『イエスの命がこの体に現れるために』
二コリントの信徒への手紙4:7~10節
パウロは、キリストを信じて生きるキリスト者の姿を、思いがけない言葉で表しています。「わたしたちはこの宝を土の器に納めている」と。ここで「宝」とは福音のこと、すなわちイエス・キリストによって示された神の栄光を指します。しかしそれを入れている器は、金や銀ではなく、土でできた器だと言われます。
土の器は壊れやすいものです。少し衝撃を受けるとひびが入り、落としてしまえば砕けてしまいます。パウロは、私たちクリスチャンをそのような土の器にたとえています。その通り、私たちは決して強くありません。常に疲れ、悩み、恐れ、失敗し、時には信仰さえ揺らぎます。外から見れば、とても「神の栄光を宿している器」とは思えないほど脆い存在です。
もし私たちが完全で、強く、何一つ揺るがない存在であったなら、人はその力を人間自身のものだと思ってしまうでしょう。しかし私たちが弱い器であるからこそ、そこで働いている力が神のものであるとはっきりと見えてくるのです。ここに神の働き人が備えるべき姿があるのです。・・・とりわけ本日、2026年度の富山小泉町キリスト教会の5名の執事を選ぶことになりますが、その執事に選ばれる皆さんがまず抱くべき御言葉であり、また他の神の家族が心がけるべき御心でもあるでしょう。
そこでパウロは、キリスト者の生き方を「イエスの死を体 にまとって生きること」だと言います。この言葉は、少し不思議な表現に聞こえるかもしれません。しかしこれは、キリストの十字架の道を自分の人生の中で担って生きるという、キリスト者として、しかも献身者として告白できる宣言なのです。
今、私たちはイエス・キリストの受難を覚える受難節を歩んでいますが、イエス様が歩まれた道は十字架の道でした。人々に仕え、愛し、赦し続け、その結果として苦しみを受け、十字架にかけられ、死なれました。しかしその十字架の先に、神は復活の命を備えておられました。イエス様が味わわれたその十字架の死と復活の命の恵みを、パウロ自身も同じくいただいていること、そしてその同じ神の働きが自分たちの人生の中にも現れると信じ、十字架と復活の証人として歩もうと覚悟を新たにしている宣言を、ここで語っているのです。
「イエスの命がこの体に現れるために。」
この言葉は、特別な人への言葉ではありません。弱さを抱えて生きるすべての信仰者に向けられた言葉です。私たちの壊れやすい人生の中にこそ、神の力は働きます。私たちの小さな歩みの中にこそ、キリストの命は現れます。
そのことを信じて、今日もまた、この土の器のままで歩んでいこうではありませんか。
ハレルヤ!
0 件のコメント:
コメントを投稿