2026年3月18日水曜日

2026.3.1 本日の宣教

 『罪の代価となられたキリスト』 ~これだけは知ってもらいたい③~

                   ローマの信徒への手紙 3章23–25節

私たちは、あらゆるものに値段がついている世界に生きています。食料品や日用品を買うとき、できるだけ良いものを安く手に入れたいと願い、得をすれば喜びを感じます。しかし、どんなに安く手に入れた品物であっても、その背後には必ず誰かが負担した「代価」があるという事実を忘れてはなりません。聖書は、私たちの救いという計り知れない恵みにも、尊い「代価」が支払われていると語ります。

聖書は「人は皆、罪を犯した」と宣言します。これは、誰もが神の前に完全ではないという事実を突きつけるものです。その結果、私たちは「神の栄光を受けられなくなった」のです。聖書が言う「罪」とは、単なる失敗ではなく、命の源である神との関係の断絶を意味します。さらに、聖書は「罪が支払う報酬は死です」と教えます。罪には必ず支払わなければならない代価があり、その代価は「死」なのです。それは肉体の終わりだけでなく、神から永遠に引き離される魂の滅びを指します。本来、私たちは皆、死という重すぎる代価を支払わなければならない存在でした。

旧約時代、神は罪の赦しのために「いけにえ」の制度を与えられました。そこには「命をもって命を償う」という原則がありました。しかし、それは来るべき「真のいけにえ」を指し示す「影」にすぎませんでした。

そこで神は、キリスト(油注がれた者であり、真の王・大祭司・預言者である)御子イエスを、私たちの罪を償う供え物として十字架に立てられたのです。ここに福音の核心があります。私たちが支払うべきであった死の代価を、罪のないキリストがすべて背負ってくださいました。聖書は、私たちが「無償で」義とされると教えています。しかし、それは救いに「価値がない」という意味ではありません。私たちが支払う必要がないという意味での無償であり、そこには神の独り子の命という、最も高価な代価が支払われたのです。

私たちは日常のわずかな値引きに心を躍らせますが、決して自分では支払えない「永遠の命」を、神が御子の命という最高の代価をもって買い取ってくださったのです。これほどの恵みがあるでしょうか。それなのに、私たちは罪を軽んじ、この最も高価な恵みを安値にしてはいないでしょうか。

キリストは死から復活し、今も生きておられます。この主を王として迎え、自分の罪を認めてキリストの贖いを信じることが、救いへの道です。受難節にあたり、私たちはもう一度十字架を見上げましょう。そこには、私たちの罪の深さと、それをはるかに超える神の愛の深さがあります。私たちは、神の御子の命をかけてまで救われるべき「高価な存在」とされました。この恵みに感動し続け、感謝と従順をもって主とともに歩んでいきましょう。ハレルヤ!


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