『 罪の世界から恵みを叫ぶ 』~ これだけは知ってもらいたい ②~
ローマの信徒への手紙7章18~8章2節
聖書は言います。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である(ヨハネ8:34)」と。その通り、罪は私たちを縛り、自由を奪い、重い軛を負わせます。自分では自由に生きているつもりでも、内側は支配されている。それが罪の現実です。そして罪はさらに広がり、罪ある人間が生きるこの世界そのものを覆うようになりました。
2026年を迎えた今、私たちの周りに目を向けてみましょう。そこには終わりの見えない戦争、地球温暖化によって加速する気候変動と生態系の崩壊、富への欲望が生み出した極端な格差と差別、さらにデジタル技術の進化が、皮肉にも孤独と分断を深めています。
これらは単なる政治的・経済的な「失敗」ではありません。聖書的な視点で見れば、これらはすべて「罪」という根源的な病が、世界という共同体の上に噴き出した症状なのです。私たちは今、罪によって歪められた世界の只中で、息苦しさを覚えながら生きています。そしてこの外側の息苦しさは、実は一人ひとりの人間の内側から生まれた結果であることに気づかされます。
パウロは告白します。「わたしの内には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」(7:18)と。この言葉に共鳴しない現代人がいるでしょうか。
その中で叫ばれるのが、パウロの嘆きです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」…これこそ、すべての
人が経験する、罪人としての絶望の告白でしょう。しかしこの叫びは、ただの絶望ではありません。そこにはすでに、望みの方向が示されています。パウロの嘆きは神に背を向ける叫びではなく、救いを求めて神へ向かう叫びでした。この叫びこそが出発点となり、彼は自分を救う方をはっきりと指し示します。
「わたしたちの主イエス・キリストを通して、神に感謝いたします。」(7:25)
パウロは、自分ではどうすることもできない現実に打ちのめされながらも、そのただ中で救い主を見いだしたのです。だから彼の嘆きは、感謝へと変えられました。
私たちは今こそ、もう一度「恵み」を叫ぶ必要があります。それは、罪の現実から目を逸らすことではありません。むしろパウロのように、「私は惨めな人間だ」と、世界の、そして自分の闇を直視することから始まります。
しかし、その闇の深さを知れば知るほど、キリストという光のまぶしさが際立ちます。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(ローマ5:20)
今日、私たちが目にする悲劇的なニュースの数々は、実は恵みを求める世界の「うめき」にほかなりません。私たちは、そのうめきの只中で、キリストによる恵みを、共に叫びましょう。シャローム。
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