2025年5月15日木曜日

2025.5.11 牧師室便り

              「ゴールデンウイークの驚くべき恵み!」

ゴールデンウィーク中、韓国から来た後輩に富山の見せたい観光地を訪ねた後、最後に温泉に行きたいとの要望もあり、私が大好きな「グリーンパーク吉峰 温泉ゆ~ランド」へ案内しました。ところが、入浴後に後輩が「鍵を忘れてしまいました」と言い出し、大慌てで20分ほど探すことに。無事に見つかり、安心して帰路につきました。

ちょうどA姉のお宅の前を通りかかったので、気になって車をゆっくり走らせていると、なんとA姉がお部屋の方から出てこられる姿を見かけたのです。驚きながら車を止め、急いで駆け寄りました。以前息子さんからA姉の認知症が進んでいるとの話を聞いていたため、「私のこと、覚えておられますか?」と声をかけると、姉妹は笑顔で「何を言っているの、先生じゃない」と応えてくださいました。

教会のみんなが心配して祈っていることをお伝えし、また最近の出来事についてお話ししました。姉妹も、デイサービスに通いながら過ごしておられる日々の様子を語ってくださいました。「日曜の礼拝だけでも、息子さんにお願いして教会に来られたら…」と伝えると、「いえ、私の方から教会に行きます」と力強くおっしゃったのです。その元気な姿に、以前より回復された様子を見て、本当に安心しました。

帰り道、後輩に「ありがとう」と感謝の言葉をかけながら、万事を益とされる神の導きに心から賛美をささげました。もし後輩が温泉に行きたいと言わなければ、鍵を忘れなければ、この再会はなかったでしょう。わずかな出来事の「ずれ」がもたらした、主の不思議なご計画でした。

 「主のなさることはすべて時にかなって美しい」(コヘレト3:11)。この御言葉の通り、私たちの生活の中には、主の恵みと導きが確かに働いています。思いがけない出来事の中にも、神の愛が満ちています。これからも互いに愛し合い、とりなし祈りながら、主の恵みに共にあずかってまいりましょう。シャローム!



2025.5.11 本日の宣教

 『 忍耐する人は幸いです 』

                   ヤコブの手紙 5章 7~11節

わたしたちは、日々の生活の中でさまざまな試練や困難に直面します。ときには、祈ってもすぐに答えが得られず、神の導きが見えないと感じることもあるでしょう。しかし、聖書は繰り返し、私たちに「忍耐すること」の大切さを教えています。

ヤコブはまず、農夫の姿を例に挙げて忍耐を教えています。農夫は種を蒔いた後、すぐに実を刈り取ることはできません。早い雨、遅い雨を待ちながら、時が来るまで備えて待ち続けます。このような農夫の「待つ」という姿勢は、ただ何もしないのではなく、備えながら信じて待つ姿勢です。「あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです(8節)」

特にヤコブは、主の再臨が迫っていることを信じているキリスト者だからこそ、今日という日を希望をもって忍耐すべきであることを教えています。初代教会の信徒たちは、主の再臨を待ち望みながら「マラナ・タ」と挨拶を交わしていました。信仰における忍耐とは、単なる我慢ではありません。それは、神が必ず御業を成し遂げてくださると信じ、確信を持って歩むことです。私たちの心が弱くなるとき、「心を固く保って」主の再臨という希望を思い起こし、信仰を強めることが大切です。

続けてヤコブは、「忍耐する人の持つべき姿勢」について教えています。忍耐の中で最も試されるのは、周囲の人々との関係です。困難な時期には、つい他人を責めたり、比較してしまいがちです。しかし、ヤコブは「互いに不 平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます(9節)」と語り、神の前に正しい態度を持つよう促しています。不平やつぶやきは、喜びや感謝を失わせ、共同体を揺るがすことになります。

ヤコブは最後に、忍耐の模範として預言者たちとヨブを挙げて説明します。旧約聖書の預言者たちは、神の言葉を語るがゆえに迫害され、試練に遭いました。しかし、彼らは神への信仰を捨てることなく、最後まで忍耐しました。たとえば、エレミヤは神の言葉を忠実に語ったために迫害されましたが、最後まで神に仕え続けました。また、ダニエルも試練の中で神に忠実でした。獅子の穴に投げ込まれるという極限の状況でも、彼は信仰を曲げることなく神を信頼し続けました。ヨブもまた、極限の試練に遭いながら最後まで神を信じ抜きました。その結果、神は彼を豊かに祝福されたことを、聖書は証ししています。

このように、聖書には多くの忍耐の模範が示されています。私たちも、どんな困難の中にあっても、聖書に登場する信仰の先人たちのように、神の憐れみを信じて忍耐するならば、必ず神の祝福を受けることになります。そのとき、主イエスは私たちに向かって、「忍耐した人は幸いです」と御声をかけてくださるでしょう。

ハレルヤ!


2025.5.11 小さな泉の恵み

 4月に風邪をひきました。とてもじゃないけど、寝込む余裕のないスケジュールをもっていたときでした。「神さま、頼むわ」と祈りながら、コロナのセルフチェックをして、“陰性”と判明したときは、助かった~。感謝!という気持ちでしたが、その風邪は“咳”をお土産に置いていきました。長引く咳・・・私の経験では、「私、もう、治らないんだ・・・」と、あきらめていると、あれ?って、咳が出なくなったりするようで・・・

それを待つとします。

暑いくらいかと思えば、寒くて震えてしまったりする今日この頃、どうか、みなさんも、気をつけてお過ごしください。

話はぜんぜん違いますが、8日のリビングライフ…神さまに従って生き抜いたアロンおじいさん、ご立派でしたね。たそがれ世代の私には、とても良いデボーションのときでした。

                              K.I.姉

2025.5.4 牧師室便り

                   「主の宮を清める喜び」

先週の火曜日、休日にもかかわらず、教会の2階に6名の有志の方々が集まり、「主の宮をきれいにしよう」という思いのもと、長らく手をつけられずにいたゴミや古い本、備品などの整理に取り組んでくださいました。

教会の60年の歴史の中で、歴代の先生方の足跡が残る物を手放すのは簡単ではありません。しかし、いつまでもそのままにしてはおけないという思いが一致し、子ども礼拝室、応接室、ゲストルームまで、丁寧に片付けと掃除、修理を進めました。

埃の中で作業しながらも、次第にきれいになっていく部屋を見て、皆の心もすっきりと整えられたように感じました。ぜひ皆さんにも、2階の新しい姿を見に行っていただきたいと思います。「新しくなる」ということの喜びを、きっと実感できるはずです。

この出来事は、私たち一人ひとりの心の状態についても問いかけているように感じました。私たちの中にも、「捨てたくても捨てられない古いもの」があるのではないでしょうか。長年染みついた考えや習慣、あるいはイエス様が喜ばれない思い、心の奥に残っている罪の問題などがあるかもしれません。しかし、私たちの体は聖霊が住まわれる神の神殿です。そうした場所にイエス様をお迎えできるでしょうか?

イエス様がエルサレム神殿をきよめられたとき、「わたしの家は祈りの家である」と語られたように、神の神殿としての私たちの日々の生活と、キリストの体なる教会として、まずは祈りによるイエス様との深い交わりのもと、古いものを手放し、新しいものが生まれるような歩みを大切にしていきたいものです。

神の家族の皆さん、日々、聖霊様と心を通わせながら、自分の内側を整え、主に喜ばれる歩みを心がけましょう。皆さんの「心の部屋」はいかがでしょうか? 今こそ、掃除のときかもしれません。シャローム!



2025.5.4 本日の宣教

 『主イエスとの 40日間の遠足  』

                       使徒言行録 1章3~5節

主イエスは十字架にかかり、確かに死なれました。しかし、三日目に死を打ち破ってよみがえられたのです。そして復活後、主イエスはすぐに天に昇られたわけではありませんでした。…「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」(使徒言行録1:3)

ここに、私たちが注目すべき素晴らしい事実があります。主イエスは、復活の栄光をただ一瞬だけ弟子たちに見せて去られたのではなく、40日にわたって共に歩み、語り、教え続けられたのです。

聖書の中で「40」という数字は、神と共に歩みながら、その臨在にあずかる期間、教えと訓練の期間、あるいは裁きと悔い改めの期間としてしばしば用いられます。しかし、本日の40日間は、主イエスと弟子たちにとって、まるで「遠足」のような特別な時間でした。

遠足とは、日常を少し離れて、特別な場所へ出かけ、共に時間を過ごし、新しいことを学び、心を新たにする旅です。とりわけ主イエスは、その40日間を通して、弟子たちがやがて帰るべき「神の国」を夢見、思い描くことができるように教えてくださいました。

それは単なる知識やイメージにとどまらず、「いつも共におられる復活の主」として、弟子たちに確かな確信を与えるものでした。食事を共にし、祈りを共にし、問いかけに耳を傾け、時に励まし、時に待ちながら、弟子たち一人ひとりの心に、神の国のビジョンをしっかりと植え付けていかれたのです。 そして主イエスは、ご自身が昇天された後も、弟子たちと新しい旅を共にしてくださる「聖霊」を待つように告げられました。

「父の約束されたもの(聖霊)を待ちなさい。(1:4)」

新しい遠足の旅は、「聖霊」というお方と共にすることになるのだと教えておられるのです。約束された聖霊は、私たちを新しくし、力づけ、導き、神の国のために生きる者へと変えてくださいます。主イエスとの40日間の遠足の目的は、まさにここにありました。すなわち、新しく始まる遠足が、「聖霊に導かれる旅」へと移り変わるということなのです。

そして同じように、私たちもまた、主と共に歩むこの「人生」という遠足の中で、日々御言葉に耳を傾け、神の国への主の約束を信じ、聖霊の力を待ち望みながら、十字架と復活の証人としての旅を進んでいくのです。

愛する神の家族の皆さん、復活の主は、40日間の遠足を終えられた後、ペンテコステの恵みとして聖霊を送ってくださいます。あなたの訓練のために備えられたこの40日間の旅を通して、ご自身が生きておられる復活の主であることを、確かな証拠をもって示され、神の国について教え、聖霊のバプテスマという恵みを与えてくださいます。とりわけ今は、「聖霊と共にする遠足の時」であることを忘れず、聖霊を待ち望むお一人お一人でありますように…。ハレルヤ!


2025.5.4 小さな泉の恵み

 ~ 隠れた奉仕にある祝福 ~

「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイによる福音書6:3-4)

 教会に静かにトイレを掃除してくださる姉妹がいます。奉仕表にはその名前は書かれていなくて、ただ「神の家族」とだけ記されています。それを見るととても心を打たれます。

こういう奉仕って目立たないし、感謝の言葉をもらうことも少ないかもしれません。

でも、神さまはちゃんと見ておられるんですね…。

 わたしたちは、つい「誰かに認められたい」とか「ライトを浴びたい」と思ってしまいますよね。

がんばっているのに誰にも気づいてもらえないと、少しさみしくなることもある。

 でも、イエスさまは「隠れたところで善を行いなさい」と言われるんですね。

 トイレの掃除は、そんな隠れた愛の行いだと思います。みんなが気持ちよく過ごせるのは、誰かが見えないところで支えてくれてるから。

 わたしの奉仕も、神さまに捧げるように心を込めて行いたいと思います。

 そして、いつも綺麗にしてくださる姉妹に感謝します。あなたの支えが、わたしに神さまの愛を感じさせてくれています♡

                              A.M.姉


2025.4.27 牧師室便り

                   「新たな航海を期待しつつ」

先週の木曜日、2025年度最初の「小さな泉のカフェ」に出かけました。今回は小泉町教会のメンバー11名に加え、中部地方連合の新会長である平原教会の谷笠先生もご一緒くださり、総勢12名での訪問となりました。いつものように柳田公民館の職員の皆さんから温かく迎えていただき、無事にカフェを開催できたことを感謝します。

今回は、従来の「炊き出し形式」ではなく、落ち着いたカフェのような雰囲気づくりに挑戦しました。来場者の皆さんには最初から席に着いていただき、テーブルには料理やお花、ランチョンマットを用意し、「大切なお客さまとして迎えられている」と感じていただけるよう心がけました。その結果、想像以上に喜んでいただき、歌や語らい、ハンドマッサージなどを通して温かな交わりの時が与えられました。すべてを導いてくださった神様に栄光をお返しするとともに、様々な疲れを覚えながらも心からの奉仕をしてくださった皆さんに心から感謝します。

この経験を通して改めて示されたのは、小泉町教会の歩みが、決められた計画をこなすよりも、その時々に聖霊の導きを求め、祈りつつ最善を作り出していく姿勢の大切さでした。

本日は定期総会が開催されます。2025年度の小泉町教会の航海が、聖霊の導きに敏感に応答し、恵みの波に乗って生き生きと進む一年となりますように。また、神の家族お一人おひとりが、互いに熱く愛し合いながら、生きた礼拝者として祈り、仕え、励まし合う、主の喜びとなる教会を共に作り上げてまいりましょう。シャローム!



2025.4.27 本日の宣教

 『イエスがされたとおりに 』

                 ヨハネによる福音書13章15節

本日は、富山小泉町キリスト教会の2025年度定期総会の日です。昨年一年間の歩みを守り、助け、祝福してくださった神を心から賛美いたします。また、神の家族の信仰とご奉仕、そして支えに、心より感謝申し上げます。

昨年度は、元日に発生した能登地震により、教会の働きにも大きな変化がもたらされた一年でした。私たちは、「神が私たちの教会に何を望んでおられるのか」と問いかける中で、「今、試練の中にある人々に主の憐れみを届けなさい」という御心を示され、「主の憐れみを生きる教会」という標語のもと、主の御心に従って歩み続けた一年であったと言えるでしょう。

新たに始まった2025年度も、昨年度に続き「主の憐れみを生きる群れ」として、主の御心に従い、主のご計画を実践していく歩みを続けたいと思います。愛なる神は、小泉町教会の群れを、時にかなって最善の道へと導いてくださると信じています。そのためにも、神の御心を見失わず、人間的な思いや頑張りで先走ることのないよう、常に聖霊の助けを祈り求めながら、一歩一歩進んでいきたいものです。

本日与えられた御言葉は、主イエスが十字架にかけられる前の晩、最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗われた後に語られた言葉です。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように と、模範を示したのである。(ヨハネ13:15)…“イエスがしたとおりに”…何度も読み慣れている御言葉ですが、今年の受難週を過ごす中で、私の心に格別に迫ってきました。

依然として、世界では地震などの自然災害が絶えず、戦争や紛争も続いています。さらに、物価の高騰や経済の悪化も予想される中、小泉町教会の財政や活動が壁にぶつかることもあるかもしれません。しかし、これまでと同じように、すべてをご存知の主は、思いもよらない奇跡や新しい御業を通して、私たちに祝福を注いでくださるはずです。すべてを新しくし、常に新しい道を開かれる神を信頼し、信仰の歩みを続けたいと願います。

何よりも、教会形成の中心である「礼拝」を第一としつつ、「祈り」「御言葉の学び」「交わり」「伝道」「慈善」という六つの柱をしっかりと立てることによって、2025年度がさらに強められ、祝福された一年となるよう願っています。

そして最後に、この一年間を通して、神の家族お一人おひとりが、その瞬間瞬間に「イエス様だったらどうされるか(WWJD)」と問いかけながら、「主イエスがされたとおりに」生きる中、神の栄光と愛、そして恵みをこの地に表すことができるよう共に信仰の手をつないで歩んでまいりましょう。

アーメン、ハレルヤ!


2025.4.27 小さな泉の恵み

 ~ 母の召天 その2~

亡くなって2か月が過ぎた今、まだまだ寂しい気持ちはありますが、いつまでも悲しんで前に進まないのは神の摂理に反することであり、神様も喜ばれない行為であると私は思います。おそらく、二人の姉もそう思っていると思います。

母の最期は本当に穏やかでした。体は弱って不自由だったとは思いますが、苦しんだり、痛がったりする姿は殆ど無かったと思います。穏やかに平安に亡くなっていく母に私は、子供として最後のお願いをしました。「お母さん、最後の僕のお願いを聞いて下さい。どうか、まだイエスキリストの恵みを知らない僕の子供たちと妻に仰を持つ機会が与えられるように祈って下さい。」その2日後の夜、富山在住の姉から、母の様態の急変の知らせが届き、京都在住の姉夫婦と富山へ向かう途中、母は息を引き取りました。


                                   T.K.兄

2025.4.20 牧師室便り

                  「いつか再会する日を待ち望む」

毎年この時期は、イースターと教会の総会が重なることもあり、教会名簿を確認する機会があります。

18年前に私が富山に来てから交わってきた方々については大体のことは把握していますが、それ以前にこの教会で信仰生活を送っておられた方々、とりわけ長らく教会から離れておられる方々については、お顔もお人柄もわからないままです。

何度かご自宅を訪ねたり、毎月お手紙や週報をお送ったりもしてきましたが、お返事をいただけたのはほんのわずかでした。今、皆さんがどのように過ごしておられるのか……。すでに天に召された方もおられれば、また再びお会いできる方もおられるでしょう。そして地上では再会が叶わない方もおられるかもしれません。それでも私は信じています。たとえ地上で会えなくとも、主イエスが約束してくださった神の国において、私たちは復活の体をいただき、再びお会いできると。みんながキリストと同じ栄光に輝く姿に変えられ、互いの復活を喜び合うその日を、心から待ち望んでいます。

最近、特に父母に会いたいという思いが強くなっています。その理由は、親から計り知れない愛を受けた息子でありながら、親に対して十分なことができなかったという後悔があるからでしょう。

それでも、すべてを超えて神の国で再会できるという確信が、どれほど大きな慰めと希望であるかを、あらためて感じながら過ごしている復活の季節の日々です。

シャローム!



2025.4.20 本日の宣教

 『なぜ、復活の主を死者の中に捜すのか』

                        ルカによる福音書24章1~8節

キリスト教は「復活の宗教」とよく言われます。この「復活の宗教」という言葉が示しているのは、それだけ「復活」という事柄が、キリスト教の中で非常に重要な位置を占めているということでしょう。もし復活を取り除いてしまえば、キリスト教はその土台を失ってしまい、成り立たなくなります。それほどまでに「復活」は、キリスト教の礎であり、核心となる極めて重要な事実なのです。

そしてそれは、キリスト教の土台であるというだけでなく、私たち一人ひとりの人生の土台でもあり、私たちの人生は復活信仰の上に築かれているのです。

聖書が語る復活に関するメッセージは、大きく分けて二つあります。第一は、「復活は歴史的事実である」ということ。第二は、「だからあなたたちも復活するのだ」という約束がそれです。つまり、私たちも復活するし、この復活には実際的な力があるというのです。

主イエスが十字架で息を引き取られたとき、弟子たちは失望し、散り散りになりました。しかし、イエスに従っていた婦人たちは、安息日が明けるとすぐに香料を持って墓へ向かいました。彼女たちの行動には、イエスを慕う愛と献身が表れています。しかし、確かに彼女たちは「死んだイエス」を求めて墓に行ったのであって、彼女たちの信仰は、まだ復活を受け入れることができていなかったのです。

墓が空であることに困惑する婦人たちの前に御使いが現れ、こう語ります。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」この言葉は、復活の事実を示すと同時に、信仰のあり方を問いかけています。彼女たちはイエスの死 を受け入れていましたが、以前主イエスから聞いていた復活の出来事を信じることができていませんでした。

御使いは、主イエスがかねて語っておられた言葉、「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」(7節)というお話しを思い出させます。そうです。信仰とは、単に知識を持つことではありません。主イエスの言葉を信じ、それに生きるということです。私たちも、時に神の約束を忘れ、不安や恐れの中で迷ってしまうことがあります。しかし、神の御言葉は決して変わらず真実です。主が「復活する」と約束されたなら、それは必ず成就するはずです。

婦人たちは、御使いの言葉を聞いた後、主イエスの言葉を「思い出した」と記されています。彼女たちは、主イエスの語られたことを再び心に刻み、希望を持つことができました。この主イエスの言葉を「思い出す」という行為は、信仰の回復と奇跡へとつながります。

愛する神の家族の皆さん。私たちは、人生の困難や試練の中で神の約束を忘れがちです。しかし、主イエスの御言葉を思い起こすとき、信仰は新たにされていくのです。今私たちがすべきことは、死の墓を探し求めることではなく、復活の約束くださって、今も生きて働かれる主を信じ、共に歩むことです。

本日は故T姉の納骨式を執り行うためにお墓に向かいます。ぜひ、心に刻むべきは、お墓は死の場所でなく、復活と命の場所であるということです。ハレルヤ!


2025.4.20 小さな泉の恵み

 ~ 母の召天 その1~

亡くなる3日前に「お母さん今まで有難う。お母さんの子供で生まれてきて本当に幸せだった。」と伝えられて本当によかった。2/8~2/11までの4日間、休暇を取って富山赤十字病院で布団をレンタルして看病しながら、母と最期の時間を過ごしていました。赴任先の大阪へ発つ直前に母の手を握りしめながら、私は大泣きしてこの言葉を母に伝えることができました。まだ、あと2、3回は会えるだろうという反面、もしかしたら会えるのがこれで最期かもと思い感謝の言葉を伝えました。

私は、世界一のマザコン男で、子供の時ずっと母の死がいつかくることを恐れて生きてきた といっても過言ではありません。ですので、母の体に癌が見つかり、医師から母の余命があと1、2か月と言われても、どこかでまだまだ生きるだろうと思っていたのかもしれません。

しかし、私はキリスト者の端くれであり、聖書に記されて「永遠のいのち」の真理を心に受け止めていますので、母の死は、単に肉体を脱ぎ捨てただけで、魂は永遠に生き続けるのだと信じています。生きとし生けるものは全て死ぬことは、神の摂理です。

  ~ その2に続く~

                           T.K.兄

2025.4.13 牧師室便り

                   「受難週に思うこと」

アメリカのトランプ大統領が就任して以来、世界は大きな混乱に陥っています。「アメリカ・ファースト」という方針のもと、貿易戦争が世界各地で繰り広げられています。しかし、それだけではありません。戦争は依然として続き、自然災害も重なって、世界経済や人々の生活は次第に追い詰められています。

このような経済危機の中で、最も苦しむのは富裕層ではなく、一般庶民、特に貧しい人々です。彼らにとって命綱となる生活の基盤が、今まさに断たれようとしているのです。目を開ければ、電気代・水道代・ガス代が軒並み上がり、私たちの主食であるお米の価格も昨年の2〜3倍に高騰し、食事をとることさえ困難になってきています。

まるで、聖書に記されている「マナ」のような、神からの恵みを求める時が来ているように感じてなりません。荒野を旅したイスラエルの民は、神の恵みによって40年間、毎日マナを受け取り、生き抜くことができました。神は必要な分だけのマナを日々与え、多く集め過ぎると腐ってしまいました。また、子どもや高齢者、病人のように自分で取りに行けない人のために、他の者が代わりに集めることも許されていました。

そこには、「皆が等しく分かち合い、日々の糧そのものが神の恵みである」という深い教えが込められています。

現代の世界はまさに、主イエス様が語られた「終わりの時」、すなわち国が国に、民族が民族に敵対し、愛が冷えていく時代へと進んでいるように思えます。

受難週を迎えるにあたり、神の家族一人ひとりが、世界の人々や国々に向けて、すべての人が神に愛される子どもであり、御子イエス・キリストの命という尊い贈り物を与えられた存在であること、そしてその人々が属する国々もまた救いを必要としていることを心に留め、十字架の証人として歩んでいきたいものです。シャローム!



2025.4.13 本日の宣教

 『 十字架につけられた私 』

                  ガラテヤの信徒への手紙2章19~21節

受難週を迎えた神の家族の皆さん、イエス・キリストはゴルゴタの丘において、私たちの身代わりとなり、神の小羊として、私たちの痛み、弱さ、汚れ、すべてをその身に背負い、とりなし、そして贖ってくださいました。その方の贖いの死ゆえに、私たちは新しい命を与えられ、神の子どもとされるという恵みの特権にあずかっているのです。

このことを心に深く刻みつつ、日々、イエス・キリストの十字架に自分の弱さを釘付けにしていくべきです。そして、自分の力ではどうすることもできないときには、十字架のイエス・キリストを見上げつつ、私たちの内におられる聖霊の助けと憐れみ、その働きをいただいて歩んでいくのです。

本日、パウロは、私たちクリスチャンについて、イエス・キリストの十字架の上で、私たちもイエスと共に釘付けにされたと告白しています。このことこそ、私たちの古い自分がイエス様と共に死んだ、という真理を表しています。そして、このことを信じる者には、神の子とされる特権が与えられます。

つまり、かつて罪と欲望の奴隷として生きていた私たちは、今やイエス・キリストの十字架の贖いの血と、私たちの身代わりとなって死んでくださったその命のゆえに、罪の奴隷から神の子どもへと作り変えられたのです。ですから、「古い自分が死んだ」「イエスと共に釘付けにされた」ということを心か ら信じつつ、日々の生活の中でその新しい命に生きることが、私たちに求められているのです。

しかし、どうでしょうか?私たちは本当に主イエスと共に死んだのでしょうか? 口ではそのように告白していても、実際には、古い自分、とりわけ私たちがつまずきやすく、神の御前でさらけ出されてしまうような部分が、今もなお力を持っていることに気づかされます。

そこで必要なのは、今日パウロが語っているように、私が今、肉にあって生きているのは自分のためではなく、私を贖い、愛し、命を捨ててくださった主イエスのために生きる、ということです。

主の十字架に自分の弱さを釘付けにし、どのような生活の中にあってもイエス・キリストを見上げながら、主に喜ばれることを日々生きていく…。そして、私たちのために命をかけてくださったその愛に感謝しつつ、私たちもイエス・キリストに、自らの最善の愛をもって応えていく、それこそが、十字架につけられた私たちのあるべき姿なのです。

どうか今日、もう一度キリストの十字架の前に立ち返りましょう。そして「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」と告白しつつ、私たちを愛し、命を献げてくださった神の子キリストの恵みを、無駄にすることのない日々を歩めますように…。ハレルヤ!


2025.4.13 小さな泉の恵み

 上京して4年、皆様の祈り·応援、主の導きにより充実した  生活を送っております。とはいえ東京の生活には未だ慣れないところもあり、週末には心身ともに疲労困憊の状態です。その為、ある時期には笑ったり、喜んだりすることが極端に減っていました。

そんなある日曜日、珍しく予定がなかったので調布市にある、教会に行ってみることにしました。その教会で印象に残ったものは皆さんの笑顔です。私を歓迎する時、讃美歌を歌う時、食事をする時、子供·青年·年配の方々は絶えず笑顔でした。そして私も自然と笑顔になっていました。

「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」    

                   テサロニケの信徒への手紙-5:16~18

いついかなる時でも喜び、祈り、感謝する。とても単純ですが大事なことを思い出させてくれました。主に感謝します!ハレルヤ!

これからも応援よろしくお願いします!! 

                              K.N.兄

2025.4.6 牧師室便り

                  「涙と共に希望の種まきを」

先週の木曜日、2024年度最後の「小さな泉のカフェ」を開きました。この一年を振り返ると、「小さな泉のカフェ」を通してどれほど大きな恵みがもたらされたかを思わずにはいられません。 すべてを導き、満たしてくださった父なる神に、心から賛美をささげます。

特に今回は、「小さな泉のカフェ」を終えた後、地震の被害を最も多く受けた町野町を訪れることができました。数ヶ月ぶりに訪れた町は、崩れ落ちた家々がかなり解体され、整備が進んでいました。しかし、いまだに傷跡がそのまま残る家々や道路、そして山の姿は、一年前の地震の悲惨さを物語っていました。

多くの家が解体された中、遠くの畑で一人の年老いた女性が黙々と耕している姿が目に入りました。その背後には、崩れ落ちた家がそのまま残っていました。その光景を見て、何とも言えない感動を覚えました。まるで絶望しか残っていないかのような町の中で、彼女は畑を耕している…。彼女はどのような思いでその手を動かしていたのでしょうか。その姿を見ながら、詩編126編の言葉が心に浮かびました。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる(5-6節)」

愛なる神が、この町の人々や能登の被災された方々に希望を与えてくださいますように。彼らの涙を拭い去り、希望の実を結ばせてくださいますように。そして、「小さな泉のカフェ」がその働きのために用いられますように。

私たち富山小泉町キリスト教会も、2025年という新しい一年の歩みを始めようとしています。どんな試練があろうとも、どんな涙を流すことがあろうとも、やがて神が喜びの実を結ばせてくださることを信じて、共に恵みの畑へと出かけてまいりましょう。シャローム!



2025.4.6 本日の宣教

 『 イエスのおられるところ』

                 (ヨハネによる福音書12章20~26節)

イエス・キリストが十字架へと向かう最後の時を迎える中で、ギリシア人たちが「イエス様にお目にかかりたい」と願い出ました。ここで登場するギリシア人たちは、単なる観光客ではなく、ユダヤ教に関心を持ち、イスラエルの神を礼拝するためにエルサレムに来ていた「神をあがめる者」たちでした(使徒言行録17:4, 17参照)。彼らは真理を求める者であり、主イエスについての噂を聞き、主イエスの弟子の一人であったフィリポに近づき、「イエスにお目にかかりたい」と願い出ました。そこで、フィリポはアンデレに相談し、二人で主イエスのもとに行き、経緯を話しました(21~22節)。

この出来事は、単なる歴史的な記録ではなく、主イエスの福音がイスラエルを超えて、すべての人に開かれていく普遍性を示しています。すなわち、主イエスはユダヤ人だけでなく、すべての民族の救い主であり、ギリシア人の求めもまた、神のご計画の中で重要な意味を持っていたのです。まさしく、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)という御言葉の成就でもありました。

フィリポとアンデレの話を聞かれた主イエスは、突然次のように語られます。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(23~24)」 この「一粒の麦」は、主イエスご自身を指しています。今は春、種まきの季節です。一粒の麦が地に蒔かれると、それは死んでしまいますが、やがて豊かな収穫をもたらします。同じように、主イエスが十字架で命を捨てることによって、多くの人が救われるのです。

また、これは私たちにも適用される原則です。私たちが自己中心的な生き方を捨て、神に身を委ねるとき、真の命が生まれ、実りがもたらされます。主イエスの言葉は、十字架の必然性と、その先にある復活という実りを示しているのです。

最後に、主イエスは私たちにこう迫られます。

「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。」(26節)…「イエスのいるところ」とは、一粒の麦が死ぬところ、主イエスの足跡に従うところを意味します。主イエスは常に貧しい者、病める者、罪人のもとに仕える者としておられました。私たちが本当に主イエスに仕えたいと願うなら、主イエスがおられるところに自らの身を置く決断が求められます。

2025年度を始めるにあたり、神の家族お一人お一人の歩みが常に「主イエスのおられるところ」に立つことを心がけつつ、喜んで主に仕える日々を過ごすことができますように…。ハレルヤ!


2025.5.4.6 小さな泉の恵み

 桜咲く4月と共に新しい年度が、まためぐってきました。  

今、週報を作る奉仕を河内いくみ姉と月交代でしています。K姉は奇数月、私は偶数月を受け持っています。

毎年、年度の変わり目に、K姉は奇数月3月最終の週報のタイトル横にある通しナンバーに締めくくりの「No.52」を入れ、私は新年度の4月最初の週報に「No.1」を 入れます。私は毎年このNo.1を入れるたびに、とても神聖な気持ちになり、大きな恵みを頂いています。年度締めくくりの  No.52を入れられるK姉は年度末の多忙な中で、恵みと共に感慨深くナンバーを入れておられるのではと思っています。

今、世界は混とんとして不穏な空気が漂っています。しかし、光であるイエス・キリストを信じる私たちは今の薄暗い世界の中にあってもイエス・キリストの十字架の贖いと蘇りの信仰によって、光の中にとどまる恵みを与えられています。

新年度の歩みを始める小泉町キリスト教会が、皆心を合わせて主の導きにより平和の使者として歩んでいけますように。イエス様の光の恵みを知らせることができますように

                              S.Y.姉