2025年5月15日木曜日

2025.4.6 本日の宣教

 『 イエスのおられるところ』

                 (ヨハネによる福音書12章20~26節)

イエス・キリストが十字架へと向かう最後の時を迎える中で、ギリシア人たちが「イエス様にお目にかかりたい」と願い出ました。ここで登場するギリシア人たちは、単なる観光客ではなく、ユダヤ教に関心を持ち、イスラエルの神を礼拝するためにエルサレムに来ていた「神をあがめる者」たちでした(使徒言行録17:4, 17参照)。彼らは真理を求める者であり、主イエスについての噂を聞き、主イエスの弟子の一人であったフィリポに近づき、「イエスにお目にかかりたい」と願い出ました。そこで、フィリポはアンデレに相談し、二人で主イエスのもとに行き、経緯を話しました(21~22節)。

この出来事は、単なる歴史的な記録ではなく、主イエスの福音がイスラエルを超えて、すべての人に開かれていく普遍性を示しています。すなわち、主イエスはユダヤ人だけでなく、すべての民族の救い主であり、ギリシア人の求めもまた、神のご計画の中で重要な意味を持っていたのです。まさしく、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)という御言葉の成就でもありました。

フィリポとアンデレの話を聞かれた主イエスは、突然次のように語られます。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(23~24)」 この「一粒の麦」は、主イエスご自身を指しています。今は春、種まきの季節です。一粒の麦が地に蒔かれると、それは死んでしまいますが、やがて豊かな収穫をもたらします。同じように、主イエスが十字架で命を捨てることによって、多くの人が救われるのです。

また、これは私たちにも適用される原則です。私たちが自己中心的な生き方を捨て、神に身を委ねるとき、真の命が生まれ、実りがもたらされます。主イエスの言葉は、十字架の必然性と、その先にある復活という実りを示しているのです。

最後に、主イエスは私たちにこう迫られます。

「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。」(26節)…「イエスのいるところ」とは、一粒の麦が死ぬところ、主イエスの足跡に従うところを意味します。主イエスは常に貧しい者、病める者、罪人のもとに仕える者としておられました。私たちが本当に主イエスに仕えたいと願うなら、主イエスがおられるところに自らの身を置く決断が求められます。

2025年度を始めるにあたり、神の家族お一人お一人の歩みが常に「主イエスのおられるところ」に立つことを心がけつつ、喜んで主に仕える日々を過ごすことができますように…。ハレルヤ!


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