2026年3月18日水曜日

2026.2.15 本日の宣教

 『 鍛えられる主の御手に 』 

                         ヘブライ人への手紙12章5~7節

信仰生活の中で避けて通れないのが「鍛錬」ではないかと思います。ここで言う鍛錬とは、罪による結果としての罰ではなく、父が子を育てる愛の手です。主イエスの弟子訓練の本質も、まさにここにあると言えるでしょう。主は私たちをただ救うだけでなく、御子イエスに似た者へと形づくられるのです。

主イエスの弟子とは、主に従い、主から学び、主に似る者です。しかし私たちの古い性質は、簡単には変えられません。だからこそ主は、時に 私たちが試練の中を通ることを許されます。思い通りにいかない現実、人間関係の葛藤、忍耐を求められる状況。それらは偶然ではなく、主の御手の中で用いられる、人生におけるさまざまな訓練の場です。御言葉は教えます。「主は愛する者を鍛える」(12:6)と。ここに慰めがあります。鍛えられること自体が、私たちが神に愛される子どもである証拠だからです。

ですから、主イエスの弟子訓練とは、知識を増やすことだけではありません。人格が練られ、従順が形づくられ、キリストの御心が内に育つことです。主イエスご自身も、苦しみを通して従順を学ばれました。ならば私たちが鍛えられるのは異常なことではなく、主イエスの弟子としての道の 一部です。主は私たちを壊すためではなく、整えるために扱われます。陶器師が土を練るように、主は忍耐強く私たちを形作っておられます。

大切なのは、鍛錬の中で心を閉ざさないことです。あきらめないことです。「なぜですか」と問うだけでなく、「主よ、ここで何を学ぶべきでしょうか」と祈りながら、信仰の一歩を踏み出すことです。そこに弟子の姿勢が現れるのです。

そのとおり、試練は主イエスへの信頼を深める手段であり、祝福です。自分の力ではなく、主の恵みに頼ることを学ぶ場です。

愛する神の家族の皆さん。鍛えられる主の御手から逃げるのではなく、その御手に自らを委ねましょう。その手は厳しく見えても、釘跡の残る愛の手です。主の訓練を受け入れる者は、やがて祝福と義と平安の実を結びます。主イエスの弟子として歩む私たちの人生は、主の御手の中で、確かに完成へと導かれているのです。

願わくは、試練のただ中にいる神の家族一人ひとりが、鍛えられる父なる神の御心に                  応答できますように……。                              ハレルヤ!


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