつ重なり合い、聖書が“神様からの言葉”として読めるようになっていきました。これらの経験を通して、礼拝だけでは得られない深い聖書の学びと喜びが諸集会にはあると思っています。皆さん一緒に学び、祈りませんか、イエス様が、そこで静かに待っておられますよ。   

                              瀨戸泰子


2026.2.22 小さな泉の恵み

 私が利用している福祉作業所には、クリスチャンのご夫婦がいます。

奥様は2025年10月頃から入院されていました。腸の疾患は回復し、胃ろうを固形物も食べられる形に戻していく段階にありましたが、その途中で誤嚥してしまい、12月14日14時頃、天に召されました。

今は、残されたご主人のことが心配です。教会にも行けないとのことです。私は、心が和らぐようにお祈りしています。

                             M.T.兄

2026.2.15 牧師室便り

「バランスの取れた教会共同体を心がけて」

先日、第71回日本バプテスト連盟定期総会に出席するため、浦和キリスト教会を訪れました。総会は対面とオンラインを併用して行われ、連盟諸教会の方々との久しぶりの対面での交わりは、大きな恵みと喜びでした。共に食卓を囲み語り合うことができたことも、連盟総会ならではの祝福であったと思います。

開会礼拝での宣教の奉仕から、2日間にわたる総会が始まりました。総会では、日本バプテスト連盟が現在力を注いでいる構造改革を中心に、各議案について丁寧な提案、協議、そして熱い討論がなされました。何より、それぞれの教会が大切にしているテーマに真剣に向き合っていることが伝わってきました。協力伝道の新しいあり方、宣教研究所、ハラスメント、海外宣教、予算など、焦点は多岐にわたります。その中には、深く考えさせられる議案もありました。

日本バプテスト連盟は、しばしば「左から右まで幅広い教会で構成されている」と言われます。だからこそ、各教会が何を大切にしているのかがよく見えてきます。同時に、このような多様性を持ちながら、連盟として共に歩み続けられるだろうかと考えさせられる場面もありました。

では、私たち小泉町教会はどうでしょうか。私は牧師として小泉町ト教会に赴任した当初から、偏ることのない、バランスの取れた教会形成を願ってきました。その思いは今も変わりません。礼拝、祈り、聖書の学び、伝道、信徒の交わり、そして社会に対する責任としての慈善活動など。これらが調和し、それぞれが命をもって働く教会でありたいと願っています。

もちろん、その土台にあるのはイエス・キリストの福音であり、福音伝道という教会の使命です。小泉町教会が、どの主題にも偏ることなく、どのような人でも喜んで加わることのできる共同体として整えられていくことを願っています。そして、初代教会が目指した神の国を待ち望みつつ、主イエスの来られる日に備えて歩む群れであり続けたいと祈っています。シャローム。




2026.2.15 本日の宣教

 『 鍛えられる主の御手に 』 

                         ヘブライ人への手紙12章5~7節

信仰生活の中で避けて通れないのが「鍛錬」ではないかと思います。ここで言う鍛錬とは、罪による結果としての罰ではなく、父が子を育てる愛の手です。主イエスの弟子訓練の本質も、まさにここにあると言えるでしょう。主は私たちをただ救うだけでなく、御子イエスに似た者へと形づくられるのです。

主イエスの弟子とは、主に従い、主から学び、主に似る者です。しかし私たちの古い性質は、簡単には変えられません。だからこそ主は、時に 私たちが試練の中を通ることを許されます。思い通りにいかない現実、人間関係の葛藤、忍耐を求められる状況。それらは偶然ではなく、主の御手の中で用いられる、人生におけるさまざまな訓練の場です。御言葉は教えます。「主は愛する者を鍛える」(12:6)と。ここに慰めがあります。鍛えられること自体が、私たちが神に愛される子どもである証拠だからです。

ですから、主イエスの弟子訓練とは、知識を増やすことだけではありません。人格が練られ、従順が形づくられ、キリストの御心が内に育つことです。主イエスご自身も、苦しみを通して従順を学ばれました。ならば私たちが鍛えられるのは異常なことではなく、主イエスの弟子としての道の 一部です。主は私たちを壊すためではなく、整えるために扱われます。陶器師が土を練るように、主は忍耐強く私たちを形作っておられます。

大切なのは、鍛錬の中で心を閉ざさないことです。あきらめないことです。「なぜですか」と問うだけでなく、「主よ、ここで何を学ぶべきでしょうか」と祈りながら、信仰の一歩を踏み出すことです。そこに弟子の姿勢が現れるのです。

そのとおり、試練は主イエスへの信頼を深める手段であり、祝福です。自分の力ではなく、主の恵みに頼ることを学ぶ場です。

愛する神の家族の皆さん。鍛えられる主の御手から逃げるのではなく、その御手に自らを委ねましょう。その手は厳しく見えても、釘跡の残る愛の手です。主の訓練を受け入れる者は、やがて祝福と義と平安の実を結びます。主イエスの弟子として歩む私たちの人生は、主の御手の中で、確かに完成へと導かれているのです。

願わくは、試練のただ中にいる神の家族一人ひとりが、鍛えられる父なる神の御心に                  応答できますように……。                              ハレルヤ!


2026.2.15 小さな泉の恵み

 なかなか、体調が整わず、クリスマスもお正月も礼拝に参加できませんでした。特にクリスマスは、教会の前を通るだけでもしたかったのに、病気は容赦なく襲ってきて、イヴの日も、クリスマス当日も寝床から出られませんでした。

神様が私に試練を与えてくださっていると考えるなら、それは一番弱い立場にいる人たちのことを考える機会をくださっているのだと思います。

健康だけでも取り戻したい、と焦ると、家に引きこもっていることがとてもつらくなりますが、せめて、考えることだけでも自由にしたいと思うと、日記や私なりに書いた詩が生まれてきます。そんなノ―トも何冊にもなって、私の今の大きな支えになっています。

考える自由はとても大切だし、いろんな可能性も秘めています。そんな中、考える原点は、小泉町教会で習った、聖書の教え、「いつも喜んでいなさい」「貧しきものは幸いなり」というところなのです。

教会に出会ってなければ、私はもっと辛い闘病生活を送らなくてはいけなかったでしょう。

イエス様に感謝して、ゆっくり今の与えられた環境の中で生活して行きます。

                             S.N.姉


2026.2.8 牧師室便り

 「 黄金律を実践する共同体 」

先週の月曜日、腰痛を和らげようと訪れた温泉で、思いがけない出来事がありました。サウナから出ようとした際、置いていたはずのメガネが消えていたのです。

慌ててフロントに放送を依頼し、しばらく待つと、ようやく私のメガネを手にした方が現れました。しかしその方は、私の顔を見るなり謝罪の言葉一つなく、無言のまま通り過ぎていきました。二度目に顔を合わせた時も同様でした。その時、私の心には何とも言えない冷たい風が吹き抜けました。「ごめんなさい」の一言さえあれば和やかになったはずなのに……。結局、温泉を楽しむ気分にはなれず、そのまま家路につきました。

しかし、この出来事は私に大切なことを深く考えさせてくれました。人間関係において、「ごめんなさい」「ありがとう」「嬉しい」といった言葉のやり取りが、どれほど重要であるかということです。

神の家族の皆さんはいかがでしょうか。共同体の中には、気の合う人もいれば、時には気まずさを感じる人もいるでしょう。しかし、私たちは神に赦された者として、 まず自分から温かい言葉をかける者でありたいのです。あなたの一言、あなたの笑顔が、共同体を強め、交わりを豊かにしていくからです。

黄金律を覚えていますか。 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。(マタイ7:12)」

誰かが動くのを待つのではなく、自分から与えること。挨拶を与え、感謝を与え、そして赦しを与える。私たちがそのように歩み出すとき、周囲の空気は確実に変わり始めます。そこには、神の国にふさわしい愛と喜び、慰めが満ちていくはずです。

願わくは、私たちの小さな一言、小さな行いが、神の国の美しさを映し出す鏡となりますように。シャローム。




2026.2.8 本日の宣教

 『 罪の世界から恵みを叫ぶ 』~ これだけは知ってもらいたい ②~ 

             ローマの信徒への手紙7章18~8章2節

聖書は言います。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である(ヨハネ8:34)」と。その通り、罪は私たちを縛り、自由を奪い、重い軛を負わせます。自分では自由に生きているつもりでも、内側は支配されている。それが罪の現実です。そして罪はさらに広がり、罪ある人間が生きるこの世界そのものを覆うようになりました。

2026年を迎えた今、私たちの周りに目を向けてみましょう。そこには終わりの見えない戦争、地球温暖化によって加速する気候変動と生態系の崩壊、富への欲望が生み出した極端な格差と差別、さらにデジタル技術の進化が、皮肉にも孤独と分断を深めています。

これらは単なる政治的・経済的な「失敗」ではありません。聖書的な視点で見れば、これらはすべて「罪」という根源的な病が、世界という共同体の上に噴き出した症状なのです。私たちは今、罪によって歪められた世界の只中で、息苦しさを覚えながら生きています。そしてこの外側の息苦しさは、実は一人ひとりの人間の内側から生まれた結果であることに気づかされます。

パウロは告白します。「わたしの内には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」(7:18)と。この言葉に共鳴しない現代人がいるでしょうか。

その中で叫ばれるのが、パウロの嘆きです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」…これこそ、すべての

人が経験する、罪人としての絶望の告白でしょう。しかしこの叫びは、ただの絶望ではありません。そこにはすでに、望みの方向が示されています。パウロの嘆きは神に背を向ける叫びではなく、救いを求めて神へ向かう叫びでした。この叫びこそが出発点となり、彼は自分を救う方をはっきりと指し示します。

「わたしたちの主イエス・キリストを通して、神に感謝いたします。」(7:25)

パウロは、自分ではどうすることもできない現実に打ちのめされながらも、そのただ中で救い主を見いだしたのです。だから彼の嘆きは、感謝へと変えられました。

私たちは今こそ、もう一度「恵み」を叫ぶ必要があります。それは、罪の現実から目を逸らすことではありません。むしろパウロのように、「私は惨めな人間だ」と、世界の、そして自分の闇を直視することから始まります。

しかし、その闇の深さを知れば知るほど、キリストという光のまぶしさが際立ちます。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(ローマ5:20)

今日、私たちが目にする悲劇的なニュースの数々は、実は恵みを求める世界の「うめき」にほかなりません。私たちは、そのうめきの只中で、キリストによる恵みを、共に叫びましょう。シャローム。


2026.2.8 小さな泉の恵み

 みなさんこんにちは。

名古屋在住のEです。富山県や北陸地方の天気が気になってよく確認しています。雪かきとか大変だろうなあと思います。一度住んで経験しているからでしょう。他人事とは思えないです。名古屋では雪はちらちらと降りましたが積もるほどではありません。降水量が少なく太平洋側は渇水状態です。空気は乾燥しておりちょっと油断すると喉をやられます。私は自転車通勤なので晴れの天気は冷たい雨より全然良いです。それでもそろそろ降ってくれてもいいのではと心配しています。

農業も工業も生活も生命も水はとても大切な資源です。とはいえ適量から大幅に外れると厄介です。今の宇宙船地球号はその厄介が徐々に増えているように思います。水だけではありません。だからこそ皆で力を合わせていくべきなのに、そうと分かっていながら、覇権争いまっしぐらの世の中に多くの人が嘆いているのではないでしょうか。つらつらと書いておりましたら、いよいよ愚痴になってきましたのでこの辺で。

何はともあれ神様にお前はどこにいるのかと問われたら、隠れるのではなく、はいここにおりますと答えられる準備が大事だなあってつくづく思います。皆さんの健康が守られますように。

                          E.N.兄