『 神の臨在の中を歩む 』(詩編1:1~6)
田口昭典牧師(金沢キリスト教会)
詩篇第一編はそのヘブライ語聖書原典において、「このような人は幸いである」という宣言から始まります。この宣言は神の約束でもあります。私たちは日々苦闘しており、様々な問題に取り囲まれています。「私は幸いである」とはなかなか言えない現実があります。しかし、今日!神は聖書の御言葉を通して私に、そしてあなたに、皆さんに語りかけておられるのです。あなたは幸いだ!あなたは幸いな日々を送ることができる。あなたは幸いな人になるのだ、と。
このみ言葉は、神からの問いかけでもあります。あなたはどこにいるのか?と。神と共にいるか、神と関係なく生きているか?と。神の言葉に思いを馳せ、思い巡らすことが神と共に歩むことなのである。神の懐に生き、神の御手の中に守られている人は幸いだ。その人は、神の言葉に取り囲まれている。それは、同時に、神の臨在の中に生きているということである。主の母、マリアは「思い巡らす信仰」のお手本です。天使の語りかけにマリアは思いめぐらし、12歳のイエスが神殿で学者たちと話し込んでいるのを見て、思い巡らすのです。
スイスの神学者で、西南神学部の青野太潮教授の先生であったエドワード・シュバイツァー先生の日本で最初に翻訳された説教集のタイトルは、「神は言葉の中へ」でした。誠に神は、御言葉の中にご自身を現し、御言葉が聞かれるその場所に臨在されることを示していました。ですから、詩篇22:4で、「あなたは聖なる方。イスラエルの賛美を住まいとする方」と訳されるように、御言葉と賛美の只中に神は御臨在されるのです。「イスラエルの賛美の上に座しておられるあなたは聖なるお方です」という翻訳もあります。神はみ言葉、聖書が読まれ、神が褒め称えられるところにご臨在されるのです。私たちは神の民。聖書の民。賛美を愛する民。私たちは、神の臨在の中に生きるものであり、幸いの中を歩むものなのです。幸いな人、と言われている人は「夜も昼も聖書を手放さず、御言葉を読み、味わっている人」と言われています。
明治のクリスチャンに田中正造という人がいました。この人は教科書にも載っている足尾銅山の鉱毒による渡良瀬川流域の公害問題に取り組んだ人です。田中正三の先生に当たるのが新井奥遂(あらい・おうすい)です。後に文部大臣になる森有礼(もり・ありのり)が見込み、森に伴われて明治政府から派遣されてアメリカで30年間学び(1870年―1899年)、54歳で帰国。キリスト教神秘主義の影響を受けた敬虔なキリスト者で、教育者です。森は文部省唱歌を通して日本に福音を広めることを密かに目指していました。アメリカでは森の傾倒していたハリスのもとで、集団生活をし、労働と黙想の生活をしました。そこで、徹底して聖書に聞く、という信仰を持ちました。新井奥遂はいつも「聖書は仕事師の手帳」と言っており、毎日が聖書との対話のようであったようです。田中正造は決定的な影響を新井から受け、聖書の教え一つを便りに、鉱毒問題に取り組み、谷中村の住民と共に日本最初の公害問題を戦いました。最後に残ったものはボロボロに読み込まれた新約聖書でした。
詩篇121:4−5に、この神はまどろむことなく、眠ることも無い、示されています。そうです、インマヌエルの神は、ひと時も私たちから離れず、私たちと共にあゆまれる神なのです。神は私たちのところに来ておられるのです。この神と共にあることを信じ、確信し、日々を過ごすことが最高の幸いなのです。
私たちは確かに、神を知っています。キリストの誕生も、キリストの十字架も、死も葬りも、そして復活、聖霊降臨まで知っています。しかし、あのクリスマスに際して、当方の占星学者たちがエルサレムを訪ねた時のことを思い出してください。祭司長や律法学者たちはキリストの誕生地ベツレヘムを見事に当てることができました。彼らはよく知っていたのです。しかし、彼らは知識として知っていましたが、そのことが事実であり、今実現したとの知らせを受けたにもかかわらず、無感動で、何一つ行動を起こそうとはしなかったのです。彼らは教えながら神と共にあることはなかったのです。聖書に精通していても、また、人にその教えを解く人でも、そのメッセージが自分の生活、人生にほとんど影響を与えることがない人もいるのです。私たちはそのようなクリスチャンではないことを願います。もしそうなら、今日から、幸いな人に帰られたいと思います。
そのために必要なことは、2節の御言葉に記されています。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」。と言われています。原文の私訳は、「彼の喜びは(楽しみは)主のトーラー(律法、戒め)の中にある」。「そして、主のトーラーにおいて(トーラーの中で)、彼は思いを巡らす」となります。思いを巡らすということは、一つのことを理解するために思いを集中することを意味します。「集中する」とは一つのことを様々な方面から検討することです。沢山のことに思いを配るのではありません。その逆で思いを集めるのです。一方は「心配」になります。そこでは、心は裂かれ、心は奪われるのです。大切なのは「集中」です。聖書を教えを愛し、集中し、思いめぐらし、今、ここに神はおられるという喜びと確信を持って歩みましょう。