『キリストが負ったもの、私たちが受けたもの』 ~これだけは知ってもらいたい③~
イザヤ53章3~6節 聖書の中心的なメッセージは、実は驚くほどシンプルです。それは「交換」の物語です。あなたが負うべきものを、別の誰かが肩代わりし、その代わりとして、あなたが本来持っていなかった最高のものを手渡される。宗教改革者マルティン・ルターは、この驚くべき出来事を指して「偉大なる交換(The Great Exchange)」と呼びました。
古くから教会はこのイザヤ書53章を「苦難の僕(しもべ)」の預言と呼び、十字架につけられたイエス・キリストの姿の中に、その成就を見出してきました。
すなわち、イエス・キリストの十字架は偶然の悲劇ではありませんでした。そこではイザヤが預言していた「わたしたちの」ものが、彼へと移されていたのです。私たちの罪、私たちの背き、私たちの自己中心、神から離れようとする心。それらすべてが、彼(苦難の僕)の上に置かれました。
まさしく、キリストによる「偉大なる交換」が私たちの身に起こったのです。もしこの恵みを確信できずにいるならば、私たちは絶えずサタンの訴えにさらされ、落胆や罪悪感に陥り、新しい人生の喜びを味わうことが難しくなってしまいます。
「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平
和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5)
この御言葉こそ、キリスト教の「偉大なる交換」の核心です。ここには、キリストが受けた悲惨な苦難と、それによって私たちが得た対照的な恵みが並べられています。
釘で打たれ、槍で突かれ、内面まで粉々に砕かれたキリスト。それは、私たちの「背き」と「咎」という重い代価を支払うためでした。また、彼が受けた懲らしめによって、私たちは神との間に「平和(平安)」を取り戻しました。もう神を恐れて逃げる必要はなく、愛される子どもとして神の前に出られるようになったのです。
その中でも、「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」という言葉は不思議です。普通、傷は痛みを呼びますが、キリストの傷だけは「癒やし」を運びます。彼が傷だらけになったのは、私たちの魂の破れを塞ぎ、元通りの健やかな姿に戻すためでした。
愛する神の家族の皆さん。もし、あなたが今「自分は価値がない」「もうやり直せない」と感じているなら、十字架を見上げましょう。神は、あなたを救うために、ご自分の独り子を「軽蔑され、砕かれる」ままにされました。あなたは、神がそれほどの代償を払ってでも手に入れたかった、かけがえのない宝物なのです。
ハレルヤ!
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