2025年5月15日木曜日

2025.4.13 本日の宣教

 『 十字架につけられた私 』

                  ガラテヤの信徒への手紙2章19~21節

受難週を迎えた神の家族の皆さん、イエス・キリストはゴルゴタの丘において、私たちの身代わりとなり、神の小羊として、私たちの痛み、弱さ、汚れ、すべてをその身に背負い、とりなし、そして贖ってくださいました。その方の贖いの死ゆえに、私たちは新しい命を与えられ、神の子どもとされるという恵みの特権にあずかっているのです。

このことを心に深く刻みつつ、日々、イエス・キリストの十字架に自分の弱さを釘付けにしていくべきです。そして、自分の力ではどうすることもできないときには、十字架のイエス・キリストを見上げつつ、私たちの内におられる聖霊の助けと憐れみ、その働きをいただいて歩んでいくのです。

本日、パウロは、私たちクリスチャンについて、イエス・キリストの十字架の上で、私たちもイエスと共に釘付けにされたと告白しています。このことこそ、私たちの古い自分がイエス様と共に死んだ、という真理を表しています。そして、このことを信じる者には、神の子とされる特権が与えられます。

つまり、かつて罪と欲望の奴隷として生きていた私たちは、今やイエス・キリストの十字架の贖いの血と、私たちの身代わりとなって死んでくださったその命のゆえに、罪の奴隷から神の子どもへと作り変えられたのです。ですから、「古い自分が死んだ」「イエスと共に釘付けにされた」ということを心か ら信じつつ、日々の生活の中でその新しい命に生きることが、私たちに求められているのです。

しかし、どうでしょうか?私たちは本当に主イエスと共に死んだのでしょうか? 口ではそのように告白していても、実際には、古い自分、とりわけ私たちがつまずきやすく、神の御前でさらけ出されてしまうような部分が、今もなお力を持っていることに気づかされます。

そこで必要なのは、今日パウロが語っているように、私が今、肉にあって生きているのは自分のためではなく、私を贖い、愛し、命を捨ててくださった主イエスのために生きる、ということです。

主の十字架に自分の弱さを釘付けにし、どのような生活の中にあってもイエス・キリストを見上げながら、主に喜ばれることを日々生きていく…。そして、私たちのために命をかけてくださったその愛に感謝しつつ、私たちもイエス・キリストに、自らの最善の愛をもって応えていく、それこそが、十字架につけられた私たちのあるべき姿なのです。

どうか今日、もう一度キリストの十字架の前に立ち返りましょう。そして「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」と告白しつつ、私たちを愛し、命を献げてくださった神の子キリストの恵みを、無駄にすることのない日々を歩めますように…。ハレルヤ!


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